模擬戦:夜刀夕の腕っぷし
午後八時。夕たちは、市内外れの廃ビル内に移動していた。
元は何かの会社が一棟丸ごと使っていたのだろう。上の階はオフィスになっていて、捨て置かれたデスクが散乱している。
最上階は陽菜乃によって改造されていて、さながら秘密基地のセキュリティルームといった様相を呈していた。
その片隅にうずくまった夕は、屈辱に震えながらブツブツと恨み言を繰り返す。
「殺す……あの女、いつか殺してやる……!」
「服もらっておいて、文句言ってんじゃねえよ」
白夜が欠伸混じりに言った。
地下駐車場でのひと悶着の後、明日香はひとりで服を買いに行った。
辱めを受けた夕のリクエストは“女々しい服買ってきたらぶっ殺すぞ”というもの。
涙目の怒声を浴びせられた明日香は、表情ひとつ買えずに、三時間ほどで戻ってきた。
結果、夕は今、簡素な長袖の白Tシャツと、黒のタイトジーンズ、黒いパーカーにキャップ帽を着ている。
ちなみに、下着はチューブトップとスパッツ。素肌にピタリと張り付く感覚が、なんとも落ち着かない。
確かに服のチョイスに文句はない。文句はないが……。
「なんで、なんで俺があんな目に……! 下も見られた……!」
「すっかりオンナノコの恥じらいが身に付いたな」
「うるせえ!」
白夜の冷やかしに耐えかね、夕は腕ごと蛇を振り回す。
鞭のようにしなった白蛇は、しかし狙い通りの衝突音を立てることはなかった。
その辺にあった物体をすり抜けたのだ。
白夜は何事もないかのように、物体から頭を出す。
「やめとけよ、式神は霊体だ。条件がそろっていないと、物体には干渉できねえ」
「ああそうかよ。じゃあやっぱ首絞めてやった方がいいなあ、オイ!」
「ハア、よせって。式神は葬者が死なない限り、何度だって蘇るし、出し入れも自由だ。だからオレをつかんだって多分無駄だぜ」
蛇の体を鷲掴みにしようとするが、朧な輪郭は風前の灯火の如く消えてしまう。
一度姿を消した白夜は、すぐに夕の左腕に現れた。
何一つ、夕の思い通りにはならない。
こちらに背を向け、パソコンを操作していた陽菜乃が振り返る。
「式神の主導権は白夜にあるのか? それは……少し困ったかもしれないな」
「ああ?」
「ふむ。夜刀君、右腕に意識を集中してみてくれ。白夜君ではない蛇を出せないか?」
夕は白夜につかみかかるのを止め、怪訝そうに陽菜乃を見た。
何を言っているのか理解に苦しんだが、とりあえず右肘を折り曲げ、拳に力を入れてみる。
右腕に螺旋を描くような形で、白い炎が熾った。
陽菜乃が頷く。
「出せそうだな。というより、君の夜葬旭の名を聞いていなかった」
「名前……“
「いい名前じゃないか。それに見たところ、戦闘向きだ」
呟くと、右腕の炎は縄のように太くなり、もう一匹の蛇と化す。
身をもたげたそれは、白夜と違って憎まれ口を叩くことなく、青い瞳で夕をじっと見返してきた。
訳もなく直感する。右腕の蛇に、白夜は入っていないと。
白夜にもそれがわかったのか、不満そうに鳴いた。
「操れそうか?」
「なんかいけそうだけど、これがどうしたってんだよ」
「自由に操れないと困るんだ。これから食いぶちを稼ぐにしても、身を守るにしてもな」
神妙な顔つきで言う陽菜乃。
そのまなざしに晒されていると、不思議と背筋が伸びた。
きっと、授業を受けている生徒であれば、この目で見られるだけで授業に集中せざるをえまい。
「私たちは、これから葬者を捕らえようとする何者かと対峙するだろう。相手が誰かは知らないが、少なくとも私たちが暴力で敵う相手だとは考えづらい」
「だから、これを使うってことか」
「そういうことだ。ついでに、私たちは夜葬旭を用いて、ある仕事もしている。君もこれから携わることになるわけだが、夜葬旭が使えないと始まらない」
「だから、新入りを鍛えてやろうって話だよな、先生?」
部屋の扉が開き、入ってきた境兵が言葉を繋いだ。
手に下げたビニール袋を漁り、菓子パンを放り投げてくる。
白夜が器用に蛇の口でキャッチ。境兵は部屋の隅で瞑想していた明日香と、陽菜乃にも放った。
夕は白夜の口からパンを奪い、切り口をいじくる。
仕事という言葉に、いい印象は無い。
「何をさせるつもりだよ」
「そりゃ、幽霊退治ってやつだ」
「はあ?」
境兵はホットドッグを頬張りながら、胡散臭そうな顔で聞き返す夕に語った。
「だから、幽霊退治だよ。知ってるか? 棚途市は近年、心霊スポットが増えてんだ」
「まあ、聞いたことはあるけどよ……」
「心霊スポットにも色々ある。心霊スポットってのは、簡単に言えば、妖魔が住みついた場所なわけだが、俺たちは特に事故物件の解決で金を稼いでるんだ」
いつまでも包装を開けない夕に焦れて、白夜がビニールに食らいつき、引き千切る。
中に首を突っ込んで一口かじりながら、もぐもぐと解説を引き継いだ。
「妖魔ってのは、死にたくねえって言いながら死んだ奴の魂から生まれる。奴らは生存本能の塊で、行動は動物と大差ねえ。安全な縄張りを作ったり、狩場を探す。で、自分より弱い妖魔や生き物を食って力をつける」
「その縄張りってのが、事故物件だの心霊スポットだのってことか」
「大体合ってる。ちなみに、妖魔は臆病だし、基本は夜行性だ。人間を直接傷つける力はないから、大体は威嚇して追い払う程度の被害に留まる」
「信じらんねえな」
夕は白夜の首をつかんでパンから引っぺがし、蛇の噛み痕を千切って捨てる。
無事な部分を食べながら思い出すのは、
人間を直接傷つける力は無いどころか、あの怪物は人を食っていた。
同じことに思い至ったのだろう、白夜はパンを虎視眈々と狙いながら続ける。
「あの山のあいつは例外中の例外だ。あんなバケモン、早々生まれてたまるかよ」
「事故物件と言っても、幽霊の目撃証言だけで済んでいるのがほとんどだ。何もいないことも多いがね」
一足先に食べ終わった陽菜乃が席を立つ。
彼女は夕に近寄ると、白夜を撫でながら夕を見下ろした。
「ともあれ、これから先、葬者となった以上、夜葬旭を用いた戦闘は出来た方が良い。まして、白夜君の言う……仮に“葬者狩り”と呼ぶが、それら自身も葬者である可能性が高い」
「高いっつーか、葬者だよ。出なきゃ、霊体になったオレを追いかけ続けるなんて出来っこない」
「出来るだけ、情報が欲しいな。特に、この街に入るときに追ってきた狩人の話が聞きたい」
「ここ来るとき? 猫の式神に追い回されたぜ。なんとか撒いたけど」
「猫か……。まあ、それは後にしよう。今は、君たちが戦えるようになるための訓練が要る。夜刀君、喧嘩の経験は?」
「んなもん、腐るほどある」
「じゃあ、話は早い。境兵と喧嘩してくれ。その魂喰夜蛇を使って」
夕は驚いて境兵を見た。
彼の方はあらかじめ聞いていたのか、涼しい表情をしている。
それどころか、パンを嚥下した顔はやる気満々だった。
「よろしくな。女の子を殴るのはちょっと気が引けるんで、加減はするぜ」
「女じゃねえよ! っていうか、なんで喧嘩を……」
「さっきも言っただろう、その魂喰夜蛇を使いこなして戦えなければ、君が困るんだ。これから先、呑気に訓練なんてしている暇はないだろうから、今夜のうちにコツを掴んでくれ」
つらつらと説得され、とっさに反論が出てこない。
いや、それどころか……胸の奥が高鳴っているような気さえする。
夕は右腕を見下ろした。白夜ならぬ白い蛇が、ちろちろと舌を出してこちらを見ている。自分の意思で動くのだと、当たり前のことであるかのように理解できた。自分の腕を自分で動かせることを、誰に言われるまでもなく知っているのと同じように。
魂喰夜蛇は、いわば夕の一部だったのだ。
蛇か。こいつを使って戦うのか。夕はしばらく魂喰夜蛇と見つめ合うと、頷いた。
「……わかった、やってやる」
「決まりだな。じゃあ、これを着けて、下の階に行ってくれ」
陽菜乃から手渡されたのは、無線通信機。
片耳にイヤホンを差し、胸元にマイクを着ける。インカムという奴だった。
インカムを受け取り、夕は問う。
「ところで先生よお、あんたは戦わないのか?」
「私の夜葬旭は、戦闘向きじゃない。魂の形は人それぞれ。生存戦略も、人それぞれなんだ」
「何が出来るんだ?」
「近いうちにわかるさ。ひとまず君は、自分の力を使いこなせ」
釈然としない解答だった。
白夜はイヤホンを咥えると、器用に夕の耳に突っ込む。
「せいぜい頑張って戦おうぜ。オレもオマエと心中なんてゴメンだ。協力してやる」
「そうかよ」
「では、グッドラックだ、ふたりとも……いや、三人とも」
―――――――――――――――
部屋から出て、境兵とは別々の階段で下に降りる。
やけに響く靴音を危機ながら、夕は胸元を擦った。
力尽くで着けさせられた、女性用の下着の締め付け感が非常に気になる。
車内で明日香にしばられたことを思い起こさせるそれに、気分がひたすら重くなってしまう。
明日香は、少なくとも男の自分よりは背が低く、線も細い。喧嘩三昧で、豪を除き負け無しだった夕が、不意打ちや拘束具ありきとはいえ、力負けするとは考え辛い。
弱くなっている。確実に。
夕の頭の上に顎を乗せた白夜が、退屈そうに欠伸した。
「緊張してんのか?」
「黙ってろ!」
左腕を振って、踊り場の壁に白夜を叩きつけようとするが、蛇は壁をすり抜けるばかりで、音も立てない。
折り返して階段を下る夕を高いところから見下ろして、白夜は首を振る。
「はーあ。命は助かった、服ももらった、仲間も出来た。何が不満だってんだ?」
「全部だ」
毒づいたところで、耳につけたインカムがノイズを発する。
ポケットをまさぐり、イヤホンと繋がった本体に触れる。元の体だったなら、これぐらい掌に収まっただろうというサイズだ。
歯軋りを堪えていると、白夜がマイクのスイッチに噛みついた。
通信が繋がり、陽菜乃の声が聞こえてくる。
「ふたりとも、準備はいいか?」
「こっちはいつでも。そっちは?」
「……ああ」
ちょうど階段を下り切った夕は、濁った返事を返した。
足裏で床を擦るように蹴る。
明日香が買ってきた服は全て伸縮性に富んでいて、夕の体を締め付けながらも、動きを決して邪魔しない。
夕はパーカーのジッパーを限界まで上げ、顔を襟の中に埋めた。
境兵が不思議そうに問いかけてくる。
「腹でも痛いのか? こっちはもうちょっと待ってもいいぜ」
「豊来君……。いや、なんでもない。デリカシーというものを、あとで教えてあげよう」
「え?」
意味ありげな陽菜乃の嘆息をそっちのけにして、夕は右腕を軽く動かしてみた。
魂喰夜蛇は鎌首をもたげ、夕がなんとなくイメージした動きをなぞる。
∞を描く。虚空に噛みつく。尾を薙ぎ払う。夕は胸に新鮮な風が吹き込んでくるような爽やかさを感じた。蛇、それが己の力。戦うための力。
強く拳を握ると、魂喰夜蛇の輪郭が強く燃え上がった。
「もう一度言うが、これは夜刀君が葬者として戦えるようにするための訓練だ。状況が状況なので、同じ訓練は何度も出来ないと思ってくれ。出来るだけ、この戦いでコツを掴むんだ。豊来君、手加減しろよ」
「わかってますよ。俺、ロリコンでもドSでもないんで」
「“葬者狩り”の連中は、そうもいかないと思うがな。だが、今回は別だ。私がストップと言ったらすぐやめること」
「おうよ。けど本気で……だろ、先生?」
「ある程度は、な。夜刀君、君は本気で行け。出来るか?」
「出来る」
夕は腕を真横に伸ばした。青い瞳の魂喰夜蛇が胴体を長くして、夕の頭上で円を描いた。
今の心持ちは複雑だ。遠くで響く雷鳴の如き苛立ちと、夏の暑さを和らげる風のような高揚が同居している。少なくとも、こんな気分で喧嘩をするのは初めてだ。
全力で殴っても構わない相手も久しぶりだ。負ける気もしない。悪くない。
「昼間の鬱憤、お前で晴らす。本気で殴らせてもらうぜ」
「いや蛇使えって。ま、頑張ろうぜ」
「何かあったら、明日香を止めに入らせる。では、5秒前だ」
陽菜乃のカウントが始まった。夕は瞼を閉じてそれを聞く。
兄が死んだ後、ヤクザの靴を舐め、下働きをして生き延びた。
夕は弱いから。ヤクザを打ち倒す力などなかったから。収めるしかない怒りの矛は、不良たちへと向いた。殴って、言うことを聞かせ、ビジネスを手伝わせ、唯々諾々とパシリに甘んじた。
不良のリーダーの座を豪に奪われた後も、殴る相手には困らなかった。“仕事”の相手はヤクザに借金し、踏み倒そうとするろくでなしばかりだ。そいつらも殴った。躊躇はなく、奴らが死んでも、殺すことになっても、心は動かなかった。
だがその挙句がこのざまだ。死に目に遭い、女に変えられ、漫画みたいな出来事に巻き込まれ。あまつさえ、命を狙われるかもしれないなどと。
それでも、力を得た。ぐっと握った拳に応じて魂喰夜蛇が鋭く
陽菜乃が合図を発した。
「始め」
コンクリートの床を蹴り、夕は駆け出した。
急加速によりフードが外れ、黒いキャップとなびく白髪が露わになった。
夕の左腕に顕現しっぱなしの白夜は、周囲を注意深く見回す。月明りの差し込む窓と、暗く灰色に染まった景色。そこに突如として異物が割り込んだ。
「止まれ、夕! 左だ!」
「ああ!?」
つられて首を動かした夕の視界を、鈍色の輝きが埋め尽くした。
ゴッ、と額に重い衝撃が走り、夕は尻餅を突かされた。
鈍痛が脳の奥まで響き渡る。動けなくなる夕を差し置いて、白夜は壁から生え、そして壁の中へ消えていったものを凝視する。
夕は首を振り、額を抑えてなんとか立ち上がる。出血はしていないが、何か痛みの感覚が妙だった。
「ってぇ……なんだよ、今の」
「式神だ。それもハンマー型の」
「ハンマー? なんでそんなもんが壁から?」
「オマエさあ、さっきのオレの話、聞いてなかったのかよ」
白夜の呆れ返ると、頭を振って立ち尽くした夕の頬を打ち、今すぐ動くように働きかけた。
夕は顔をしかめたが、次の変化には反応した。素早く飛び下がった夕の目の前で、壁をすり抜けて伸びてきたハンマーが、目の前の通路を薙ぎ払った。
「おバカちゃんに改めて説明しといてやる。式神ってのは、要するに葬者に使役される妖魔みたいなもんだ。式神は霊体だから、物体をすり抜ける。オマエ、何度オレを物にぶつけようとしても無駄だったろ。あんな感じだ」
「……そうだったな。待て、今俺にはぶつかったよな?」
「正確には、オマエの魂にな。説明は後だ、また来るぞ!」
「!」
夕は素早く頭を下げて、トカゲのような四つん這いの姿勢を取った。
頭上をハンマーが突き抜けていく。柄が不自然にしなっていたのが印象的だ。
立ち止まっている暇はないと悟った夕は、また通路を走り始める。槌が飛んできた方へと。
「今のでわかったと思うが、葬者の戦いにおいて、シャヘーブツに隠れるってのは、相手の視界を切る以外に意味はねえ。っていうか、オマエも同じことできるんだよ! ヘビ使え、ヘビ!」
「お前が行けばいいだろうが!」
「嫌だ! 殴られたくねえ!」
「平気だとか不死身だとか言ってなかったか!?」
「消えてもまた出せるって言っただけだ! 夜葬旭で殴られたら痛そうだし、境兵の詳しい能力もわからねえ。だから嫌だ!」
「手を貸すって話は!」
「ソッセンして危険を冒すとは言ってねえ!」
「役立たずが!」
「ああん!?」
言い争っていると、後頭部を殴られた。
両目から星が飛び散るような衝撃。かろうじて片足を踏み出して顔を上げると、夕の頭上を通り過ぎて壁に沈んでいくハンマーが見えた。
回避が間に合ったらしい白夜が頭を上げる。
「アイツ、やり手だな。オマエ、このままだと多分、一発も殴れずに終わるぞ」
「クソが!」
夕は舌打ちすると、右腕に巻き付いた
白夜と違い、口を利かない右の白蛇は、夕を待っているようだ。
夕は足を止め、腕を振りかぶる。
「仕方ねえ、言ってこい!」
夕が両腕を突き出すと、魂喰夜蛇が勢いよく伸び、壁をすり抜ける。
境兵の捜索に飛び出した蛇は壁をいくつか抜け、その両目で周囲を探る。
フロアにある最後の壁をすり抜けて、左右を確かめる。だが、境兵の姿はない。
白蛇がUターンし、戻ろうとしたところで、その頭上から落ちてきた境兵が、蛇の脳天にハンマーを打ち下ろした。
蛇が地面に叩きつけられ、その衝撃が夕の右腕にまで伝わる。
骨までビリビリと痛む痺れに顔をしかめた途端、夕の体は、伸びきった蛇の胴体に引っ張られて、目の前の壁に激突した。
「だっ!?」
「蛇を伸ばすか一旦消すかしろ! 早く!」
夕は壁に左手を突き、体をなんとか引きはがそうとするが、上手くいかない。
探知に向かった白蛇は、頭の付け根を境兵につかまれて、必死にもがく。境兵は蛇の胴体をぐいぐいと引くと、通路に沿って駆けた。
魂喰夜蛇を手繰りながら一番外側の通路を駆け、大まかに察した夕のいる位置へと急ぐ。
遠くから近づいてくる足音に、流石の夕も気づいていた。
「蛇を消せ、早く!」
「き、消えろ!」
夕が拳を強く握ると、蛇の体が吹き消された蝋燭の火のように掻き消える。壁越しに引っ張る力も失われた。
夕は体をもぎ離し、右手をぶらぶらと振る。骨に直接鉄槌を振り下ろされたような痛みは、既に多少和らいでいたが、違和感が残っている。
そんなことを気にしている暇はない。そう悟ったのは、通路奥の曲がり角から境兵が姿を現してからだった。
「見つけたぜ、夕!」
直角コーナーで急ブレーキをかけた境兵が、手にした鉄槌を夕に向けた。
柄が凄まじい速度で伸び、ハンマーの頭部を夕に突き入れようとする。
白夜は蛇の体を伸ばして壁と床の継ぎ目に首を突っ込むと、胴体を一気に縮めて夕を引き倒し、ハンマーを無理やり避けた。
「早く立て、来るぞ!」
「わかってんだよ!」
夕は床を殴った勢いで立ち上がると、真正面から境兵めがけてダッシュする。
バカ、と白夜が罵るのも束の間。境兵は口角を上げると、ハンマーを握った手を腰だめに引いた。
伸びた柄が急速に縮み、頭部が戻り際に夕の後頭部を打つ。
前につんのめって転び、うつ伏せになる夕の鼓膜を、白夜の罵声がつんざいた。
「ホンットーにバカだなオマエ! 式神を! もう一回出すんだよ! バカ正直に殴りかかってどうすんだ!」
「おいおい、大丈夫か?」
境兵は警棒ほどの長さになったハンマーで肩を叩く。
その口調は、ちょっとした冗談とでも言わんばかり。夕は苛立って体を起こすと、もう一度右腕に魂喰夜蛇を顕現させた。
「ナメんな」
「その意気だ、って言ってやりたいけど、式神と喧嘩するなよ」
「ナメんなって言ってんだよ!」
激昂した夕は右腕を突き出した。
魂喰夜蛇が大口を開けて境兵に突っ込んで行くが、ハンマーの一振りで弾き飛ばされる。
しかし蛇は空中でカーブを描き、境兵の肩口に噛みかかる。
境兵はステップを踏み、軽々と蛇の噛みつきをかわしながら、走って来る夕へ距離を詰めていく。
拳を握る夕。それを見た境兵は、右手のハンマーの柄を限界まで縮めて投げた。フリスビーのように回転しながら飛来するそれを、夕は半身になってかわす。
虚空を突っ切ったハンマーは夕の遥か後方で、フッと消える。境兵は手にハンマーを再出現させ、既にすぐ近くまで迫ってきていた。
―――ここだ!
夕は大きく屈んでハンマーのスイングを避けると、両足をバネにして、鋭い右のジャンプアッパーを繰り出す。
角材や鉄パイプ、金属バットを振り回す不良を相手にする中で培った喧嘩殺法。入ると確信した夕だが、その拳は境兵の顎先から五センチほど前を空振りした。
「な……?」
「ん?」
夕は目を見開き、境兵が不思議そうに瞬きをする。前に境兵よりも背が低く、すばしっこい相手に使った時は、回避もさせずに顎を撃ち抜けたのに、当たりもしなかった。
ワンステップで後退した境兵は、半ば自動的にスイングした腕で元の軌道を逆になぞった。夕のあばらに鉄槌が叩き込まれ、大きく体勢を崩す。
「ぐがっ!」
「あ、やべ……」
「夕!」
白夜は頭を夕の遥か後ろに伸ばし、尻尾を勢いよく引っ張って夕を無理やり下がらせた。背中から床に叩きつけられた夕は呻きながら脇腹を押さえる。
境兵のうなじに襲い掛かっていた魂喰夜蛇が消滅した。それにも気づかず、境兵が慌てて夕に駆け寄る。
「だ、大丈夫か!?」
「ぐう……っ!」
胎児のように体を丸めた夕の傍らに屈んだ境兵が、肩をゆする。
その様子をモニターで眺めつつ、陽菜乃はペットボトルを傾けた。
傍にやってきた明日香が、一緒に画面を覗き込み、問う。
「どう?」
「……ふうむ」
回答が無い。陽菜乃は顎に手を当て、画面を注意深く見守った。
体を強く丸め、震えていた夕は、跳ね起きて境兵の顎に裏拳を入れようとする。境兵は驚いて身を引いたが、そんなことをしなくても当たらなかった。鳥瞰風景で戦況を見ている陽菜乃には、一目瞭然だ。
「喧嘩慣れはしているのは確かなようだが、何か変だな。拳が当たらない。明日香、こうなる前の夕の身長がどれぐらいだったかわかるか?」
「流石に覚えてません。それどころではありませんでしたし、気づいた時にはああなっていました」
「そうか。私としたことが、流石に急ぎ過ぎたか……?」
「どういうことですか?」
「説明は本人を交えてした方がいい。ひとまず、やるだけやらせてみよう」
画面の中では、夕が拳で遮二無二境兵に殴りかかっていた。
ボクシングスタイルが近いだろうか。しかし、振るわれた夕の拳と境兵の間には、常に数センチの余裕が生まれている。境兵が回避に動いていることを除いても、絶対に命中しない距離。
喧嘩慣れした姿とは裏腹に、どう足掻いても、拳が当たらない。
そのことに、薄々本人も気づき始めているようだった。
「クッソ、なんで……なんで!」
「ちょ、おい待った、落ち着けって!」
「つべこべ言ってんじゃねえ! 逃げんな!」
「趣旨! 趣旨覚えてるか!?」
鉄槌を消した境兵が抗議するも、夕は全く聞く耳を持たない。
この戦いを見ているはずの陽菜乃から連絡も来ない。続けろという意味だろうか境兵はしばし悩んだが、気が進まないながら続行することにした。
右手に鉄槌の式神が再出現する。
軽く落ち着かせるだけの気持ちで振るうと、夕はハンマーを左腕を上げて防いだ。白夜が盾に使われた形だ。
悲鳴を上げた白夜に構わず、夕は鉄槌を跳ね除けて境兵に右ストレートを繰り出す。小さな拳は境兵の手のひらにぶつかった。
音も鳴らない。ふわりと羽毛に包み込まれるように、拳をつかまれた。
「いってぇ! やめろ、オレを盾にするな!」
「クアアアアッ!」
白夜を無視し、夕は深く踏み込んで、左手で境兵の腹を殴りつける。
しかし、腕を限界まで伸ばしても、手応えが無い。
夕の疑問と焦燥を加速する。力に目覚めた高揚は、幻のように消えてしまっていた。
―――なんでだ、なんで当たらない!?
―――もう何発も入ってるはずだ! なのになんで……!
右フック、左ジャブ。拳の振りがどんどん大きく、粗くなっていく。
境兵は戸惑いつつも、本能的に回避行動をとっていた。反抗期の手癖が悪い妹の対処に困った兄のよう。少なくとも、喧嘩や真剣勝負をする者の姿ではない。まして、襲われている者の姿などでは。
「ちょっと待て、タイム!」
「だらああッ!」
境兵の制止も虚しく、鳩尾を狙った拳がせり上がってくる。
境兵は溜息を吐いて一歩下がった。
跳ね上がった拳が虚空を泳ぐと同時に、夕のみぞおちに衝撃が走った。
「かは……!」
体がくの字に折れる。
強制的に下げられた視線の先には、腹にめり込む鉄槌と、長く伸びた柄が見えた。
境兵は一度防がれたハンマーを消し、逆の手に再度出現させて、柄を伸ばしたのだ。
「いよっと!」
境兵は体のひねりを加えてハンマーを突き出し、さらに柄を伸ばして夕の体を遠くに放り出した。ごろごろと後ろに転がりながら受け身を取り、片膝立ちになった夕は顔を上げ、右腕を持ち上げる。
魂喰夜蛇が蘇り、シュウウと威嚇の声を出す。
夕は立ち上がろうとして、また膝を突いた。
一撃食らっただけなのに、足が震えて言うことを聞かない。
加えて、全身にじんわりと広がる、なんとも表現しづらいダメージの感覚。
おかしい。何か変だ。そう思っても、違和感を言葉に出来ない。焦りと苛立ちが、雪のように積もっていく。
「ク、ソ……!」
腹に食い込む重い感触に苦しめられ、立ち上がれずにいる夕に変わって、大口を開けた蛇が境兵に噛みかかった。
境兵は身構えながらも、困り顔を作る。
「とことんまでやるってか……? まあいいけど、気が進まねえなー」
境兵は胸元のインカムに手をやり、やめた。
シュッと右に避け、一回転した勢いで床を踏みして急加速。蹲った夕に鉄槌を振り上げる。ぶつぶつと呟きながら、腕の力加減をやりにくそうに微調整。
「死なない程度、死なない程度……っと!」
鈍い風切り音とともにハンマーが夕の脳天を狙う。
夕はなんとか床についていた膝を持ち上げ、爪先で床を踏みしめた。蛇の巻き付いた両腕でクロスガード。左腕が上に来たため、またしても白夜が盾にされた。
「あだぁぁぁっ!」
「づ……っ!」
夕はきつく顔をゆがめた。
どうにか足裏で床を捉えた足がガクガクと震え、押し付けられる重さに耐えかねる。これぐらいの重さの拳、何度も受けてきたはずだ。少なくとも、体感では豪より強くない気がする。
なのに、潰されそうだ。それだけではない、腕の芯に響く衝撃が痛い。折れてしまいそうなほどに。
夕は歯を食いしばり、境兵のハンマーを押し返そうとする。強い拒絶の心、ジリジリと脳を焼く焦燥が、冷静さを奪った。
それが反応を遅らせる。
境兵が夕の胸倉をつかみ、一本背負いをするように体を反転させながら投げた。Uターンして境兵を食らおうとしていた蛇の牙が、誤って夕にかじりつく。
自分自身の魂だからか、ダメージは無い。
しかし夕は、そのまま背中を硬い床に叩きつけられ、肺の中の空気を全て絞り出す羽目になった。
「かは……っ!」
「終了だ! 第一ラウンド終了! いいですよね先生!」
「そうだな、そこまで」
陽菜乃がインカムに囁きかけるも、夕の耳には届いていない。
夕はじたばたと藻掻いた。鳩尾を膝で押さえつけられ、動けない。自由な両腕で境兵の足を退かそうとするが、全く動かすことが出来なかった。魂喰夜蛇が悪あがきのように牙を突き立ててもだ。
昼間、車の中で明日香に押さえつけられ、辱められたことが脳裏をよぎる。
そこに先ほどまでの喧嘩が……まともに拳も当てられず、ほとんど一方的にやられたい放題だった体たらくが、夕を煽った。境兵の顔が、豪や若頭の阿黒、夕を嘲笑する者たちの表情とだぶって見えた。
「は、離せ! 離せよ!」
「落ち着けって、終わりだ終わり! つか噛むな、痛いっての!」
「どけぇぇぇっ!」
境兵は諭そうとするが、夕はなおも暴れて聞く耳を持たない。
まるで今にも殺されると言わんばかりの暴れっぷり。魂喰夜蛇もいよいよ深く牙を食い込ませ、境兵の腿に鋭い痛みを走らせる。
半狂乱の夕を、どう落ち着かせたものか。制圧したまま悩んでいると、境兵の目の前に明日香が歩いてきた。
境兵が顔を上げるなり、明日香はペットボトルの水を夕の顔にぶちまけた。
「うぶっ!?」
「そこまでよ。聞こえなかったの?」
正気付いた夕は、仰向けになったまま明日香を睨み上げた。
明日香はキャップを締めながら、呆れたように言う。
「何をムキになってるのかしら? 訓練よ。勝ち負けがどうこうではないの。境兵、早く離れたら」
境兵は夕を改めて見下ろすと、立ち上がって拘束を解いた。
夕はバツが悪そうに差し伸べられた手を無視して、自力で身を起こした。ずっと噛みついたままの魂喰夜蛇が口を離し、主の右腕に戻って丸くなる。
すっかり冷めた頭で拳を見下ろす。
じわじわと不安が心を支配する。夕は首を振ると、床を殴りつけて境兵を見上げた。
「もう一回だ」
「やる気あるのはいいけど、とりあえず上に戻って反省会と行こうぜ。先生が動画撮ってくれてるし。あとちょっと強く殴り過ぎたかもしれない、悪い」
「ええ、一度冷静になった方がいいわね。今の一戦で何かおかしかったと、あなたも感じているはず。まずは……」
夕の右腕が閃いた。
魂喰夜蛇が境兵の胸から上に絡みつき、喉笛に牙を突き立てる。
夕は立ちあがると、銀の瞳で境兵を睨む。そこには不安、焦燥、苛立ち、失望、様々な負の感情を押し殺す暴力的な衝動が燃えていた。
「もう一回だ!」
「ぐおおああっ!?」
突然の前蹴りが境兵の股間を蹴りつけた。
インカムから聞こえてくる、陽菜乃の制止の声も空しい。
明日香は溜息を吐いて、通信を入れた。
「どうします?」
「制圧してくれ、多少手荒くても構わない」
「わかりました」
短く返事をした明日香は、境兵に挑みかかる夕の背中に手をかざした。
掌と指を深紅の炎が包み込み、解き放たれる。
振り向いた夕の視界を、赤一色が飲み込んだ。
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