弱化した体

“夕、また喧嘩したのか? 喧嘩すんなって、いつも言ってるだろ”


“だっても無しだ。どんな理由があっても、喧嘩しちゃダメだ。何かと理由つけて殴ってくる親父を見ろ。あんなのと一緒になっちまうだろ?”


 兄は常々、夕を諭した。


 だが、そんな兄もまた、暴力に頼っていた。


 夕よりも背が高く、力も強い。酒を飲んで暴れる父すら、兄には敵わず返り討ちに遭った。


 わかっている。そうする以外に、母と夕を守る手立てがないことぐらい。実際、兄は父以外に暴力を振るわなかったし、母をよく支え、夕には優しく接してくれた。


 そんな兄を、名前がどうとかいう下らない理由で馬鹿にする連中と、よく喧嘩した。兄は毅然とした態度で対応し、帰り道で夕を叱るのが常だ。そこで、兄はこんな風に言う。


“お前は人を殴るな、夕。お前は俺より強くて優しくて賢い、そんな男になれ。そのためなら、俺はどんなことだってしてやる。だから喧嘩するな”


 ―――兄貴、ごめん。


 ―――俺は……。


 夕は兄に呼びかける。


 前を歩いていた兄が、ゆっくりと振り返る。口元に、優しくて朗らかな笑みを浮かべて。


 突如、兄の頭が消え去った。


「はっ!?」


 がばっ、と起き上がると、見知らぬベッドで横になっていた。


 明日香の部屋ではない。クリーム色とライトブラウンが主体の、シックで落ち着いた寝室だ。


 汗だくになった夕の顔を、朝日が照らす。


 枕元近くに置かれたラジオが、穏やかな音楽を流していた。


 ペンだこの出来た指が、ラジオの電源を切る。


 ベッドの傍に立っていた陽菜乃が、少し強張った表情で見下ろしてきていた。


「起きたか。気分はどうだ?」


「あんた……俺、なんで……」


「昨日のことは、どこまで覚えている?」


「昨日? 確か、車の中で縛られて、無理やり……」


「最初に思い出すのがそれか」


 陽菜乃が思わず苦笑いを浮かべる。


 その顔をムッとして睨むと、今回は昨夜のことを明瞭に思い出せた。


 ついでに、今の服装に気づく。体を締め付ける、あの落ち着かない感触が無い。代わりに、柔らかなパジャマが体を包んでいた。


 ……可愛らしい、兎柄の。


「……なんでこんなの着てんだよ、俺?」


「私が着せたからだ」


「な……っ!」


「そう赤くなるな、私にそういう趣味はない。……海羅かいらにはあるが」


 着替えさせられた……つまり、裸を見られた? 顔を赤くし、金魚のように口をパクつかせる夕の頭上で、白い炎が灯る。魂喰夜蛇の姿を借りた白夜が目を覚ましたのだ。


「君も目が覚めたか」


「……なんでオレまで」


「もちろん、君が夜刀君と一心同体だからだが」


「クソが」


 蛇はげんなりした口調で、夕の頭に体重をかける。


 それに圧されたわけではないが、夕は顎を引いてパジャマの襟を引っ張った。


 白い肌、慎ましい胸。そのどこにも火傷はなかった。明日香の放つ炎に全身飲み込まれたはずなのに。倦怠感はあるが、痛みはない。


 眉をひそめる夕に、陽菜乃は言った。


「おいで。朝食にしよう」




 陽菜乃が用意した食事は、ベーコンエッグを乗せたレンチンご飯とインスタントスープ、缶詰の蜜柑だった。


 着替えを要求したが、もらえないまま、憮然として口に押し込みながら、小さく不満を口にする。


「あんた、こんな飯ばっか食ってんのか?」


「あいにく、料理の時間が惜しいものでね。栄養が最低限取れれば良いんだ」


「俺が作った方が良かったな」


「料理出来るのか?」


「……多少」


「なら、明日の朝食は任せたいところだな。それはともかく、昨日のことを話そうか」


「話すまでもねーだろ」


 横からベーコンを一枚奪い取り、白夜が言う。


「無様に負けたくせに、諦めずに挑みかかっちゃってよ。バカじゃねーの?」


「食事の席で喧嘩をするな。そもそも、勝ち負けを決めるために戦わせたのではない。夜刀君」


 先に食事を平らげ、コーヒーを飲み干した陽菜乃は、テーブルの上で指を組んだ。


 真剣そのものの眼差しに、反論しかけた夕は口をつぐむ。


「昨日のことを、そろそろ思い出して来たか?」


「……まあな」


「戦っている間、何か違和感を感じなかったか」


「こいつがうるさかった以外に?」


「あるはずだ」


 陽菜乃は隣の座席に置いていたノートパソコンを持ち上げ、画面を見せてきた。


 動画ファイルが開かれており、撮影された夕と境兵の戦闘が再生されている。


 動画はその一部、夕の突き出した拳が境兵に当たらなかった部分で止められた。


「君は何度か、豊来君に肉弾戦を挑んでいるが、なかなか当たらなかった」


「……ああ」


 霊体のくせに食事にがっつく白夜の首を鷲掴みにし、できた拳に目を向ける。


 いつもの喧嘩なら絶対に当たっていた。そう自信を持って言える攻撃がいくつもあったが、どれも掠りもしなかった。境兵が回避していたのもあるが、しなくとも当たらなかったではないか。今にして思えば、そんな風に思う。


 陽菜乃はそれに、心当たりがあるらしかった。


「参考までに聞くが、身長と体重は?」


「覚えてねえ。170いくらはあったと思うけど」


「なら、それが原因だな」


 陽菜乃はパソコンを閉じた。


「君の今の身長は、147cm。男の頃より随分と低くなったと、君自身思っているんじゃないか?」


「おい待てよ、いつ測った!?」


「身長が低くなれば、当然手足も短くなる。それで感覚がズレたのだろうな」


 夕は勝手に身長を測られた件について詰め寄ろうとしたが、差し出されたホットミルクに目が行った隙に誤魔化された。


「夜刀君、君は随分と喧嘩をした経験があるようだが、少なくとも今は拳に拘らない方がいい。いずれ感覚を取り戻すにしても、この状況では悠長にトレーニングなどしていられないからな」


「……じゃあどうやって」


「だから、魂喰夜蛇を使うんだよ」


 白夜はマグカップを覗き込み、水面をちろちろと舐めながら言った。


 その胴体は、相変わらず夕の左腕に絡みついている。


 起きてから何度かむしり取ろうとしたが、まるで接着剤で固定されているかのように、決して離れない。白夜本人も、離れられるならとっくに離れてるとのことだった。


「夜葬旭は葬者の武器だ。物を壊したりするのは条件がそろわないと難しいし、そもそも戦い向きじゃないのもあるが、オマエの魂喰夜蛇は戦える。あの日、譚抄山たんしょうざんの化け物を狩ったのは、オマエの蛇だぞ。あの時体を使ってたのはオレだけど」


「戦わねえくせに……」


「オマエがバカみたいに突っ込み過ぎなんだ。慎重になれよな」


 文句を文句で返された。


 そのやり取りを見ていた陽菜乃は、意味ありげな視線で夕を観察していたが、やがて気を取り直して話を続ける。


「戦い方については、白夜君の言う通りだと私も思う。君の場合、味方のサポートに回るのが良いだろう。というわけで、今晩の予定だが」


「また喧嘩か?」


「いいや、アルバイトだ。魂喰夜蛇を用いて、境兵とチームプレイを鍛えてもらおうと思う」


 アルバイトと言われて身構えかけるが、すぐに思い至る。確か、幽霊退治がどうとか言っていたか。


 それにしても、またあのハンマー男とか。夕の脳裏に、マウントポジションを奪われた記憶が蘇った。


 起き上がれず、腕も押さえつけられて動かすことが出来ず、惨めに足をばたつかせるだけだった自分。あの時のことが思い出され、心臓の表面に蟻が何匹も這いまわっているかのような不快感に襲われる。


 明日香に拘束された時といい、あれではいいように弄ばれる少女そのものではないか。


 まともに殴れず、抵抗も出来ず、されるがままで……。


 俯き、両拳をきつく握った夕は、やり場のない怒りをテーブルにぶつけた。


 陽菜乃は席を立って、ノートPCを小脇に抱える。


「仕事は夜になってからだ。それまで君は休んでいたまえ。風呂場も寝室もキッチンも、好きに使っていい。私はちょっと出てくる」


「やめとけって、センセイ。アブねーって」


 首を伸ばした白夜が、陽菜乃の前に回り込む。


 陽菜乃は微笑んで、その下顎を撫でた。


「君の懸念は理解している。だが、多少のリスクを考慮しても、外に出なければならないんだ。この街に閉じ込められ、敵の姿も定かではない以上、打てる手は打っておかねば」


「けどよ……」


「私も葬者だぞ? 問題ない」


 そう言って微笑み、陽菜乃は身支度をして出ていった。


 長い髪をコートに隠し、残りの部分は日傘で覆う。


 マンションの窓から陽菜乃が出ていくのを見送ってから、白夜は夕に目を向けた。


 夕は思いつめた表情で、石のように固まったままだった。

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