再覚醒:魂喰夜蛇
二日後、隈取組の事務所。
若頭補佐・阿黒は、調査結果の書類を若頭に提出した。
隈取組若頭―――即ち、次期組長の鷹巣は、猛禽の如き吊り上がった目で書類に目を通す。
監視カメラの映像をスクリーンショットしたもの。住所と顔写真がついたもの。記載内容は様々だったが、ある程度種類別にわけることが出来た。
「教師に、ガキが三人か」
「その内ふたりの身元を割って、住所も張らせてます。赤い髪のガキについても身元は割りましたが、
「それで、人手がいるわけか」
「ええ、結構派手に動かす必要があると思います。見失った以上、どこから逃げられるかわかりません」
「今はどうしてる?」
「ホームレスだの、ネカフェ暮らしのクズを張らせてます。埠頭と駅、あとはあの“結界”沿いの道路なんかを。最低限ですが……」
鷹巣は高級葉巻を口に咥え、煙を吐き出す。
短くなったそれを灰皿に捨てると、正面に立つ男を見た。
フード付きのコートを被って、顔面を包帯ぐるぐる巻きにした、不審人物を。
「
「いいえ」
差し出されたスクリーンショットを受け取るなり、はっきりとした否定が返された。
写真はマンションの廊下を映したもので、仰向けになった青年の上に、茫然とした様子で座り込む少女の姿が見て取れる。
「年齢が随分違います。お渡しした情報の通り、我々が探しているのは二十代ごろの女性ですが、これはどう見ても中学生程度。ですが、無関係とは思えませんね」
「そうか」
鷹巣はさして興味も無さそうに言うと、ブラインドのかかった窓まで移動する。
隙間を指で開くと、陽光が差し込んできた。
にも関わらず、空は黒い。奇妙な感覚だった。
「千免、今回の探し物の人手、お前の会社が出せ。持ち出された
「もちろんです。捜索の件は伝えておきますが、捕縛の際には、隈取組のお力添えを頂ければと」
「阿黒、引き続き任せる」
「はッ」
新しい葉巻の端を噛む。
すると阿黒が無言で近寄り、金のかかったジッポライターで点火した。
お気に入りの煙草を味わいながら、鷹巣は呟く。
「妖魔、葬者、夜葬旭……ねえ。一昨日まで、眉唾だと思ってたぜ」
「ははは、流石に命乞いの場でオカルティズムは持ち出しませんよ」
「命乞いの場で、代わりにオカルトの代わりに言う台詞が、“眉間を撃て”か。大した肝の据わりようだ」
「そういう時にこそ、命がけにならねば生き残れませんから」
「違いない」
鷹巣は、分けた前髪の先をつまんだ。
鳥の翼のように、明暗のブラウンカラーが混じった髪色。
二日前の夜までは違った。染めた覚えもない。元の髪色に未練があるわけでもないが。
「行け」
命令に応じて、阿黒は一礼して事務所を出ていく。
千免の姿はいつの間にか消えていたが、それを気に留められることは全くなかった。
―――――――――――――――
あの日の恐怖が蘇る。
隈取組の若頭補佐を名乗る男が、首のない兄の死体を裂き、内臓を夕の頬に当てた。
腰を抜かしていた夕は絶叫し、大好きだった兄だったものの欠片を払いのけて後ずさる。
若い衆が、後退を阻んだ。
夕の反応を楽しむわけでもなく、赤いシャツを来た男は、淡々と素手でつかんだ臓物を突き出してくる。
ぬるりとした血と、柔らかな肉。生臭い匂い。夕は恐怖のあまり粗相した。
股座に広がる生暖かい感触に、惨めさを感じる余裕も無かった。夕は土下座をして、床に額を擦り付け、必死で命乞いをしたのだ。
当然、嘲笑の的になった。隈取組の中で、玉無し野郎と言えば、夕のことを差すまでに、時間は要らなかった。
悔しかった。惨めで、屈辱的で、それでも反抗できない自分が。
怒りは常にあった。
だが、復讐しようなどとは思わなかった。
今まで喧嘩してきた連中とは訳が違う。本物の暴力、真の残虐さが、いくつもそびえ立っているのだ。
何を感じても、言いなりになるしかない。
逃げ出したって、行く宛てもない。街から逃げようとして失敗し、足をゴボウのように削られていった男の姿を見せつけられれば、そんな気も起きなくなった。
夕には、何も出来なくなった。
廃ビルの最上階と階下を繋ぐ階段に腰かけたまま、夕は虚空を見つめていた。
踊り場の少し高い位置には天窓があって、黒い空から降り注ぐ陽光が入ってきている。
あれから二日。機械の箱を開けた夜のうちに、陽菜乃の提案で、夕たちはこの廃ビルに身を潜めていた。
幸い、スペースには事欠かない。ベッドはおろか、寝袋すらも容易されていないが、簡易ソファと毛布ならある。
陽菜乃たちは忙しそうだ。兄の入った箱を閉じたり、あれこれ調べ回ったり。
夕もいくらか情報提供をしたが、何を教えたのかさえ、もう思い出せなかった。
階段で俯いて、瞬きをしているうちに日が沈む。気づけば微睡み、明日になる。それだけだった。
「なあ、いつまでこうしてるつもりだよ?」
首を伸ばした白夜が言う。その質問は、これで三度目だ。何も答えないのも、三度目。
白夜の顔も、三度までだった。
苛立った白蛇が、夕の耳に牙を突き立てる。
鋭い痛みによって、夕はようやく反応を見せた。
「痛ってえな、離れろ!」
「オマエがなんの返事もしないからだろーが!」
白夜は振り払われながらも、臆せずがなり立てる。
夕の前に回り込み、鼻先に食らいつかんばかりの勢いで。
「センセーの話は聞いただろ! もう戦うしかねえんだ! 明日香も境兵もそのために動いてる。なのにオマエはこんなところでイジけたままだ! そんなんじゃ、死ぬのを待つばっかりじゃねえか!」
「今はそんな気分じゃねえんだよ!」
「じゃあ、いつになったらそんな気分になるんだよ! 死んでからか!? オマエのアニキみたいに、殺されてからなるのかよ!?」
「……ッ! 知った風な口利くんじゃねえッ!」
熱い血の槍が、脳を貫き、頭頂部を穿つ。
夕は勢いよく立ち上がると、フロア全体に響き渡りそうな金切声を上げた。
「お前らは、あいつらのこと知らねえからそんなことを言えるんだ! ヤクザだぞ、その辺の粋がるしか能のねえ連中とは違うんだ! あいつらは……本物の人殺しなんだよ……!」
箱を開けた夜を廃ビルで明かしてから、夕は陽菜乃たちに、隈取組について知っていることを全て話した。
指定暴力団・隈取組。棚途市の表裏に渡って多彩なビジネスを展開しており、資金は莫大。
そのうち、
警察が動くことはない。組長の
好奇心旺盛なジャーナリスト気取りの馬鹿が騒ぎ立てても、消して山に埋めればいいのだ。
そんな奴は大抵ろくでもない人間だし、SNSのフォロワーも暴力の盾にはならない。本人が消えればフェードアウトする。それで終わり。
そして、隈取組の連中は、容赦のない拷問と殺人が出来て、組に血の忠誠を誓える者の集まりなのだ。
奴らを止められる者など、少なくともこの街には存在しない。
夕はその場で俯き、地団太を踏む。
「頭の軽そうな女が、頭に穴を開けられて、逆さ吊りにされたところを見たことがあるか? でっかい包丁で、スイカみたいに頭を割られていく債務者と家族を見たことは? そんな奴らに、戦って勝てるわけねえだろうが!」
「それでも勝たなきゃ死ぬんだって、オマエが一番よくわかってるはずだろ!」
「勝てるわけがねえって言ってるんだよ!」
階段の踊り場の壁に張られた大型の鏡が、夕の姿を反射する。
小柄で、華奢で、無力な、白髪の美少女。それはまるで、夕自身のメタファーのようだとさえ思う。
全てを失った、戦えない、ただ食い物にされるだけの存在なのだと、言われているようで。
夕は背中を丸めて肩を掻き抱き、唇を噛んだ。
「大体てめえ、戦いもしないだろうが……! 人の頭の上から偉そうなこと言いやがって! 調子いいこと言ってんじゃねえ! 戦わねえくせに!」
「そういうオマエはどうなんだ!? 境兵には噛みついた癖に、妖魔相手じゃビビり散らかして、肝心な時には動けもしねえ! 人のこと言えたギリかよ、ええ!?」
「はいはい、そこまでにしろ」
スパンと後ろから頭を叩かれた。
夕が後頭部を押さえて振り返ると、呆れ顔の境兵が佇んでいる。
頬に小さな返り血の点をつけた青年は、やんちゃな妹の面倒でも見るかのような口調だった。
「下の階まで聞こえてたぞ。何を揉めてるんだ?」
「なんでもねえ」
「コイツ、まーだ戦う覚悟決まらねえんだってよ! ハン!」
夕がひと睨みすると、白夜はそっぽを向く。
境兵は苦笑して夕の手を取り、コンビニのおにぎりを手渡した。
「食欲はあるか?」
「あるわけないだろ……」
言葉とは裏腹に、胃が切ない空腹を訴えた。
そういえば、ここ数日、ろくな食事をとっていない。
でも、与えられたおにぎりに手を出すのは、何故だか気が引けた。
どうしてなのか、自分でもわからない。鏡に映った白髪の少女は、何も出来ずに立ち尽くしていた。
境兵は階段を少し上がって、腰を下ろす。腕に下げたビニール袋から菓子パンを取り出して、頬張る。
ペットボトルのお茶を水を差しだされる。夕はのろのろと受け取って、その場に座り込んだ。
「食え食え。死にかけようがなにしようが、腹は減るから。腹が減っては戦は出来ぬってな」
「あんたも……乗り気なのかよ」
「んなわけあるか」
境兵は否定して、菓子パンをペロリと平らげてしまう。
ペットボトルのラッパ飲みで嚥下を終えると、軽くむせた。
「……
「オマエ、信じてなかったのか?」
「いや、信じちゃいたさ。疑ってたわけじゃない。ただ、そこまで重く考えてなかったっていうか、リアルじゃなかったっていうかな」
要領を得ない言葉が続く。
白夜も夕も無言で耳を傾ける中、境兵は考えながら話していた。
「脅威……そう、脅威だと思ってなかった。ケツに火が点いたようには思ってなかったんだよ。どっかで他人事みたいに考えてた。妖魔と戦うのに慣れたせいかな、御槌で軽くぶん殴ってやればいいか、ぐらいの気持ちだったんだと思う。
それがさあ、ヤクザに殺されるかもしれないって言われたとき、心の底から“やべえ”って思ったんだよ。
お前の兄ちゃんについては、その、さ。なんて言ったらいいかわからないけど……」
「なら黙ってろ。何も言うな」
「わかった、じゃあ言わねえよ。けどなあ、いつまでもそうやってんのは、お前らしくないんじゃないのか?」
「ハッ……」
夕の頬が笑みに歪んだ。
手の中のおにぎりが握りつぶされる。
それを、躊躇いなく境兵の顔面に叩きつけた。
「どいつもこいつも! 知ったような口を利くな!」
「“知ったような”じゃないんだよ、“知ってる”んだよ、俺は」
境兵は落ちたおにぎりをビニール袋に戻す。
新しいものを取り出して、投げ上げて弄び始めた。
「そりゃ、会ってからまだ一週間も経ってないけどさ。……いや、マジで一週間も経ってないのはちょっと笑えるけど、俺はお前のこと、ほんの少しだけ知ってる。
やられっぱなしは我慢ならないんだろ、本当はさ?」
「……!!」
胸をぐっさりと穿たれたような気がして、夕は少しふらついた。
境兵の眼差しは、穏やかで優しい。胸の奥がますます強く痛む。
夕が境兵を直視できなくなって俯いても、彼の態度は変わらなかった。
「ここの下で、俺と夕でやり合ったことは覚えてるか?」
「……ん」
「お前、ストップがかかっても噛みついて来ただろ。あの時、お前が気持ちが伝わって来た気がしたんだよな。
悔しい、惨めだ、負けたくない、気に入らない、やり返したいって。
さっきはなんだかんだ言ってたけど、本音はそっちだろ。兄ちゃんのこと、悔しいんだろ?」
白夜は、夕を振り帰った。
小柄な白髪の少女は、両手を硬く握りしめている。堪えるような震えが、そこにあった。
同じ光景を、二日前にも見たことがある。
陽菜乃に兄の仇を討ちたくないか、と訊かれた時に。
結局、応えることはなかった。それを以って、陽菜乃は戦わなくて良いと言ったのである。
「鬼木原先生は、夕のこと、戦力外だって言ってた。怯えているのに、無理して戦わせることは出来ないって。
ビビってるのが嘘だとか言わないけど、本音でも無いんだろ? 兄ちゃんの話、聞かせてくれたよな。お前が兄ちゃん大好きなのは伝わってきたよ。
その大好きな兄ちゃんをあんな風にした奴のこと、憎くないのか?」
「うるせえええッ!」
力任せのパンチが、境兵の手のひらに受け止められた。
ぺしっ、と肌がぶつかり合う。
夕の瞳からは、大粒の涙があふれ出していた。
二日前の夜に枯れたと思っていたのに。
行き場のない怒りを、拳に乗せて振り回した。
「うるせえ、うるせえ、うるせえ! わかりきったこと言ってんじゃねえよ!
悔しいに決まってる、憎いに決まってんだろ!?
憎くて憎くて、殺してやりたいって何度も思ったさ! お前らと違って、俺はずっとあいつらの近くに居たんだ! 何度寝首を掻いてやろうと思ったか!」
感情に任せた殴打は、ついに境兵の肩を打つ。
境兵は揺るがない。逆に、夕の拳が痛んだ。
夕は境兵の肩に額を打ち付けた。
「でも怖いんだよ……! あいつらが自分の思い通りにいかない奴をどうするかなんて知らねえだろ……! 敵に回したらどうなるかなんて、知らねえだろ!」
兄は強かった。
酒を飲んでも飲まずとも暴れる父に、夕は手も足も出なかったが、兄は殴り倒して制圧出来た。
兄を侮辱し、複数人で夕を囲んで来た連中も、兄が来ると逃げ出して、しかし逃げきれずに全員が拳骨を食らう羽目になった。
父が死に、母が過労で倒れ、なんとか支払っていた利息の返済すらままならなくなったことを良いことに、ヤクザは横暴な態度を取った。
兄は隠していたが、夕には筒抜けだった。ヤクザが兄を脅し、弟か恋人を身売りに出せと迫ったことを。
兄は、夕を守るために、覚悟を決めた。
父を殺した、あの日のように。
そして、死んだ。
体は夕の目の前で引き裂かれ、解体された臓器は売り飛ばされたらしい。
首から上がどうなったのかはわからなかった。三年後の一昨日までは。
「あいつらは化け物だ、血も涙もない怪物だ。力があって、誰も逆らえないから、好きなようにやってる。そんな奴らに、敵うわけないだろ!?」
「それに引き換え、俺はただのガキで、今はこんなになって……夜葬旭だか式神だか知らねえけど、蛇だって簡単にやられちまった! 俺じゃあ無理なんだよ……! 兄貴だって勝てなかったのに、俺じゃあ……」
ずるずると崩れ落ち、膝を突く。
やりたいことは、ずっと前から決まっている。
だが現実は幾度となく、夕に無力を突きつけてきた。
勝てる相手は、へらへら笑って暴力を振るうだけの、喧嘩慣れしていない奴らだけ。
同学年の豪には勝てず、彼の下に甘んじた。
ヤクザ相手など以ての外だ。若頭の鷹巣は事あるごとに夕を蹴り、若頭補佐の阿黒は夕にあの手この手で恐怖と無力感を植え付けた。若衆にさえ玉無しと嘲られる始末。兄の惨状が自分に降りかかる未来が恐ろしくて、反抗も出来ない。
訳も分からぬうちに少女となり、弱体化を強いられた。魂喰夜蛇は妖魔に消された。そんな夕に、何が出来る?
何ひとつ、出来やしない。
何ひとつ。
階段に這いつくばった夕としばらく向き合っていた境兵は、腰を上げた。
天窓から差す日は
時計を見ると、逢魔が時だった。
ここより先は、夜魔の刻。
境兵は夕の肩に手を置き、揺する。
「しっかりしろって、夕。また先生の受け売りにはなるけどさ、葬者は戦えるって思っていられる限り、戦えるんだぜ」
「…………」
夕は口を半分開いた。
出たのは言葉でも声でもなく、単なる呼気。そこに乗るはずだった“戦えない”の一言が、何故か出ない。
境兵の手が、白夜の顎に触れる。
「見ろ。白夜が入った蛇はこうしてまだいる。俺の“御槌”だってそうだ。ハンマーは消えようが何しようが、何度でも出せる。でなきゃ、明日香と模擬戦した時点で出せなくなってるからな」
声が出せない。
言葉も上手くまとめられず、ただ妖魔に引き裂かれた魂喰夜蛇のイメージだけが、繰り返し思い出される。
頭を消しとばされた巨大な大蛇が、兄の首なし死体と重なってしまうのだ。
境兵はなおも、真摯に語りかけてくる。
「昨日、話してくれたよな。お前の兄ちゃんの、名前の話。お前の式神は、そいつに影響されてるんじゃねえかな。思い出せ。どうあれ、お前の蛇は消えたりしないんだからよ」
「お、俺、俺は……」
「ハッキリしろよ」
白夜が、冷たく、硬く、ともすれば酷薄とも取れる口調で発する。
夕が顔を上げると、白蛇は滔々と言葉を紡いだ。
「こうなったら、仕方ないだろ。オレだって、戦いたくねえよ。イテーし、一度向き合ったら相手はオレを殺しに来る。全力で逃げて、とにかく隠れてやり過ごせさえすりゃあ、なんてことはねえ。
オマエ、オレが戦わねーって言ったけど、そりゃあそうだろ。戦うのと逃げるの、どっちの方が生き延びられるよ? オレはずっと、そうしてきたんだ。
でも、センセーが言うには、もう逃げらんねえ。ハラを括るしかねえらしい。
じゃあ、やるしかねえだろ……! 最終手段、使うしかねえだろ。全員殺して、生き延びる他にねえだろ! じゃなきゃ死ぬんだ! やる以外に道はねえだろ!」
気圧され、息を呑む夕の目と鼻先に、白い蛇が顔を突き出した。
目を離せない。心臓がドクドクと鳴る。
体の震えは未だに止まず、重く積み重なった記憶が無力の圧をかけてくる。
「覚悟を決めろ! オマエのアニキみたいに、無惨に殺されて死にてえのか!? それともヤクザどもを殺して生き延びてえのか!? どうなんだ、ハッキリ言ってみろ!」
ドッ、ドッ、ドッ。ひとつ心臓が鳴るたびに、記憶がひとつ蘇る。
色褪せた情景に、今かけられた言葉のひとつひとつが絡みつく。
それらは夕の心の奥底、虚無と諦念の灰で出来た山に埋もれて、なお熱を放つ想いに指先を伸ばして触れた。
ずっと夕の胸にあって、何度も顔を出しては夕に訴え、そのたび押し戻されてきた火種。
もう、抑えるのも限界だった。煽り立て、燃やしたかったのに、現実を前に見て見ぬふりをし続けた反骨心に、小さな火が灯された。
そうだ。理想はずっと、夕を捕らえて離さなかった。
「……嫌だ」
「ああ? 聞こえねーよ!」
「嫌だ!」
夕は破裂したように叫んだ。
視界が滲んで、熱い涙があふれ出す。
恐怖に抑圧され続けた怒りは、白い火柱となって夕を包み込む。
差し込む夕日の失せた踊り場が、眩い光に染め上げられる。
慰めていた境兵も、叱りつけた白夜も、呆気にとられた。特に白夜は、己の細長い体に送り込まれる激情が、自身を熱く燃え立ててゆくのを感じ取る。
熱い。蛇の口角が上がった。凶暴な衝動が湧き上がり、覚悟を決めたと言いつつも、払拭しきれなかった不安をどこかへ吹き飛ばす。
追われる側であり、逃亡者であった白夜は、生まれて初めて高揚のままに笑い出した。
「あんな風に死ぬのは嫌だ! でも……それ以上に許せねえ! 兄貴をあんな風にした奴らが! あいつらに必死で媚び売って、命乞いして、なんとか殺されないでいて……安心して、仇も討てない弱い俺が……!
俺は、俺のことが、大ッ嫌いだ!」
「ならどうする!? あいつらが殺しに来るってよ! オマエ、どうするんだよ! ええ、オイ!」
「ぶっ殺してやる……! 兄貴の仇を俺が討つ! 兄貴が出来なかったことを、俺がやってやる!」
「ははははは! そうだ、ぶっ殺してやろうぜ! こんなところで死んでたまるかよ!」
火柱の勢いが一層強くなる。
それは捩じれて、強く太く締め付けられた。魂の奥、恐怖と絶望に封じられていた魂喰夜蛇が目を覚ます。
夕を包むほどに巨大化した大蛇は、眠らされていた不満を吐き出すように咆哮した。
「おいおい、マジか……?」
境兵は肌に走るビリビリした熱を感じながら、冷や汗を流す。
引きつった笑い顔を止められない。
周囲の霊壌、世界を満たす魂が激しく震えるのを感じる。これほどの力を間近で感じたのは初めてだった。
驚いた陽菜乃と明日香が駆けつける。
彼らはこの日、真の“覚醒”に立ち会った。
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