殺害:忌避すべき初体験

 廃ビルの屋上に切り裂かれ、無数の瓦礫として落ちた。


 その音を、下の階にいた明日香はしっかりと聞き取っていたが、判断に迷いが生じる。


 ―――上で何かあった。先生たちが危ないかもしれない。


 ―――でも下にはヤクザの下っ端が来てる。境兵ひとりに任せていいの?


 足が一歩踏み出して、それ以上動けなくなる。早く判断せねばならないが、どっちに行くべきか。


 陽菜乃に答えを求めるべく、インカムに呼びかけても、応答が無い。


 明日香は迷った末、走り出した。


 その判断は、そこで棒立ちするよりも遥かに懸命と言えよう。


 陽菜乃もまた、判断に迷っていたのだから。


 マイクに手を添えたまま、何と答えたものか決められない。


 身構えた夕の背後で、陽菜乃は闖入者を注意深く凝視した。


 まだら模様の髪だけならば、そういうヘアスタイルで片付けてもいい。


 だが、人にはあり得ぬ横長の瞳と、両腕に纏わせた薄いオーラは、彼がただの人間ではないと語っていた。


「先にチンピラを行かせて正解だったぜ。まさか、罠を仕掛けやしないよな。それとも案外、心中覚悟だったりするのか? ビルごと爆破して?」


「死ぬのはお前らだ、イカれた殺人鬼」


「わかってて、極道おれに喧嘩を売るのか。そっちも大概、イカれてやがる」


 冷笑を浮かべた阿黒の爪先が、じりじりと動く。


 白夜がそっと、夕に囁いた。


「気を抜くなよ。間合いを測ってやがる」


「言われるまでもねえ」


 応える声は、少し震えていた。


 覚悟は決まっている。恐れている場合ではない。理性で理解していても、沁みついた恐怖の全てが簡単に消え去るわけではないのだ。


 まして、相手は若頭補佐の阿黒。


 夕に散々恐怖と屈辱を植え付けてきた相手である。


 阿黒は構えを崩さないまま、視線だけで部屋を見渡す。


「ブツはどこだ? 壊してねえよな。小間使いチンピラはまあいいが、そっちは返せ。そしたら今日のところはは勘弁してやる」


「誰が渡すか……!」


 ボウッ。夕の右肩から先までを白い炎が包み込む。


 開封したあの夜以来、一度も見ていない。見たくもない。一目で脳の奥深くにまで焼き付いた。


 兄の失われた首。想像を絶する苦痛に歪んだ、凄絶な死に顔。


 夕は一瞬伏せた顔を上げた。怒りに吊り上がったまなじりから、雫が飛び散る。


「今度はてめぇを詰めてやる! 兄貴の代わりになぁっ!」


 右腕の炎が膨れ上がって、巨大な蛇となって阿黒に襲い掛かった。


 開いた上下の顎は床と天井に届くほど。阿黒は僅かに面食らったが、すぐに笑って交叉した両腕を振るう。


 濁った赤茶色のオーラがX字を描き、魂喰夜蛇を切る。


 しかし白く朧な影は、意にも介さず元に戻って、阿黒を噛み砕こうとした。


「チッ」


 阿黒は舌打ちすると、大きく息を吸い込んだ。両腕を振り切ったせいで回避が間に合わない。


 口の端から、両腕と同じ色のオーラを散らした阿黒が何かする前に、魂喰夜蛇は口を閉じる。夕は右腕を捩じって引いた。魂喰夜蛇が捩じれて、螺旋状の槍のようになる。


 陽菜乃は白衣のポケットに振動を感じ、手を突っ込んだ。


 取り出したスマホの画面に、“WARNING”。


「捕まえたぜ。このまま引きちぎってやる!」


「待て、夜刀君! 吐き出すんだ!」


 陽菜乃が警告を発した途端、蛇の喉笛が膨らんで、破裂するように内側から引き裂かれる。


 手の中で風船が破裂したような衝撃を感じて怯む夕を抱え上げ、陽菜乃は即座に部屋を飛び出した。


 魂喰夜蛇を突き破ったのは、二本の巨大な刃だった。その片方が爆ぜた魂喰夜蛇の残滓を払い、もう片方が襲い掛かってくる。


 白夜が瞠目した。


「式神か!」


 間一髪、ふたりは部屋を脱出した。


 壁、扉枠、床が斜めに引き裂かれる。一秒遅ければ、夕と陽菜乃は仲良く二分割されていた。


 勢い余って後ろに倒れ込む陽菜乃。夕は彼女を振り払い、すぐに起き上がった。


 腕にはジーンと響く痛みがあるものの、まだ戦える。拳は握れる。


 阿黒もまた、同様だった。


「やっぱりな、そうだと思ったぜ」


 花吹雪のように散る白い火の粉を、うざったそうに払いながら阿黒が進み出る。


 ゲコッ。阿黒の真後ろで、ゲップを何倍も大きく、深く歪ませた声が鳴る。


 腕だ。侍のような、赤銅色の甲冑に包まれた、巨大な腕。肉厚で湾曲した刀を握ったそれが、四本。


 車でさえジャガイモのように両断できそうな刃は、失われた天井から降る氷雨に当たって、銀に輝いていた。


「一二〇九号室にいたっていう化け物を狩ったんだ、こういうのは持ってるよな? お前らも、あの怪物を妖魔って呼ぶのか? じゃあこの力も、俺たちと同じように呼ぶんだろうな」


「阿黒、てめえ、いつから……!」


「ああ? 俺を知ってるのか。お前みたいな目立つガキ、忘れるはずはねえと思うが……自己紹介の手間は省けたな。代わりにこいつを紹介してやる」


 阿黒は親指で、背後を示した。


 魂喰夜蛇を引き裂いた、巨大な刀を持つ四本の腕、その付け根。


 武者鎧を着込んだ、トラックさえ平然と押しつぶせそうな体格の、巨大な蛙の式神を。


 上質な美酒に酔いしれたような表情で、阿黒は告げた。


夜葬旭やそうきょく・“鎧蛙阿修羅ガイアスラ”。お前らを殺す、俺の力だ」


―――――――――――――――


 雨の音を破る銃声。夜の闇を照らす閃光。


 滅茶苦茶に放たれるそれらのひとつが、境兵の耳と肩を掠めていく。


 うなじに走る冷たい痺れに耐えながら、境兵は右手に“御槌”を呼び出して、固まったヤクザたちへスライディングした。


「ぅおらっ!」


「ぐふっ!?」


 長い柄の鉄槌に顔面を殴られ、ヤクザのひとりが大きく仰け反る。


 境兵はすぐさまそちらの頭部を引き、柄尻を別のヤクザに繰り出した。反対側にも、当然槌の頭部がついている。


 カヌーのオールを漕ぐようにして振るわれたハンマーが、もうひとりの鼻面を砕く。


 残ったヤクザたちは、仲間が攻撃されたと思しき方向に山勘で発砲した。


 境兵は両足を振り上げて、バック転、バックジャンプでギリギリ回避する。


 空薬莢の落ちる音。ヤクザたちは真っ暗なビルの中で毒づいた。


「クソ、どこに居やがる! 出てこいオラァ!」


「ふざけた真似しやがって……誰に喧嘩売ってんのかわかってんのか!?」


「皆殺しにすんぞコラァ!」


「ヒュー、怖ぇ」


 受付カウンターに隠れた境兵は、軽薄な笑みに脂汗を垂らして身震いをした。


 口では怖いと言いつつも、それほどでもなかったりする。複雑だが、賽は投げられた。もう覚悟を決めてやるしかないのだ。


 幸い、敵は銃を持っているものの、葬者ではない。月の光も届かない真っ暗闇なら、夜目が利く境兵の方に部がある。


 六人のうち、四人分の懐中電灯は叩き落とした。相手は暗闇に乗じた境兵を警戒し、一か所に固まっている。時間帯、場所、戦う覚悟。様々な要素が夜葬旭を強め、物質への干渉力を強めている。


 問題ない、殴り倒して昏倒させられる。問題があるとすれば、人数だろう。六人まとめての相手はキツい。


 ―――上でなんかあったみたいだし、早く全員殴り倒して上がりたいんだけどな……!


 ―――こいつら放っておくわけにも行かねえし、チンピラに起きられても困る!


 せめて連絡が出来れば良いが、この状況で声は出せない。陽菜乃からの連絡も無い。


 時間との戦いだ。境兵はそれを実感していた。


「……行くか!」


 小声で自身を奮起させ、遮蔽から飛び出す。


 ヤクザたちは四方の暗闇に向かって、まだ脅しの言葉を投げていた。出来る限り身を屈め、柄が掌に収まるほど縮めた御槌を、ビリヤードの要領で突き出し、柄を伸ばす。


 ギュンと伸びた鉄槌の先端にヤクザが気づいた時には、鼻の骨は砕きつぶされ、仰け反っていた。


 ひっくり返るヤクザの軌道を、鼻血が後追いで描く。これで三人目だ。残った三人が境兵の方を即座に振り向き、銃撃してきた。


「死ねァァァ!」


「死に晒せネズミ野郎が!」


「うおっ!?」


 ドンドンドンドンドン、と連続する銃声が室内に響く。


 ほぼ四つん這いの体勢で銃火をかわし、横切った境兵は、新たな遮蔽に滑り込みながら叫んだ。


「うるさくするなよ、近所迷惑だろうが!」


「迷惑してんのはこっちだコラァ!」


「さっさと全員出てこい! 落とし前つけさせたらァ!」


 さらに移動しながら、境兵は集まったヤクザたちを見つめる。


 殴り倒した三人が、鼻を押さえながら起き上がる。出血しているが、ノックアウトにはほど遠かったらしい。


 ―――やっぱ殺さないとダメか?


 ―――気が進まねえんだけどなあ!


 境兵の移動に気づいたらしく、通ってきた床が銃弾を食らって爆ぜた。


 このまま逃げ回って弾切れを待つのも手だが、それだといつまでかかるかわからない。


 仕方なし、と御槌を強く握りしめ、殺す覚悟を決めたところで、天井の崩落した部屋の扉から真っ赤な炎が吹き出した。


 この世ならざる霊炎は、ヤクザたちにも見えていて、触れることが出来るらしい。


 炎上した六人が悲鳴を上げ、火だるまになってのたうち回り始めた。


「明日香!」


「大声出さないで、仕留めるわよ」


 インカムから不愛想な忠言が飛ぶ。


 やっべ、と口元を抑えた境兵は、素早くヤクザたちに近寄り、消えない炎にまとわりつかれて転げまわる彼らの頭を、順番に叩き潰した。


 死亡を合図としたかのように、ヤクザたちの炎がひときわ強く燃え上がってから消える。


 それに驚かされた境兵の意識は、明日香の肘鉄で引き戻された。


「ぐへっ! ちょっ、お前、肘……!」


「雑魚は放っておいて、早く上に行きましょう。先生たちが心配」


「あ、ああ……」


 境兵は頭蓋骨ごと脳を潰されたヤクザの死体を一瞥し、さっさと走り出した明日香を追う。


 ヤクザたちの死体は綺麗なものだった。炭化することもなく、炎に巻かれた事実など無いかのようだ。


 明日香の夜葬旭・“赫嶽煉かくがくれん”は魂を焼く。条件次第で物も燃やすが、少なくともあのヤクザたちの肉や服対象外だったらしい。


 それだけに、生々しい殺人の手応えが、境兵の手にべったりとへばりついている。


 階段を駆け上がりながら、境兵は言った。


「なんとなくわかってたことだけどさあ、やっぱり人殺しっていい気分じゃねえわ!」


「そう、気が合うわね。私もよ」


 淡々とした返答だった。


 境兵は口の中に苦味が広がるのを感じる。明日香の返事にではなく、あの箱の中身に。


 やるしかないから、境兵はった。後悔するのもおかしいが、それでも“やってしまった”という罪悪感が心に重くのしかかる。


 初めて人を殺したが、色々な意味で辛い。事前に覚悟を決めた上でこれなのだ。あんな箱を作る連中の気など、知れたものではない。


「夕のやつ、大丈夫かな!」


「それを確かめに行くんでしょう。急ぐわよ」


「ああ!」


 段を飛ばして上がると、凄まじいとしか形容できない音が上から聞こえてくる。


 境兵は、夕のことが心配だった。


 彼女に降りかかった危機についても。彼女自身がついさっき見せた、殺気についても。


 ズン、と重たい音がビルを揺らした。

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