ラウンド2:阿黒

 夕の全身を、衝撃と浮遊感が包み込む。


 視界は真っ白で何も見えない。巨大化した白夜が、繭のように夕の全身を守っているからだ。


 ふたりは空中に投げ出されていた。剣を交叉して突撃してきた、鎧蛙阿修羅ガイアスラと共に。


 鎧蛙阿修羅ガイアスラの背に乗った阿黒が高らかに笑う。


「ハッハ! 大した蛇だなァ! ええ!?」


 阿黒が叫ぶとともに、鎧蛙阿修羅ガイアスラは交叉していた剣の片方を振り上げ、柄尻を打ち付けて夕を白夜ごと地べたに突き落とす。


 地面に叩きつけられ、白夜はぐえっ、と苦しげな声を上げた。


 ふたりを飛び越えた鎧蛙阿修羅ガイアスラは、ビルの敷地から外へ繋がる場所に着地する。


 車が少し浮き上がり、運転手役のヤクザが泡を食った。


 白夜はそれどころではなく、夕に絡みついたまま体をくねらせる。


「ぐええ、痛ってぇぇぇ……!」


「早く退けよ! 見えねえし動けねえ!」


「ちょっとぐらい労われよな! 誰のためにやったと思ってんだ!」


 文句を言いながら、白夜は体を素早く解く。


 ビル最上階に空いた穴から身を乗り出し、陽菜乃が声を張り上げた。


「無事か!?」


「ああ、問題ねえ!」


 夕のが返事をすると、それを聞きつけたらしい鎧蛙阿修羅ガイアスラが、のそのそと夕の方に体を向けた。


 四本腕の間から降りた阿黒は、運転役の下っ端に回収したあの“箱”を渡して喉を鳴らす。


「問題ねえか、あの高さから落ちて。やせ我慢にしろ何にしろ、大したガキだぜ。玉無しのクズよりはよっぽどマシだな。……ん?」


 頭上から、白い光が降り注いでくる。


 振り返ると、柱のように巨大な白蛇がアーチを描き、突撃してくるところだった。


 その頭には、夕がサーフィンするかのような体勢で乗っていた。


 風圧で被っていたフードが外れる。


「待ちやがれ! 兄貴を返せぇっ!」


「兄貴? その箱がか? 悪いが、無理な相談だ。ご愁傷さん」


 阿黒は指で銃の形を作り、夕を示す。


 垂直に跳ね上がった鎧蛙阿修羅ガイアスラが、二刀をハサミのように振るって魂喰夜蛇の体を断ち切る。


 しかし、それでは止まらない。


 魂喰夜蛇は大口を開け、車ごと阿黒を呑み込もうとした。


 その勢いが、すんでのところで停止する。


 鎧蛙阿修羅ガイアスラの太い舌が夕を捕らえていたのだ。


「因果だな。そう思わねえか、ガキ?」


「ぐううっ!」


 夕は歯を食いしばり、体を必死に動かして拘束を脱しようとする。


 だが、無理だ。舌に引き戻されてしまい、腕と繋がった魂喰夜蛇も阿黒から離れていく。


 全てが見えていたのであろう。腰を抜かした運転手を蹴りつけると、阿黒は車に乗り込んだ。


「何してる、とっとと車出せ!」


「は、はい!」


 運転手は車を支えに立ち上がろうとしたが出来ず、仕方なく這って運転席へと近づいていく。


 夕は鎧蛙阿修羅ガイアスラの口の中へと吸い込まれる。白夜も抵抗とばかりに夕を縛る舌を噛むが、まるで効果がない。


「畜生、離せ! 兄貴、うおおおおおッ!」


 唯一自由な両足をばたつかせ、夕は猛る。


 阿黒が乗った車の、後部座席の窓が開いた。


 彼は余裕ぶった態度で足を組み、夕に向けて親指を下げる。


「お前らの相手はそいつがする。ここで死んだ方が楽だぜ、ガキども。骨は拾ってやってもいい。骨だけはな」


「阿黒おおおおおおおおッ!」


 憎たらしいほどにゆっくりと、車窓が閉じていく。


 夕が鎧蛙阿修羅ガイアスラの口腔に収まり、運転手が這う這うの体で運転席に乗り込んだ。


 巨大な武装蝦蟇がまが夕を捕食する寸前、その背中を炎の矢が穿つ。


 僅かに仰け反り、捕食がワンテンポ遅れを取った。


 ビルの横壁に空いた風穴に、境兵が立つ。


「思ったより高ぇ! マジでここから飛ぶんですか!?」


「死にたくなければ、飛んだ後で着地したまえ! 死ぬ気でな!」


「くっそ、全部終わったら、パワハラで訴えていいですよね先生!」


 情けないことを喚きながらも、境兵は飛んだ。


 振り上げた両手に巨大な槌が現れる。


 車の一、二台は余裕で押しつぶせそうな鎧蛙阿修羅ガイアスラの体躯をさらに上回る、巨大な槌が。


「フンンンンンンンッ!」


 全力で振り下ろされた巨大な鉄槌が、鎧蛙阿修羅ガイアスラの背中に直撃した。


 夕を縛っていた舌が緩む。左腕を引き抜いた夕は、拳を鎧蛙阿修羅ガイアスラの上顎内側に突きつける。


「やれ、蛇!」


「ヘビじゃねえんだよ! 離せオラ!」


 ドシュッ。白夜の鋭い尾が突き出され、鎧蛙阿修羅ガイアスラの上顎から脳天を突き抜ける。


 夕はすぐに腕を引いて白夜を戻すと、今度は右手を真下にかざした。


 体を絞めつけていた舌はもう解けている。ロケットの吐く炎のように放たれた魂喰夜蛇が地面に食いつき、主を大地に引き寄せた。


 地面を転がって着地する夕の背後に、鎧蛙阿修羅ガイアスラが叩き伏せられる。


 夕の着地を見ていた境兵は、御槌の柄を伸ばして地面に突き立てると、手を滑らせて降りてきた。


「生きてるか!?」


「生きてるに決まってんだろ! けど、逃げられた……!」


 夕は奥歯を噛み締めて敷地の外を見やる。


 そこに、阿黒を乗せた車はもういなかった。


 箱を持って去ってしまったのだろう。


 これで終わりなのだろうか。戦う覚悟も決めたのに、みすみすと箱を奪われた、こんな形で。


 悔恨を、インカムのノイズが断ち切る。


「全員無事だな? 夜刀君、阿黒とやらはどうした」


「逃げられた。あいつがっ、目の前にいたのに……クソッ!」


「諦めるのはまだ早い。車で逃げたのなら、車で追う。ガレージに来るんだ。私なら彼を追える!」


 夕は目を丸くして、隣に駆け寄ってきていた境兵を見上げる。


 境兵は力強く頷くと、顎でビルを指し示した。


「急げよ。鬼木原先生は戦えないけど、追えるのはマジなんだ」


「……!」


 敗色がすぐに塗りつぶされた。


 力強く夕が頷くと、ふたりの背後でザクッ、と土を突き刺す音がした。


 鎧蛙阿修羅ガイアスラだ。脳天を貫かれ、叩き伏せられただけでは消滅しなかったらしい。


 無感情なはずの瞳は、心なしか苛立ちと恨みの色を帯びている。


 阿黒の式神は体を起こし、頭上で二本の刃を打ち付け合った。


「蛙か……。なあ、夕、お前の魂喰夜蛇で睨んだら、なんとかならないか?」


「出来たらとうになんとかしてる」


「それもそうだな」


 境兵は苦笑いすると、既に消していた御槌を再出現させる。


 両手持ちで、頭部の大きさは小ぶりなキャリーケース程度。インカムのマイクをつかみ、境兵は言った。


「なら、俺たちであの化け蛙をなんとかするしかねえな、明日香!」


「構わないけど、その代わり、逃がさないで。あなたも鬼木原先生もヤクザに顔が割れた。ここで逃げられたら、ほぼ敗北よ」


「言われなくてもわかってんだよ、そんなことは!」


「よろしい」


 明日香は壁に向かって、炎の弓を構えた。


 親指のあたりに、炎で出来た小さな羅針盤が三つ浮かぶ。


 遮蔽で見えなくとも問題ない。霊炎は、より強い燃料たましいの在り処を指し示す。


 ひとつは夕、ひとつは境兵。そしてもうひとつは、鎧蛙阿修羅ガイアスラ


 位置は見抜いた。ならば次は射貫くのみ。


「夜葬旭……“赫嶽煉かくがくれん”!」


 カッと目を見開くと共に、矢を放つ。


 壁をすり抜けた鬼火の矢は鎧蛙阿修羅ガイアスラの腕の付け根を刺し穿った。


 無表情ながら驚いたらしく、巨大な切っ先がブレる。その隙に境兵は飛び出し、腰を思い切りひねって鎧蛙阿修羅ガイアスラの横っ面を殴りつけた。


「行けえッ!」


 真横を向かされた鎧蛙阿修羅ガイアスラの死角を、夕は全速力で駆け抜ける。


 ビルの中を通ればガレージだ。中のチンピラたちが起きていないかだけ心配だったが、彼女ならば大丈夫だろう。


 にやりと笑う境兵の頭上から、大剣が振り下ろされた。


 横向きにした柄を掲げて唐竹割にされるのを防ぐ。だが、想像以上の重さに膝が折れかけ、両腕が潰れそうになる。


 境兵は歯を食いしばってこれに耐えた。


「うおおおおおおっ! 負けるかァァァ!」


 力を込めて、刃を押し返す。


 しかし、甘い。鎧蛙阿修羅ガイアスラの刃はひとつではないのだ。


 体勢を持ち直した鎧蛙阿修羅ガイアスラが、もう一本の刀で境兵の胴体を両断しようとする。


 頭上からの攻撃を受け止めるので限界だった。


 斬撃が境兵の腹へと吸い込まれていく。


―――――――――――――――


 陽菜乃の運転は、かなり荒かった。


 まるでレースゲームでもしているかのように、タイヤがアスファルトに擦れて甲高い悲鳴を上げる。


 助手席に座った夕は、扉の裏にしがみつき、シェイクされる車内で激しく振り回されていた。


「くっそ、事故るなよ!?」


「祈っていてくれ。今更だが、シートベルトはしっかりな!」


 陽菜乃はハンドル横のホルダーに引っかけたスマホの画面と、前方を交互に見ながらさらにアクセルを強く踏み込む。


 阿黒を乗せた車の後ろ姿は見えない。隈取組事務所の位置は教えていたが、陽菜乃はカーナビにも頼らず、迷うことなく車道を突き進んでいる。


 スマホの画面は、漁船のソナーのようになっていて、網目状の円の中心からやや離れた位置に光点がいくつか浮かんでいた。


 夜葬旭・“霊憑機術れいひょうきじゅつ”。触れた機械を霊魂に適応させることが出来る力だ。


 これがあれば、“マーキング”した阿黒の追跡には事欠かない。


 問題は、追いついた後のことだ。


 同じことに思い至った白夜が、問いかけてくる。


「なあ、あのふたりは連れてこなくて良かったのかよ?」


「無論だ。今のうちに、あの式神についてわかったことを伝えておこうか」


 鋭いドリフトを決めながら、陽菜乃は語り始めた。


 前提として、夜葬旭は葬者本人の魂、ひいては“生きる意思”が力となったもの。


 言うなれば、夜葬旭は葬者そのものであり、切っても切り離せない存在である。


 これは式神使いも例外ではない。夕の“魂喰夜蛇”や境兵の“御槌”は、それぞれ独立した存在に見えるが、その実、葬者本人が近くにいなくてはならない。


 その証拠に、魂喰夜蛇と一体化した白夜は夕から離れられず、御槌は境兵の手から一定以上離れると自動的に消滅する。


 そこまで聞いて、白夜は違和感に気が付いた。


「待てよ。でも阿黒あいつは、式神を置いていったよな?」


「なんなら、あの蛙に俺たちを始末させようとしてたろ」


「そこが問題だ。君の兄上の首を詰めた“箱”のような細工があるのか、本人から独立させて動かすまでが能力なのか、はたまた突入させた若衆に後始末を任せるつもりだけだったのかはわからない。しかし問題はそこじゃあない。鎧蛙阿修羅ガイアスラを出した時点で、阿黒は霊的に無防備なんだ」


「霊的に……無防備?」


「平たく言おう。今の彼は、鎧蛙阿修羅ガイアスラを解除しない限り、霊が見える一般人でしかないということだ」


「つまり、今のアグロは、夜葬旭を使えねーってことか!」


「その通りだ」


 赤信号無視。深夜帯の郊外ゆえに、車通りが少ないことが幸いしている。


 レーダーを見れば、だんだんと阿黒の車も近づいてきていることがわかった。


 陽菜乃は両目を素早く動かしながら、レクチャーを続ける。


「もっとも、銃だの剣だのを持っている可能性は捨てきれない。そういう物質的な武装は相変わらず可能だからな。だが今の時間帯、今の君なら、夜葬旭でそれらの武装ともやり合えるだろう。懸念・不明点は色々とあるが……夜刀君は、今更それで臆しやしないだろう?」


「当たり前だ」


 夕は冷たく応えて目を瞑る。


 瞼の裏に、焼き付いて離れない“死”の光景が蘇ってくる。


 首を落とされた兄の死体。隈取組に捕らわれ、拷問死した名も知らぬ人々。


 ヤクザは兄の反逆をあげつらって、夕を奴隷に変えた。そして二度と逆らわぬよう、苛烈な“教育”を施してきた。その筆頭に立っていたのは、他ならぬ阿黒だ。若頭補佐として、組に逆らった分子の弟を利用した。


 兄の死体を見せつけられた時でさえ、悲しみよりも先に恐怖を感じた夕には、どうすることも出来なかった。自分を叱咤する声よりも、遥かに強い恐怖を前にして、夕は這いつくばり、哀願を繰り返してきた。


 殺してやりたい。仇を討ちたい。そう思いながら、あまりにも弱い夕は、屈辱に甘んじ続けたのだ。


 現実を理由にして、己の怒りを恐怖の灰に押し殺した。


 それでも消えなかった炎は今、煽り立てられて夕の全身を巡り、焼き尽くさんばかりだ。


「上等だ。今度はあいつを……地べたに這いつくばらせてやる!」


 魂喰夜蛇がなりを成す。その爛々と輝く赤い瞳を、陽菜乃は一瞥した。


「ひとまず、箱を奪い返すといい。私は戦えないからな、箱を持って一度セーフハウスに持っていく。ダッシュボードを開けてくれ」


「あん? なんだこれ、懐中電灯か?」


「それはGPS兼セーフハウスへの道案内だ。ライトを点ければ、私の居場所を示してくれる」


「センセー、どういうゲンリしてるんだ、これ?」


「なに、私の夜葬旭の賜物さ。……それより、見えてきたぞ」


 夜道を追突上等で爆走する陽菜乃の車が、ついに阿黒の乗る黒塗りの車を捉えた。


 スマホの探知も、ちょうどその車がいる場所を指し示している。


 陽菜乃はアクセルを強く踏み込みながら続けた。


「私は君たちと違って戦えない。大人のくせして守ってやれず、戦いの場に連れ出し、足手まといにならないよう、最低限の仕事をしてとんぼ返りするのが関の山だ」


 ハンドルから片手が離れ、魂喰夜蛇へと伸びる。


 白い炎の蛇は鎌首をもたげると、陽菜乃の手のひらへすり寄った。


 蛇の頭を撫でてやりながら、陽菜乃は言う。


「夜葬旭は、葬者の魂が形になったもの。済まないが、君の勝利に全ベットするしかないんだ。もし、明日香たちが鎧蛙阿修羅ガイアスラを倒し、余力を残していたら、彼らを連れて戻ってくる」


「そうじゃなかったら?」


「彼らを連れて、セーフハウスに行く。君を助けには行けないし、あのアジトは捨てなければ。手当も必要になるだろう」


「オレたちは、勝って歩いて戻らなくちゃいけないってわけか」


「迎えには行くつもりさ。だが、いずれにしろ君はひとりで戦わねばならない。君を本気で殺しに来る相手と……って、おい!?」


 話が終わる前に、夕は窓を開いた。


 横殴りの雨が降る中、窓から上半身を出して、ルーフにしがみつく。


 窓枠に乗せた尻を上げて代わりに足を置き、強風と雨に目を細めながら体を伸ばす。


 白夜がルーフに牙を突き立てて、夕の左腕を固定した。


 阿黒もこちらに気づいたらしい。窓を開けて身を乗り出し、銃口を向けてきた。


 前方の暗闇で火花が爆ぜる。陽菜乃はギリギリでハンドルを素早く切り、大きく車線をずらして銃撃をかわす。


 色めき立った陽菜乃は、溜息を最後に意識を切り替えた。


「夜刀君、一気に近づくぞ!」


「ッ!」


 アクセルが踏み込まれ、車が一気に近づいていく。


 阿黒の車も速度を上げるが、魂喰夜蛇が夕の右腕から伸び、トランクに食らいついた。


 距離が縮まらない。夕は顔面を打ち据える雨の冷たさに耐えながら、思い切り窓枠を蹴って跳んだ。


 魂喰夜蛇が胴体を縮め、夕をトランクへ近づけていく。


 強風がフードとキャップ帽を吹き飛ばし、白い長髪を雨の中になびかせた。


 何か言ったようだったが、聞こえなかった。


「兄貴を……返しやがれええええっ!」


 勢いのまま、トランクへドロップキックをぶちかます。


 少女の大して筋肉もついていない両足では、軽く凹ませるのがせいぜいだ。


 今宵の魂喰夜蛇の牙は違う。牙はトランクの蓋を突き抜け、表面をひしゃげさせた。


 慌てた白夜がトランクに噛みつき、夕を固定する。夕は右腕を引いて、トランクに風穴を開けた。


 無理矢理こじ開けた隙間をガムテープでなんとかぐるぐる巻きにした、あの“箱”がそこにあった。


 阿黒は運転手に怒鳴り散らす。


「何してる、振り落とせ!」


「む、無理ですよ! こんな雨ン中で無茶したら事故っちまいます!」


「チッ。なら弾丸タマは!」


 運転手は片手でハンドルを操りながら、ジャケットの胸ポケットに手を突っ込み、拳銃を阿黒に投げ渡す。


 阿黒は先に撃ち切ってしまった拳銃を捨て、新たな銃で後部ガラス越しに夕を狙う。


 しかし夕は、箱を大型化した魂喰夜蛇に咥えさせると、後ろに跳んだ。


「停めろォ!」


「えッ!? あ、はい!」


 阿黒が引き金を何度も引いた。


 とっさの急ブレーキによって揺れる車内のせいで、照準は大いに外れてしまう。


 何発かがシートに穴を空け、ガラスを割った弾丸は夜の虚空へ消えていく。


 トランクから離れた夕は、ドリフトして横腹を向けた陽菜乃の車へ魂喰夜蛇を射出。


 白い蛇の頭は、開きっぱなしになった助手席の窓から突っ込み、シートに咥えていた箱を置いて、また抜け出した。


「白夜っ!」


「人使いが荒いんだよ!」


 文句を言いながら、全身で夕をぐるぐる巻きにする。


 ふたりは地面をバウンドし、激しく車道を転がった。


 白夜はすぐに体を解く。濡れたアスファルトに着地した夕は、ブレーキとアクセルを交互に踏んで背を向けた陽菜乃の車を見送る。


 窓から突き出したサムズアップサインを見送って、夕は振り返った。


 甲高い摩擦音を響かせて停まったはいいものの、勢い余って横転した黒塗りの車から、阿黒が這い出す。


「テメェ、このガキ……やってくれるじゃねえか。クハハハハハ……!」


 阿黒は笑いながらも、ナイフを突き立てるような視線を夕に向けた。


 ビリッ、と夕の胸の奥で恐怖が走る。


 息を吸って感情を押し込むと、背筋を伸ばした。


 車道に降り立った阿黒は、弾切れになった銃を足元に捨てる。


「そう焦らなくてもよ、俺の弟分たちが、ウチの事務所に招待したんだぜ。パーティの準備もしてよ」


「……それで、若衆だの、若衆候補のチンピラだのに拷問させて、お前らは高い酒を飲むんだろ。将来のための訓練とか言って。いいご身分だよな、阿黒。俺の兄貴にもそうしたのか?」


 阿黒は鼻白み、眉をひそめた。


 確かに、隈取組ではそういう“宴”をよく行う。


 ヤクザは非道でなければ務まらない。飴と鞭を使いこなし、恐怖で反抗心を奪い取り、従えば甘い汁を啜れると教え込まねばならないからだ。


 故に、若衆や目をかけられた若衆候補は、幹部クラスの手ほどきを受けて拷問し、血と死に慣れる。阿黒もかつては通った道であるが、何故をそれを見覚えのない子供が知っている?


 浮かんだ疑問符は、すぐに押しのけられた。阿黒は獣じみた笑顔で言う。


「お前の兄貴なんて知らねえよ、ガキ。ウチモンでもねえ堅気ゴミなんざ、いちいち覚えてねえからな」


「ゴミだと……?」


 小さな拳が握られる。


 形の良い薄桃色の爪が掌を食い破るが、肉を抉る痛みは、夕の脳まで届かなかった。


 白い炎、あるいは煙。どちらともつかないオーラが立ち昇る。


「ふざけんな、ゴミはお前らの方だろうが! 人殺しが趣味の薄汚いクズ野郎どもが、兄貴をゴミなんて言うんじゃねえ!」


「何が兄貴だ! 俺たちの手にかかったってこたぁ、麻薬クスリだの借金カネだの宗教カルトだのに手を出した間抜け野郎ってことだ! そんな連中、どうしようもないカス野郎に決まってる。表にも裏にも要らねえ人材だ、処分して金に変えて何が悪い!」


「違う! お前みたいなのが兄貴を語るんじゃねえッ!」


 積もり積もった怒りを爆発させる夕に対し、阿黒はあくまでも凶悪な笑みを崩さないまま、己を探るように手を握っては開く。


 陽菜乃の予測通り、彼は鎧蛙阿修羅ガイアスラを使えない。あの式神は彼自身であるがゆえ、常に繋がっており、遠くで戦っているのもわかる。山彦のように響く戦闘の音を感じ取れるのだ。


 一方で、全力をあの廃ビルに置いてきてしまったため、夕を倒すために力は使えない。


 焦るあまり、銃も無駄打ちしてしまった。今の阿黒は、完全に丸腰だった。


 ―――若衆あいつら、一体何をしてやがる?


 ―――突入するって聞いてから、音沙汰がねえ。


 ―――あいつらと鎧蛙阿修羅ガイアスラが居りゃあ、大学講師とガキの集まりなんざ、とうに捕縛れてるはずだろうが!


 ―――まさかやられたのか? 堅気の素人だって調べのついてるガキどもにか!?


 内心の苛立ちが、こめかみの青筋となって浮かび上がった。


 鎧蛙阿修羅ガイアスラは、一度式神として顕現させて命令を与えると、阿黒が直接命令を撤回しない限り愚直に戦い続ける。


 そして、命令も撤回も、顕現の解除も、阿黒が鎧蛙阿修羅ガイアスラの近くに居なければ出来ない。


 現在の命令は、“夕たち四人を死なない程度に叩き伏せろ”。


 これが完遂されない限り、阿黒本人に力は戻ってこない。


 目を見ればわかる。二匹の蛇を連れた白髪の少女は、阿黒を殺すつもりだ。


 そんな相手と丸腰でやり合わねばならない。


 阿黒は自分の頬を殴りつけ、己で己に気合を入れた。


 ―――やってやる。


 ―――どの道、手ぶらじゃ帰れねえ。こいつを叩きのめしてビルに戻り、残りとあの教師を潰す!


 夕は唐突な阿黒の奇行に驚いたが、すぐに怒りで塗りつぶし、身構える。


 阿黒は格闘戦の構えを取って、手招きで長髪した。


「来いよ、お嬢ちゃん。大人に喧嘩売ったらどうなるか、骨の髄まで、お前が死ぬまで、嫌ってほどに教えてやる。そのあと、たっぷり調教してやるよ。“女”に相応しいようにな!」


「……ぶっ殺してやる!」


 理性のたがを弾き飛ばし、夕は阿黒に襲い掛かった。

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