冷厳/熱情

 夕の兄は、三年前に死んだ。


 その日のことを、夕はずっと忘れることが出来ずにいる。


 太陽も顔を出さないような朝早く、妙な胸騒ぎに揺り起こされ、玄関に行くと、兄が外に出るところだった。


 いつも笑顔でいた兄は、硬い表情をしていた。


 今思えば、あれは決意を決めた者の顔だったのだろう。だが兄は、夕に気づくといつものように笑いかけた。


 ―――こんな時間に、どこ行くんだ?


“ちょっとな”


 口数の多い兄が、短くはぐらかしてくる。


 夕は酷く不安になった。兄に近づき、しがみつきたいと思うほどに。


 弱く幼い衝動を押さえつけながら、じっと見つめてくる夕に、兄は言った。


“心配するな、すぐ戻ってくる”


 扉に手をかけ、押し開く。隙間から覗く向こうは、闇。


 兄は去り際、動きを止めた。


“夕、ちゃんと勉強しろよ。真っ当に育って、働いて、結婚して……子供作って、色んな人に泣いて見送ってもらえるような男になれ。強くて優しい男にさ”


 どうして、今更そんなことを?


 そう聞きたかったが、出来なかった。


 ふたりの間で、扉が閉じる。


 それが、兄の顔を見た最後の時だ。


 一週間後、兄は家に帰ってきた夕を出迎えた。


 ヤクザによって壁に磔にされ、無惨な拷問痕をいくつもこさえた首無し死体となって。


―――――――――――――――


 夜になって自宅に戻った陽菜乃は、異様な静寂にうなじを撫でられた。


 靴はふたり分。境兵と、夕の履いていたものが脱ぎっぱなしにされている。


 電気も点いているが、やけに静かだ。ただ静かなだけではない。何か、空気が重い気がする。


「夜刀君、豊来君、いるのか?」


 声をかけながら、自宅を進む。思い描いた最悪のシナリオは、境兵に持ち帰らせた箱が原因で、自宅に新たな妖魔が生み出され、ふたりが殺されるという事態に陥ったこと。


 だが、それは杞憂のようだった。


 リビングには明かりがついていて、境兵がソファに腰かけている。


 両肘を膝に乗せ、手を組んで、俯く。いつも明るく、友人たちと盛り上がっていた彼からは、想像もつかない姿だった。


「豊来君?」


「……あ、先生。って、もうこんな時間」


 境兵は背中を背もたれに体重をかけると、片手で両目を覆う。


 傍には、床に敷かれた新聞紙。そこに置かれた何かに、境兵のジャケットがかぶせられている。


 リビングを見回したが、いるのは境兵だけだ。


「夜刀君はどうした?」


「夕は、その……トイレに駆け込んだっきり、戻ってこなくて」


「トイレ?」


 リビングを出て、玄関とは別の通路に首を伸ばす。


 半開きになったトイレの隙間から、明かりが漏れていた。


 扉を開くと、床の上で胎児のように体を丸め、がたがたと激しく震える夕の姿。


「夜刀君!? どうした、何があった? それにこの怪我は……」


「……っっ!」


 抱きかかえるなり、夕は陽菜乃にしがみついた。


 顔色は真っ青で、首筋にかかる息は冬の風のように冷たい。


 口の端に残る胃酸と唾液との混じった痕は、無残な色合いをしていた。


 話が出来る状態ではない。そう思って抱き上げると、夕の左腕を伝って白夜が絡みついてくる。


 蛇の瞳は、不安そうに揺れていた。


「なあ、センセー。その、戦うのか? 葬者狩りの連中と?」


「この状況だ。そうなる可能性が高いだろうな」


「……あいつらが諦めるまで、どこかに隠れるってのは? ほら、この街、広いだろ? どこか探してさ……」


「確か、君は何年も追い回され続けたんだろう。今更諦めるとは思えないし、まして、ひとつの街に閉じ込めた今、向こうにとって千載一遇の好機だ。草の根を掻き分けてでも探すだろうな」


 それ以上反論が思いつかないのか、白い蛇は下を向いて、体をくねらせる。


 そうした仕草は、彼女が式神ではなく、元はひとりの人間だったのだと実感させた。


 トイレを出て、夕にあてがった寝室に向かいながら、問いかける。


「何があった? あの“箱”の中身を見たのか?」


「…………」


 白夜が上目遣いになる。無言の肯定。


 夕にも僅かに聞こえていたらしい。震えながら陽菜乃の服を握って、泣き腫らした声で、壊れたように呟いた。


「に、い……にい、ちゃん……!」


「夜刀君?」


 赤子をあやすように軽く揺すると、がちがちと歯を鳴らしながら、夕は言葉を絞り出した。


「首……! なんで……兄ちゃんの、首が……!」


 その一言で、全てを察した。


 陽菜乃は夕をベッドに寝かせて、明日香に連絡を入れる。


 幸い、すぐに繋がった。


「先生、ちょうど良かった。昨日、境兵が仕留め損ねた妖魔を片付けたところです」


「そうか。明日香、早くそこから離れて、どこかのコンビニにでも隠れていてくれ。すぐ迎えに行く」


「……? わかりました」


 深刻な声音に疑問を持たれたが、通話はすぐに終わった。


 電気を点けた寝室に、丸くなった夕を残してリビングへ向かう。


 境兵に少し出ると伝えると、彼は不承不承ながらも頷いてくれた。


 彼にしては珍しく、出来れば早く帰ってきてほしいという、弱気なリクエスト。


 陽菜乃は頷き、足早に家を飛び出した。




 数時間後、事故物件一二〇九号室。


「無い?」


「ええ、はい。家中一通りひっくり返したんですが、どこにも……。っつーか、中は酷えことになってますよ。誰か焼身自殺でもしたんじゃないかってぐらい」


 電話に首肯しながら、隈取組若頭補佐・阿黒は、懐中電灯で電気のない部屋を照らし出した。


 黒のジャケットに赤のシャツ。撫でつけた髪は、赤と黒の毒々しいまだら模様。歳若いが、肩書き相応の凶暴性をまとった男は、その場に屈みこむ。


 木材のブラウンが洒落た廊下と違い、そこは光源の有無に関係無く真っ黒だ。床に触れた指先が黒くなる。焦げ臭い匂いから、煤が着いたのだと容易に想像が出来た。


「幽霊……いや、妖魔って言うんだったか。そっちはどうだ?」


「いないですね。ゴキブリ一匹見えやしねえ。誰かが妖怪、じゃねえや、妖魔を燃やしてブツを持ち去ったとしか。どうしますか、鷹巣たかすの兄貴」


「わかった。そこのマンションを管理してる不動産会社にナシつけて、何があったか確認しろ。例のブツについては……まあ、持ち去った奴をバラすに限る」


「わかりました、なんかわかったら、また連絡します」


「おう。例の、試せなくて残念だったか?」


「ええ、まあ。けど、試す奴が化け物から違うのに変わっただけです。鷹巣の兄貴は、今夜でしたっけ」


「そういうことになってるな。あまり、気は進まねえが……」


「持っておいた方がいいですよ。生まれ変わった気分になれます」


 阿黒の手に力が籠もり、端末がミシミシと軋む。


 電話越しの熱弁と高揚を受けてか、通話相手はしばし黙り込んだ。


 だが、鼻白んだような沈黙はすぐに払拭される。


「ハッ、前にも増して血気盛んだな。こいつは、本当にあのガキどもも不要になってくるか」


「ですね。頭数が減ったのは痛手ではありますが、その穴はあいつらじゃあ埋められません。男としての“キアイ”が足りてねえ」


「連れてきたのはお前だろう」


「いや、夜刀のガキです」


「そうだったな。あの玉無し野郎、雑飼の叔父貴が死んでからこっち、どこを探しても見つかりやしねえ」


「ま、化け物に食われたってオチでしょうよ。千免の奴が言うには」


「ふん、まあいい。そっちは任せるぞ」


「了解です」


 阿黒は電話を切ると、もぬけの殻となった一二〇九号室を後にする。


 比較的真新しい焦げ跡。なのに熾火の類は見当たらず、妖魔がいた形跡も綺麗さっぱり焼失している。


 書類上は無人の部屋に、リビング全体を覆うほどの火事。火元は不明で、火災報知器が鳴った様子も、騒ぎが起きた様子もない。天井まで焼け焦げているのに、リビング以外には一切の焼け跡もないときた。


 少し前までの阿黒だったら、首をひねるだけで終わっただろう。


 だが、今は違った。


 拳を握ると、肘から先をぼんやりと覆う、赤銅色のオーラが見える。


 阿黒はその腕を、手近な部屋の中に向かって振った。


 窓の外にへばりついていた、海綿のような何かがバッサリと両断され、切断面から陽炎のように夜の虚空に融けていく。


 阿黒は心臓が脈打つたび、全身に熱が……熱く滾る生きる意思が巡り、力が湧いてくる感覚に酔いしれた。


「どこの誰だか知らねえが、組に楯突く奴は許さねえ。見つけ出してやるぜ……」


 昂る心持ちのままに、口角を吊り上げる。


 算段は、既に整っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る