無力・その2
腹を抉る重い衝撃に吹き飛ばれて、夕は地を転がった。
高架の上から轟音が響き、沁み落ちてくる。影に染まったアスファルトの上で、夕は体を丸めてうずくまった。
「あ、ぐ……っ!」
「夕!? 起きろ、逃げるんだよ!」
白夜が耳元でがなり立ててくる。
わかっている、そんなことは。言い返してやりたかったが、声を出せない。
体中に重りをつけられたみたいだった。
けれど、豪には一切関係がない。胸倉をつかみ上げられ、宙吊りにされてしまった。
地面に叩きつけられる。全身に浸透する衝撃が、夕から呼吸を奪い取る。
大きな足に背中を押さえつけられた。
夕は咳をしながら、豪を見上げる。その眼差しを見れば、何があったか大体わかる。
今振るわれている暴力が、単なる八つ当たりでしかないことも。
「ごほ……っ! やめろ……っ!」
「あァ?」
豪は踏みつけるのをやめると、夕を思い切り蹴とばした。
横倒しのまま、一メートルほど遠ざけられる。
夕は痛みに震えながら、胎児のように丸くなった。
―――畜生。
耐えるのが精一杯の状況にあって、夕は奥歯を噛み締める。
懐かしいことだ。高校に上がって間もない春の終わり、こうして豪に挑んで叩きのめされた。
いや、あの時の方がマシだった。最終的に潰されるとしても、立ち上がることが出来た。最後まで反抗出来た。
今は、出来ない。きつく瞑った目に涙が滲んだ。
豪は夕の首をつかんで拾い上げると、高架を支えるコンクリートに華奢な背中を叩きつける。
腕に力が入らない。夕は潤んだ目を開けば、やり場のない苛立ちを燃やす豪の顔。
不思議と、笑えて来た。
外から見た男の夕は、こんな表情をしていたのかもしれない。内心で夕を嘲笑っていたこいつが、その自分と同じ顔をしているのだと思うと、笑いが込み上げる。
夕は皮肉っぽく口角を上げて、呻いた。
「なにに……けほっ、イラついてるんだよ……? 組長に何か言われたのか? それとも、若頭か? 阿黒にか……?」
豪は驚いて身を引きかける。挑発してどうするんだ、と白夜が叫ぶが、キンキン響く耳鳴りに邪魔された。
夕は乾いた笑いを浮かべた。
「ははは、良かったじゃねえか。目をかけられたかったんだろ? どうだ、ヤクザに都合のいい負け犬として見られた気分は?」
「だ、黙れ……黙りやがれ!」
驚愕と動揺を怒りで塗りつぶし、豪は夕の頬を殴りつけた。
衝撃により、フードの中に隠れていた白い長髪がひと房、外に飛び出す。
口の中に血の味が滲む。
広がっていく味わいながら、笑みを深める。
痛々しく、傷だらけで、辛い笑顔を。
「ざまぁみろ。お前は今後、認められることもなく、ヤクザに食いつぶされて終わるんだ。それとも、ここで俺を殺せば、見直されると思ってんのか?」
「黙れって言ってんだろうが!」
体が軽くなる。
真横に投げられて、また地面に落ちたのだ。夕の意識は、少しぼんやりとしていたが、まだ笑っていた。
もう、笑うしかなかった。
豪がツカツカと近寄ってくる。ヤクザの
「テメッ、てめぇが、何を知ってるってんだ!? 知ったような口を聞きやがってガキが!」
岩石のような拳が振りかぶられた。
恐怖は麻痺して、痛みが脳の芯まで支配している。
「夕―――っ! 何考えてんだ、オマエ―――!」
―――何、か。
―――さあ。何してるんだろうな、俺。
白夜の罵倒する声が、頭の中で反響する。
抵抗もせず、鼻面を打ち砕かんと迫る鉄拳をぼうっと見つめていると、高架下に良く響く声がした。
「こっちです、早く来てください! 早く!」
「!?」
豪の拳が夕の右側を突き抜け、フードをめくりあげる。
彼が振り返ると、高架下から出たところに、逆光のシルエットが大げさにどこかへ手招きしているのが見えた。
舌打ちをして夕を投げ捨て、その場から走り去っていく。
仰向けにされた夕は、灰色の天井をぼんやりと見上げていたが、その視界に誰かの顔が入り込んできた。
きっと、割り込んできた者だろう。さっきの大仰な慌てぶりはどこへやら。降ってきたのは、落ち着いた、紳士的な声音だった。
「ご無事ですか?」
「……ああ」
夕は答えながら立ち上がる。差し伸べられた手には触れなかった。
少しふらりとしつつ、助けに入った者を見上げる。
甘いマスクと金髪が特徴の好青年だ。フード付きのコートを着ていて、その下は白衣のような白いスーツ。
なんとも胡散臭い風体だった。
「あなたのような、可愛らしい少女を殴るなんて、酷い人ですね。お知り合いですか?」
「ハッ」
鼻で笑い、背を向ける。
体が重く、酷く痛む。自分の体じゃないようだ、と思って、呆れ笑いをした。
男は、なおも食い下がってくる。
「待ってください。見たところ、怪我をしているようですし、病院まで送りますよ。ご家族に連絡は? さっきの方も近くにいるでしょうし、ご自宅までご一緒した方が……」
「いらねえよ」
「……あの、せめてお名前を伺っても!?」
夕は男の声を無視して、よろよろと高架下から這い出した。
硬い灰色の天蓋を抜ければ、その上も闇。
コートの男は、去っていく夕を黙って見送ると、懐から包帯と色付き眼鏡を取り出す。
異常な歪み方をし、頬骨のあたりから消えていく顔を、白い布が覆い隠した。
「もしもし、社長ですか?」
ボロボロのまま、居候している陽菜乃の部屋に戻ると、何故かエントランスで境兵と出くわした。
境兵は、頬を晴らした夕を見るなり驚いて、何があったか問い詰めてきたが、応えたのはずっと不機嫌な白夜だ。
部屋に連れ戻され、電話を肩で支えながら応急処置をしている間も、夕は心ここにあらずといった状態。
やがて、最後の絆創膏を貼りつけた境兵は一息吐いた。
「はぁー……。びっくりさせるなよ、何かと思っただろ?」
「……何でもいいだろ」
「「良くねえよ!」」
境兵と白夜の声がシンクロする。
だが、夕は目をそらしたまま、対話を拒否した。
白夜はぐぐぎぎ、と怒鳴り声を噛み殺していたが、そっぽを向いて境兵に顔を寄せた。
「で、なんでオマエがここにいるんだ? センセーは?」
「調査って言ってたぜ。昨日のマンションみたいな場所が無いか、探しに行った」
「はあ? カンベンしてくれよ……」
「別に、鬼木原先生だって、俺らを死にに行かせたくはないと思うぜ。部屋っつーか、こいつを探しに行ったんだろ」
境兵は、座っていたソファの傍らに置いていたスーツケースを引っ張ってきた。
持ち上げ、テーブルに置くと、ドスンと重そうな音を立てる。開くと、中身はあの白い箱型の機械。
「オマエが昨日、持って帰ってきた奴だっけ」
「そう、こいつが妖魔を引き寄せたり、あんな化け物に変えたりしたらしい。白夜、見覚えないか?」
「いーや、無いな。変な武器を使うヤツをふたりぐらい見かけたことはあるけど、こんな箱みたいな形はしてなかった」
「変な武器? 式神じゃなくてか?」
「多分違うと思うぜ。それで、これがなんだよ?」
「それがなんだかわからなくってさあ。それを調べるために、先生がひとりで行ったってわけだ。俺はこいつと夕を放っておけないからって、鍵渡されたんだ」
境兵の視線が夕に注がれる。
銀色の瞳はあらぬ方向を向いていて、一言も口を利かない。
部屋で休んでいるはずだ、と陽菜乃は言っていたが、喧嘩をして怪我をして帰ってきた。
明日香の話が蘇る。彼女は、夕も白夜も信用に値しないのでは、と忠告してきた。
気持ちはわからないでもない。だが、白夜はともかく、夕を疑うことは出来そうにない。
今の夕は、傷つき怯え、誰彼構わず威嚇する野良猫のようにしか見えなかった。
そんな年下の女の子に、なんと声をかければ良い? 困ったことに、境兵にはそれがわからない。
仕方なく、彼は適当な話題を持ち出すことにした。
「ってわけで、ちょっとこいつを叩き割ってやろうって話になってな。先生は、こいつからこの結界を張った連中、つまり白夜を付け狙ってる奴を割り出して、先手を取れるんじゃないかって思ってる」
「本格的にやりあう気か?」
「そのために俺たちに声をかけたんだろ? リスクを承知で」
「まあ……。どっちかっていうと、なんとかやり過ごすとか、結界に穴を開けて逃げるとか……」
「意外と消極的だな……」
「いや、やるしかねえなら、オレはやるぜ。ただなあ、こっちのお嬢ちゃんはなあ」
白夜が当て擦るように、夕を振り返った。
口喧嘩をしたり、あるいは壁に叩きつけて黙らせようとしてきた夕が、なんの反応も見せない。
落ち込んでいるのだろうか。ただ頬杖をついて、あらぬ方向を疲れた眼差しで見ていた。
境兵は気まずそうに頭を掻くと、席を立った。
リビングの開いているスペースには新聞紙が敷かれており、そこに機械の箱が乗せられる。
白夜は胴体を伸ばして、それを見下ろした。
「“御槌”で割るのか? まだ昼間だぞ」
「なーに、妖魔じゃねえんだ。式神に頼らなくたって、やりようはある!」
新聞紙の端に置かれた、ホームセンターで買ったばかりと思しき
立てた鑿を箱の表面に擦り付け、継ぎ目を見つけると、そこに対して鑿を垂直に立てた。
「それじゃ、中身とご対面だ。行くぜ!」
白夜は境兵の肩に首を回して、興味津々で事態を見守る。
カンッ、と小気味の良い音が鳴っても、夕は一瞥もしない。
金属同士のぶつかる音が、何度か鳴って、やがて空いた隙間に鑿をねじ込んで無理矢理開く。
頑丈なプラスチックの外殻が破壊された次の瞬間、境兵の悲鳴が響き渡った。
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