White Night:All Out -白夜天荒-

よるめく

プロローグ 夜刀夕の最低な一日

 夜刀よがたなゆうが、肉親を殺したヤクザに対して復讐劇の火蓋を切った、その始まりの日。


 彼は殺されかけていた。人ならざる怪物に。


 木々が茂り、落ち葉の敷き詰められた斜面を、半ば転がるようにして走る。


 足元の石も草も虫も蹴散らし、ただひたすらに足を動かす。


 喉が痛む。呼吸するたび、壊れた笛のような音がした。


 ―――クソ、クソ、クソっ! なんだあいつ! 一体どこから……っ!


 走りながら、背後を振り返る。


 不規則な地響きと、木々のなぎ倒される音が、夕を確かに追いかけて来ていた。フェリーの汽笛を数百倍おぞましくしたような咆哮は、およそこの世のものではない。


 姿は闇に隠れて見えない。だが、確実にいる。いきなり、なんの前兆もなく現れ、不良仲間もヤクザも殺戮した怪物が、今度は自分を殺そうとしている。


 ―――ふざけんな、なんなんだよ!


 ―――あのクソ薬中ヤクちゅうが化けて出たってか!? ざっけんな!


 ―――呪われるべきはテメェだろうが、俺じゃあねえ!


 内心の罵声が、かの者に届くはずはない。


 しかし、勢いよく背中に吹き付けた突風と雫の感触、それらを伴う執念の叫び声が、夕を震えあがらせ、足を竦ませる。


 死ぬ。足の骨が溶けて、地面に吸い込まれていくような気がして、夕は自分の腿を殴りつけた。


 ここで立ち止まれば、本当に死ぬ。あの怪物に食われて、こんな山奥で、独り恐怖の中で噛み砕かれる羽目になる。


 それだけは、絶対に嫌だった。


「死ぬ……死にたくねえ! 死にたくねえ!」


 己を鼓舞するように吠え、夕はありったけの力を両足に込め、少しでも速度を上げようとする。


 近づいてくる異形の巨体に、決して捕らわれないように。


 情けない。心の声が、自分自身をせせら笑う。


 いつもはやり場のない怒りを焚きつける独白に、今は構っている暇がない。


 月も星もない、暗幕を張ったような夜空が、必死の夕を見下ろしていた。


―――――――――――――――


「ぶぎゃあッ!」


 醜い悲鳴を上げて、初老の男が尻餅を突いた。


 手で抑えた鼻からは、ドクドクと血が溢れ出している。


 恐怖に呼吸を荒らげ、無様に這いずり、逃れようとする男の背中を、夕は無慈悲に踏みつけた。


「おい、どこ行くんだよ。お前がどっか行っていいのは、俺に金を渡してからだ」


「そうだよジジイ! ほら、集金でーす!」


「支払いは一括でちゃんとしてくれないとな、みんな困っちゃうよなあ!」


「お前に貸した金と、利子と、麻薬代ヤクだいと、あと俺たちの小遣いな。五千兆円ぐらいあれば足りるぜ。良かったな!」


 夕とともに初老の男を取り囲む不良少年たちが、下卑た笑い声をユニゾンさせる。


 売約済みの看板が立てられた空地に、制服を着崩し、髪を染めたりピアスをつけたりした、見るからに荒っぽい男子生徒たちがたむろしている。


 少年たちに囲まれた初老の男は病的なまでに痩せていて、暴行の後が顔や服に見受けられる。既に散々殴られ、蹴られた後なのだ。


 しかし彼は夕たちを睨みつけ、どう見ても正気を保っているとは言い難い目つきで唾を飛ばす。


 言葉は、蛮勇やプライドのためではなく、薬物と狂信によるものだった。


「ハァ、ハァ……! や、やらんぞクソガキどもめが! おれの金はっ、おれっ、おれが救われるんだッ! 罰当たりが、おれの金はやらんぞ!」


「……チッ」


 夕は嫌悪に顔を歪めると、さらにまくし立てようとする男の顎を蹴り上げた。


 口から、血泡と折れた歯が飛んでいく。


 仰向けになった老人の体を、力任せに蹴っ飛ばして視界からどかす。


 もはや、見ていられなかった。


「ぐぇあっ!」


「お、こっち来た。ヘイ重蔵、パス!」


「おう。ラミー、ほれ!」


「こっち飛ばすんじゃねえよ! ジジィの麻薬ヤク入りクソ鼻血飛ぶだろうが、よッ!」


 夕にとっては嫌悪の対象でも、不良仲間にとっては、不満と薄汚れた暴力衝動を発散する玩具でしかない。


 不良少年たちは、初老の男の頭を、まるでサッカーボールのように蹴りまわす。


 首から下が頭部に引っ張られ、無様に踊るのを、夕は侮蔑の眼差しで見つめていた。


 “上司”から聞くところによればこの男、なんとかいう宗教カルトに嵌まって、家と会社の金を使い込み、ヤクザが経営する裏風俗に入り浸っていたのだとか。


 それらが発覚した後は当然、会社はクビ。家族にも逃げられたのだが、今度は闇金を渡り歩いて同じことを繰り返している。社会のクズを絵に描いたような男だった。


 夕は再度の舌打ちをかますと、口元を押さえてのたうち回る男へツカツカと歩み寄り、顔面に強烈なストンピングを叩き込む。


 二度、三度と踏みつけ、腹にも蹴りを入れてやる。その様を見て、不良少年たちはヘラヘラと軽薄に笑っていた。


「おーいヤトくん、あんまりやりすぎんなよー!」


「そーそ。別にこんなジジイ、死んだって構いやしねぇけどよ、今殺したら“上”に怒られるんじゃねえの?」


「フン」


 夕は鼻を鳴らすと、老人の僅かばかり残った白髪をつかんで引き上げた。


 老人はひぃひぃと息を荒げながらも、夕を睨みつけてくる。それが夕をさらに苛立たせた。


 ―――気に入らねえ。


 冷たく燃える怒りを宿しながら、低い声で脅しをかける。


「ハゲ、お前の金庫と口座の番号を吐け。その麻薬ヤクに浸かり切った頭で世迷い事が吐けるうちに。それとも天国に行く方法を教えてやろうか? 今すぐに! ああ!?」


「その必要はねぇよ」


 夕を含めた不良少年たちが振り返る。


 夕たちと同じ制服を着た、ひときわ大柄な少年が、黄色と黒の立ち入り禁止ロープをまたいでやってきていた。


 短く刈り込んだ縮れ毛を撫でつける彼こそ、夕たち不良グループのリーダー。


 夕は老人を空き缶か何かのように投げ捨てて、顔面を踏みしだいた。


「豪。金、見つかったのか」


「あったぜ。余所の闇金から借りたやつが、丸っとな」


「……こいつの預金は?」


 豪と呼ばれた大柄な少年は、乾いた笑みを浮かべて肩を竦めた。夕は麻薬中毒の老人に向き直る。


「金は?」


「お、お、お布施だ……おれが救われるための! ヤクザにやる金なんてねえ! お、お前らは地獄に、へ、へはははははははぶごぁッ!」


 男の嘲笑を鉄拳で遮り、そのまま砂利の上に叩き伏せる。それを合図と見た不良少年たちが、寄ってたかって老人を蹴りつけ始めた。


 まるでひとつの落ち葉に集るミミズの群れを見ているようで、気分が悪い。あの程度で活き活きと暮らせる不良仲間の、なんと幸せなことか。


 暗い眼差しを俯けて隠しながら、夕は豪に問いかける。


「どーすんだよ、金。ありませんでした、なんて言える相手じゃないだろ」


「一応、上には全部伝えたし、お許しももらってるぜ。麻薬ヤクに宗教に金使いこんじまってんじゃ、お手上げだ。あの歳じゃ、健康でも臓器モツは売れねえだろうし……家族からでも巻き上げるんじゃねーの?」


「家族……」


「あんなでも結婚した女がいるんだぜ、笑えるよな。それにひとり娘もいるらしいぜ」


 夕は複雑な表情で歯噛みをした。


 いつもそうだ。誰かのツケは、違う誰かに降りかかって、そいつの人生を滅茶苦茶にする。


 そしてそのツケは、大概家族が支払う羽目になるのだ。例え本人が死んだ後でも、ずっと。


 初老の男の妻と娘は、虫の大群に放り込まれたキャベツのように、骨まで食い荒らされてしまうのだろう。あんなクズと所帯を持ったばっかりに。抵抗することも出来ないまま。


 やり場のない怒りを込めて、足元の小石を蹴っ飛ばす。その肩を、豪の分厚い手が叩いた。


「カッカすんじゃねえよ、相棒。あのアホジジイには、それらしい死に方ってモンがある」


「どうせ山に埋めるんだろうが」


「まあな。で、その埋める役だが……上はお前に任せたいらしい」


「あ?」


 片眉を吊り上げ、夕は不良グループのリーダーを見上げた。


 フットボーラーと見紛う巨体の少年は、不敵に微笑む。


 表層には羨望が、裏側には嘲笑があった。


 今すぐ殴って目玉を叩き潰したい衝動に駆られる。だが、夕は喧嘩で豪には勝てない。


「試験なんだってよ。お前、随分目をかけられてるみてェじゃねえか。あんなゴミを始末するだけでいいんだから、楽なもんだろ?」


「お前が行けばいいだろ、リーダー。上の連中は、俺よりお前の方を気に入ってる」


「そう言うな、相棒。お前は俺よりも長く働いてるだろ。その働きぶりは、組長まで伝わってるぜ。よく働くし、目端も利くし、肝も据わってるってな。俺だって、お前の紹介で小遣い稼ぎさせてもらってるんだしよ、キャリアじゃ敵わねえって」


 ふざけろ。内心で、そう吐き捨てた。


 全部嘘、わかりやすい皮肉に過ぎない。裏で“上司”たちが、自分をどう呼んでいるかは知っている。


 夕のささくれ立った心の表層をすり抜けて、煮えたぎる火口のような心を泡立たせる。


 クソ食らえだ。感情のままに叫んで、豪を殴りつけてやりたかった。自分を右腕としながら、内心では小馬鹿にし、踏み台としか思っていないこの男を、叩き伏せてやりたい。


 しかし、夕は俯き、唇を噛んで、怒りが噴き出さないようにするほかなかった。腕っぷしでは敵わない。今年の春から夏にかけて、嫌と言うほど身に染みている。


 他の不良は殴り倒せても、豪にだけは歯が立たないのだ。


 豪は黙り込んだ夕の肩を、大きく硬い手の平で叩く。


 酷い痒みが、制服の下の肌で暴れまわった。


「じゃ、俺は行くぜ。売っぱらえそうなモンをかき集めたり、他の闇金から金借りてねえか調べろって言われててよ。催促状しか見つからいと思うけどな」


 豪は鯨のような、わざとらしい溜め息を吐くと、男を蹴り続ける不良たちに向かって叫んだ。


「おォい、殺すんじゃあねえぞ! そいつは山ン中に埋めるって上からお達しがあンだ、ここで殺したらお前らが埋まる羽目になんだからな!」


「いっ!?」


 夢中になって男を蹴り続けていたグループたちがギクッと震え、慌てて足を止める。


 死んでないか、まだ生きてる、死ぬまで死ぬな、などと声を掛け合う奴らを見て、夕は眼差しを昏くした。


 豪はそんな夕の背中をバシバシと叩く。


「そろそろお迎えが来るからよ、行って来いって。俺らが今こうしていられんのも、お前が“上”と窓口やってくれてるからだしよ。俺より期待されてんじゃねえの?」


「ふざけろ……」


「マジの話さ。近いうちに、お前にリーダーの座を譲らなくちゃいけなくなるかもしれないな。鳴り物入りでヤクザ入り出来るかもしれないぜ?」


「それ、他の奴らの前では言うなよ。お前の方が……人望はあつい」


「ハッハッハ、そうかもな! お前の無敗伝説を止めたのは、俺だからな!」


 豪は大口を開けて笑い、元来た道を戻り始めた。


 いちいち芝居がかった発言に、拳が疼く。豪は、自分を打ち倒し、不良仲間ともども従わせている現状を、自分に誇っているのだ。


 今すぐ殴り倒して、豪が泣いて謝ってくるほどボコボコに出来たら、どれほど良かっただろう? そんな力は無い。それがたまらなく悔しい。


 豪はのうのうと、恐れるものなど何もないかのように歩いている。行先は十中八九、あの初老の男の家だろう。他の手下たちは、今も作業を続けているに違いない。


 金目のものを集めて、売り渡して、後は家族を探って、何が何でも金を得る。“上”が儲かれば儲かるだけ、豪たちにもマージンが入ってくる。仕事は認められ、夕は少し寿命が伸びる。玉無し野郎と嗤われ、使い走りとしてこき使われるだけの人生が。


「上の人らによろしく言っといてくれ。頑張って来いよ、兄弟。お前ならやれる」


 そう言い残して、豪は去って行った。


 小さく毒づいたところで、届きやしない。


 仮に、豪を殴り倒して何になる? 豪をどうこうしたところで、それ以上の者には勝てない。


 姿を消した豪と入れ替わりに、スモークガラスを嵌めたバンが空地の傍に走り込んでくる。出てくるのは三人の大人―――それも、明らかに堅気ではない者たち。


 厳めしい顔で近寄ってくる連中こそ、夕の生殺与奪を握っている。あの初老の男と、ツケの支払いに付き合わされるであろう、あの初老の男の家族と同じように。


 夕はやってきた奴らに頭を下げた。


「……お疲れ様です、阿黒さん」


「おう」


 空地に入ってきた者のうち、黒いジャケットの下に赤いシャツを着た男が、足を止めた。


 若いが、血の霧を纏っているかのような、不気味な威厳がある。この男こそ、夕の“上司”だった。


 夕の後ろでは、軍隊のように整列した不良少年たちが、息の合わない“お疲れ様です”コールをしている。阿黒は彼らとボコボコにいたぶられた初老の男を見ると、顎を振った。


「何してる、ガキ共。さらえ」


 威圧的な指示は、不良少年たちを即座に動かす。


 虫の息で藻掻き、叫びながらバンに運ばれていく初老の男を見送りながら、夕は腹の奥底で煮え立つ怒りと悔しさをこらえきれずにいた。


 だが、噴きこぼれそうなほどに煮え立つ感情は、上から圧し掛かる恐怖を跳ねのけることができない。恐怖の上に、無力感と空虚が募る。


 阿黒が夕の肩を叩いた。


「ふん、あんなジジイひとりに、金庫の在り処も吐かせられねえのかよ、玉無し野郎」


「…………すいません」


「ケッ。まあいい、お前も早く乗れ。ウチで働いて長いだろ、そろそろもうちょい使い物になるかどうか、テストしてやる」


「…………はい」


 俯き気味にくぐもった声で応えると、夕は重い足取りでバンに向かう。


 背中越しに、阿黒の鼻で笑う声が聞こえてきた。


 彼は煙草をひと吸いして捨て、踏みにじって火を消す。


 バンまでの道が、やけに遠い。日差しが熱くて、炎の道を進んでいるかのようだ。


「クッソ……クソが……!」


 じりじりと焼き付くような、橙色の陽の熱を感じながら、夕は拳を震わせた。


 この拳を、奴らに向かって振るえたら。そのまま誰も彼も殴り飛ばして、この人生から飛び出すことが出来たら、どれほど良いだろう。


 阿黒はポケットに両手を突っ込むと、思い出したように呼び掛けてくる。


「おう、待て、玉無し野郎。今夜、“墓山はかやま”でやるテストには、雑飼さいがの叔父貴が立ち会うってよ」


 夕は足を止めて、振り返る。


 いつの間にか、阿黒に追いつかれていた。


「雑飼って、本部長の?」


「おう。喜べよ、お前みたいな玉無し野郎が、ウチでこれからも使えるかどうか、直々に確かめてくれるそうだ」


 阿黒は赤いシャツの胸ポケットから、新しいタバコを取り出して口に咥える。夕は持っていたライターで、その先端に火をつけた。


 適当に一服のあと、タバコは指で弾いて捨てられる。今度は火が消されることもない。


「お前みたいな反逆者予備軍が、ウチに入れるかどうかの瀬戸際だ。せいぜい、雑飼の叔父貴に失礼無いようにしろ。もし、ヘマでもしたら……わかってるな?」


「……はい」


「ならいい。極道に負け犬は必要ねえからな。去勢された負け犬なら、なお要らねえ」


 阿黒は鼻で笑い、肘で夕の背中を小突いた。


 夕はよろめくようにして、黒塗りのバンへと踏み出していく。死ぬのはあの初老の男のはずなのに、自分が絞首台へ向かって歩いているような気がした。


 くすぶる。発露させられない怒りが、無力の煙に巻かれて、火の粉を立てる。


 燃料を絶えずくべられながら、燃え上がることはできないままに、不完全燃焼のおりが積み上がっていく。


 それでも夕は、黒塗りのバンに乗り込み、背中を丸めて揺られるしかない。


 そうする以外に道はなく、そうでもせねば、すぐにでも死ぬ。


 打開することも出来ず、未来もなく、抑えきれない不満を全て吐き出すこともままならない。いっそ挑んで死んでやろう、なんていう度胸もない。


 夕は、悲しいほどに無力だった。

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