快刀乱麻

 白く伸びる白刃が、大きくしなりながら阿黒に襲い掛かった。


「ふんッ!」


 阿黒は素早く屈んで横薙ぎの刃をかわし、剣の突き上げで刃節を打った。


 跳ね上がる白皎裂薙はっこうれっかを潜り、夕に突進。


 夕は慌てるでもなく、蛇腹剣を斜めに振り上げ、振り下ろす。背骨のようなもので繋がれた刃の節が、阿黒の面前に割り込んできて、顔を袈裟切りにしようと迫ってきた。


「チィッ!」


 阿黒は鎧を纏った腕で刃を防御する。突進が中断させられ、刃と鎧が激しく擦れあって白い火花と赤錆を散らした。


 二秒の拮抗。阿黒は刃を振り払った。


「オラァッ!」


 ギャリィン、と音を立てて蛇腹剣が弾かれる。


 しかし、勝ち誇る暇などない。彼は左の腎臓あたりを冷気が突き抜けたように感じた。


 ハッとして振り向くと、蛇腹剣の先端が、生き物のように阿黒の背中めがけて飛び来る。それを剣で弾くと、本能に従って横っ飛びした。


 転がる彼の耳が、アスファルトを叩く衝撃音を聞き届ける。


 立ち上がって視界端で確認すれば、地面に裂け目が生まれていた。


 蛇腹剣がシュルシュルと持ち主の元へ戻り、一本の刃となる。


 すっかり酔いの醒めた阿黒は、顎を伝う汗をぬぐった。


 夕は切っ先で足元を指すように剣を構えながら佇む。無駄な力みの消えた、緩やかな立ち姿。左腕に巻きついた白夜が、緊張したように蛇腹剣を見つめている。


 阿黒はスーツをはたきながら、苦々しく呟く。


「剣か。蛇はどこ行った?」


「こいつがそうだよ」


 夕が冷たく言い捨てると、蛇腹剣の刃が伸びた。


 すわ、攻撃かと身構える阿黒の前で、刃は華奢な少女の周囲で緩くとぐろを巻く。まるで、少女を守るかのように。


 一方で、切っ先は、鎌首をもたげた蛇のように、阿黒を真っ直ぐに狙っていた。


 阿黒は喉を鳴らして笑う。


「俺が蛙で、お前が蛇で、お互いにながものか。皮肉にしちゃあ出来過ぎだな」


「じゃあ、死ぬのはあんたってことだよな。犬も食わねえ死肉漁りのゴミ野郎」


「皮肉だって言っただろ。蛇が蛙に食われて死ぬ、そういうのも乙なもんだ」


 軽口を叩きながら、阿黒はジリジリと距離を詰めようとする。


 ついさっきまで、白髪の少女の攻め手は蛇による噛みつきと尻尾攻撃のみだった。


 それが今はどうだ。自由自在に伸び縮みし、物理法則を無視して縦横無尽に動く剣。頭にだけ気をつければ良かった大蛇と違い、ただ伸びるだけではなく、しなり、波打って攻撃範囲を広げてくる。


 左腕には、尾を突き出してくる蛇も、変わらずいる。剣術家ではない阿黒が、剣一本で相手するには、荷が重い相手へと変貌したのだ。


 加えて、少女のあの表情だ。


 冷たく冴え冴えと輝く瞳の奥には、未だ怒りが煮えたぎっているのがわかる。


 その怒りに衝き動かされ、単調な攻撃を繰り返していたさっきとは、まるで別人の面構え。


 阿黒は頬の雫を拭った。


 いつぞや酒の席にて組長が語った、極道ヤクザかお。惰性で殺し慣れたわけでもなく、殺戮に酔うでもなく、己の使命を自覚した上での殺しをする者の貌。


 目の前の少女の表情が、直感的にそれだと悟った。


 ―――冗談じゃねえ!


 阿黒は視線を鋭く研いで、夕に斬りかかった。


 夕は体操選手がリボンを振るように、白皎裂薙はっこうれっかを解き放つ。


 胴を分断しようと迫る一撃を、阿黒はジャンプからの飛び込み前転で越えた。


 地面を転がって立ち上がり、頭上から襲い来る斬撃を刀身で凌いで斜めに弾く。


 大きく一歩、跳ぶように踏み込めば、射程範囲だ。


「ゥるァッ!」


 湾曲した刃が、夕の首を刎ねようとする。


 だがその攻撃の途中で、刀身に蛇腹剣が巻きつき、止める。


 空中で不自然なカーブを描いた蛇腹剣の先端が、阿黒の脇腹に突き刺さった。


 やや反応の遅れた白夜が、呻く阿黒の眉間に鋭い尻尾を突き刺そうとする。


 阿黒は大きく仰け反って白夜の尾を回避した。


 手が傷つくのも構わず、突き刺さった切っ先を引き抜こうとするが、より深く、執念深く食い込んでくる。


 このままでは、刃が内臓に達する。かと言って、退いたところで抜けるわけもない。伸縮自在の剣なのだ。


 ならば。阿黒は蛇腹剣の切っ先をつかみ、出来るだけ体内侵入を遅らせながら、刀身を一旦消滅させた。


「おおおおおおおッ!」


 獲物を失った蛇腹剣が、ぐしゃりと空気を握りつぶす。すぐに刀身を再生した阿黒は、剣を夕に叩きつけた。


 一撃、二撃。夕は冷静に柄を振って伸びた刃を操り、阿黒の斬撃を防いだ。


 阿黒は諦めずに三撃目を繰り出すが、これも弾かれる。


 ―――不味い。


 阿黒の心に焦りが生じる。


 理由は、食い込み続ける剣だけではない。両腕や肩、腰に重い荷物をぶら下げたような疲労のせいもある。


 ―――鎧蛙阿修羅ガイアスラを呼ぶには、相応に体力が要る。


 ―――だが知らなかったぜ。呼ぶだけならまだしも、遠くで戦わせると恐ろしく疲れるなんてな!


 息が上がる。足が震える。


 遠く離れたところで、鎧蛙阿修羅ガイアスラが荒れ狂っているのが、山彦を聞くように感じ取ることが出来た。


 こうして阿黒の下に剣と手甲を具現化したせいか、苦戦しているようだ。


 ―――せめて、鷹巣の兄貴か兄弟に連絡さえ入れられれば。


 ―――時間はどれくらい経った? そろそろ俺と連絡が取れないことに気が付いたはず。


 ―――GPSは点けてある。もしこっちの異常に気づいているなら、あとは時間を稼げば救援が来る。


 ―――そうなれば勝ちだ。死ぬ気で耐えて、こいつを捕らえ、拷問して本拠地を聞き出す!


 ガキィン、と五度目の剣戟が交わる。


 拮抗するが、蛇腹剣は巻きついてこない。先ほど刀身を消して逃れたことを警戒しているのだろうか。


 隙あらば心臓を狙って突き出される鋭い尾を半身になってかわし、阿黒は言った。


「ああクソ、なんだテメェは! いい加減死にやがれ!」


「お前がな……!」


 夕は突然、肩から阿黒にぶつかった。


 普段ならば、大して通用しない程度の威力。だが、長時間戦い、強力な式神を維持し続け、脇腹を刃で穿ほじくり回されている現状では、踏ん張ることも難しい。


 白夜に向かって、夕が呟く。


「刺せ」


「命令すんなよ!」


 尖った尾が阿黒のあばらに突き立てられる。


 肋骨をすり抜け、肺に直接穴を空ける霊体の一撃。急に息苦しくなり、喘鳴を放つ阿黒はたたらを踏んだ。


 夕は阿黒から体をもぎ離して、大きく円を描くように柄を頭上で回す。伸びた蛇腹剣が白い刃の螺旋を作った。


 巻き込まれたら体を引き裂かれる。そう直感した阿黒は口の中に逆流してきた血を夕の顔面に吹きかけた。


 意識外からの反撃が、夕の視界を黒く塗りつぶした。


「っ!?」


「ふんッ!」


 阿黒は剣の柄尻で夕の右肩を強打した。


 白皎裂薙はっこうれっかを握る手が緩み、蛇腹剣の侵攻が止まる。


 阿黒は頬を吊り上げ、夕の腹に爪先を叩き込んだ。胸倉をつかみ、目をつぶったままの顔面に額を打ち付け、さらにもう一撃頭突きをかます。


 尾を肺の奥深くまで押し込んでいた白夜は舌打ちして、阿黒から尾を引き抜いた。狙いは眼球。しかしカーブした尾の先端は、阿黒の眉の上を傷つけた。


「離れろ、蛙野郎!」


「やかましいぞ、蛇風情が!」


 白夜に怒鳴り返した阿黒は、夕の右鎖骨と薄い胸を切り裂き、素手で腹を殴りつける。


「ぐぁ……!」


 お辞儀をするように夕の頭が下がる。対格差ゆえに、阿黒から見れば夕の延髄は無防備。


 振り下ろされた肘が直撃し、夕を冷たいアスファルトに叩き伏せた。


「がふっ!」


「夕!」


 白夜は尻尾を振り回して、阿黒を退けようとする。


 悪あがきじみた反撃は手甲で防がれ、なんとか両手を突いて起き上がろうとする夕の体は重たい蹴りに吹き飛ばされた。


 目つぶしによる暗闇と、苦痛、疲労が夕の意識を闇へと引き込む。夕は奥歯が割れそうなほどに食いしばって甘美な失神に抗った。その右手は変わらず白皎裂薙はっこうれっかを握り締める。蛇腹剣の切っ先は主の闘争心のままに、阿黒のはらわたを食い破った。


「うぐうううおおおおおおッ!?」


「死……ね!」


 白夜が尻尾を地面に突き刺し、夕を支えた。


 目元を乱暴に拭って瞼をこじ開けた夕は、力を振り絞って蛇腹剣を打ち振る。


 腹に刺さった切っ先の、刃の節と節を繋ぐ背骨のようなものに剣を叩きつけていた阿黒は貌を上げた。


 視界を埋め尽くす白。仰向けに倒れることを避けた夕は両足を踏みしめ、息を切らしながらもこちらを睨む。


 阿黒は内臓をやられた痛みと息苦しさ、肺から聞こえる異質な音に耐えながら、蛇腹剣の刃をガードした。


 ―――ごのガキ、この剣! なんて面倒臭え!


 ―――かくなる上は……。


「畜生が! 鎧蛙阿修羅ガイアスラ、来い! いつまで遊んでやがるんだ、戻ってきやがれぇぇぇぇぇッ!」


 決死の呼び声は、確かに式神へと届いた。


 夜葬旭は葬者の魂が形を成したもの。無条件の遠隔操作など、そもそもそう簡単に出来ることではないが―――どれだけ離れていても式神は葬者の魂の叫びを聞き届ける。


 だが、夜葬旭に限らず、願うことと、それが叶うかどうかは、また別の問題なのだ。


 跳躍しようと体を伏せる鎧蛙阿修羅ガイアスラ


 その様子を見た境兵は、考えるよりも先に跳ぶ。逃走の意思と、逃走を許した後の危険性。本能的に察したそれが、体を突き動かした。


 両手持ちで背を反らし、掲げた鉄槌は鎧蛙阿修羅ガイアスラの全身をすっぽりと覆うことが出来る大きさ。大蝦蟇は残された二本の腕のうち、右手で持っていた剣を投げつける。


 回転しながら飛翔した剣は、境兵の迎撃を待たず、彼の胴体を寸断するはずだった。


 大剣が、空中で撃ち落される。


 明日香が射かけた炎の槍だ。明日香は掴んでいた弓を消し、燃える両手を地面に叩きつけた。


「大人しくしてなさい!」


 地面から突き上げた複数の炎の棘が、鎧蛙阿修羅ガイアスラの体に食い込んだ。


 消滅には至らずとも、手足や腹を貫かれ、その場に釘付けとなった鎧蛙阿修羅ガイアスラは背中の腕を振り回してもがく。


 残った剣で明日香と境兵のどちらを攻撃するべきか。判断の遅れは、致命的な隙を生む。


「ぶっ……潰れろぉぉぉぉぉッ!」


 全身のバネを駆使して打ち下ろされたハンマーが、炎の剣山ごと鎧蛙阿修羅ガイアスラを叩き潰した。


 精彩を欠いた鎧蛙阿修羅ガイアスラは、腕での防御すら間に合わず、地面と鉄槌の間で苦しげな呻き声を上げる。


「グェ……ッ!」


「オラアアアアアッ!」


 境兵が両腕に渾身の力を込めて叫んだ。


 明日香も最後の力を両手に込めて、ありったけの炎を鎧蛙阿修羅ガイアスラへと注ぎ込む。


 やがて、鎧蛙阿修羅ガイアスラの目玉を、眼窩から吹き出した炎が焼いて消しとばした。


 ハンマーに潰された鎧蛙阿修羅ガイアスラの体は同心円状に膨らみ、衝撃と共に炎をまき散らして爆散する。


 会心の笑みを浮かべる境兵とは対照的に、阿黒はゾッと背筋の凍る想いを味わった。


 心臓を引っこ抜かれ、代わりに鉄球を閉じ込めた氷を胸に突っ込まれたかのようだった。


 遠くにあった鎧蛙阿修羅ガイアスラの気配が爆ぜる。撃破されたのだと気づくのに要した時間は、一秒に満たない。彼は怖気を振り払い、剣を振るって蛇腹剣を弾き飛ばした。


 強烈な危機感が、阿黒の全身を内側から無数のトゲのように貫いた。彼は蛇腹剣の切っ先をつかみ、己の肉ごと抉り取るようにして引き剥がす。


「ぐうっ、があああああ!」


 ぶちっ、ぶしっ、と音を立てて、無数の肉片と大量の血がまき散らされる。


 空中を泳いだ刃の節は、すぐに結合して一本の長剣の形へ。夕は両手で柄を握り、阿黒へと突進した。


「死、ねええええええええッ!」


「ぐっ、この……死にやがれええええええええッ!」


 阿黒は歯を食いしばり、決死の覚悟を決めて、夕の頭を叩き割りにかかった。


 時間が急に、ゆっくりになる。


 風の流れ、空気の揺らぎさえ目視できそうな程に研ぎ澄まされた世界。その中で、阿黒は全てを悟る。突きは阿黒の胸を貫くだろうが、構わない。相打ちでもなんでも、とにかく殺す。


 この少女の死体さえ残れば、例え自身が死んでも、兄貴分がなんとかしてくれる。他の楯突く者たちを暴き出し、必ずや始末する。後顧の憂いは、無い。


 ―――気がかりは……組長オヤジ、鷹巣の兄貴。


 ―――仕事をしくじった挙句、こんなガキに殺されちまうことだ。組に楯突く奴らを野放しにしちまうことだ。


 ―――すまねえ。だが、必ず殺る!


 心臓の脈打つ音が、ひどくゆっくり聞こえた。


 時間が長く長く引き延ばされて、遅くなってゆく。


 緩慢に振り下ろされる曲刀が、あと数センチほどで夕の頭蓋を割り砕くところで、夕の顔が突然の苦痛に歪んだ。


 腹に、太い杭を打ち込まれたような痛みが走った。


 葬者の体は、一般人のそれと比べて頑丈で、死にづらく、回復も早い。全力で戦っている間は、なおさら。でなければ、幼くか弱い少女の肢体はとっくに打ちのめされて、阿黒に捕らわれていたことだろう。


 だが、葬者もまた、所詮は人間。


 ゲームのように、ダメージを無かったことにすることなど、不可能である。


「づ……っ!」


 夕は顔をしかめ、片膝を崩す。


 刺突の軌道がずれ、阿黒の体側を掠めて虚空を引っかいた。


 他方、阿黒の剣は夕の頭を捉えている。


 阿黒はほくそ笑んだ。


「無理して暴れてんじゃあねえよ、弱っちょろいガキがぁッ!」


 生け捕りのことなど、もはや脳から吹き飛んでいた。戦いの高揚が、死を前に絞り出された魂が、鎧蛙阿修羅ガイアスラ撃破による衝撃が、目の前の子供を殺せと駆り立ててくる。


 夕は、なんとか顔を上げ、刃を見上げた。


 頭の中が真っ白で、何も考えられない。くそったれな人生の光景が、脳裏を目まぐるしく駆け巡る。


 白刃の煌めきの中、頭を撫でながら笑顔で諭す兄の顔が見えた。


 ―――兄貴。死ぬのか、俺?


 それだけ思うのが精一杯だった。兄は変わらず微笑みかけてくる。


 記憶の中の兄が、夕の名を呼んだ。


 夕は兄の名を呼び返そうとする。


 声が出ない。


 掠れた吐息が、硬い金属音に取って代わった。


 両目を見開く。


 白夜が首を伸ばして、文字通り刃を食い止めていた。


 口の端から胴体を引き裂かれそうになりながら。


あひあえへんら……えええええええええっ!」


 夕はハッとして、限界を超えた速さで両腕を折り曲げた。


 右手を握り、蛇腹剣を再度呼び出す。不格好に体をひねって解き放ち、阿黒の腹を突き穿つ。


 刃はそのまま勢いよく伸び、阿黒を強制的に後退させた。


 またしてもトドメを刺し損ねた阿黒は、忌々しそうに顔を歪めて、血反吐を吐いた怒鳴り散らす。


「しつけぇんだよ、蛇ガキがぁぁぁッ! いつまでも未練がましくこの世にしがみついてんじゃあねえッ!」


「はあ、はあ、う……っ」


 夕はなんとか立ち上がった。


 思考が上手くまとまらず、体中の感覚が無い。ただ、地面と短く太い鎖で繋がれたような、気怠い重さがあった。


 だが、まだ動ける。阿黒を殺す。仇を討つ。


 夕は息を吸って、右腕を思い切り引いた。


 蛇腹剣の伸長が止まり、阿黒が勢いよく引き戻される。


 切っ先はいち早く抜けた。刃の節が根元部分から結合していき、一本の刃へ。継ぎ目は炎に巻かれて消えた。


 阿黒は見えない糸に引っ張られるようにして、夕の下へ真っ直ぐ飛んできている。息を吐くと、心がフラットになった。


 両手で剣を握って振りかぶる。


 ふと、兄の声が聞こえた。暴力を窘めてくれる声が。


 ―――ごめん、兄貴。こいつの言う通りだ。


 ―――俺は……クズだよ。親父以下の。


 ザンッ。荒っぽく引き裂く音が兄の声をかき消した。


 二人の体が交錯し、後方に吹き飛んでいった阿黒の体が回転する。


 裂けた胸から吹き出す鮮血が踊る。


 彼は地面を少し転がって、仰向けで停止した。


 白皎裂薙はっこうれっかを振り切った姿勢で、彫像のように動けずにいる夕の耳には、キーンと甲高い音に混じって弱々しい息遣いが聞こえてくる。


 寸前で防御が間に合ったのだろう。夕と阿黒の間には、切り落とされた腕が転がる。


 出血多量。阿黒は数分もしないうちに死ぬ。


 疲れ切った夕の感情が、その事実に揺れることはなかった。


 茫洋とした虚しさが胸を満たす。掌から白い剣が落ちて消え、同様に阿黒の右腕を覆う鎧も蒸発するように散った。


 ひゅうひゅうと掠れた息を吐きながら、阿黒が呻く。


「……殺せ……」


 介錯の懇願ではない。


 それは、彼なりの賞賛だった。


 諦めながらも満足そうな表情で目を閉じた極道者は、戦いの熱も生還の狂悦も嘘のよう。


 思い残すことなどないと言わんばかりだ。


「俺の首を……落とすとか言ってたな……? 今のうちに落とさねえと……死体の首を落とすことになるぜ……。いいのかよ、生きてるうちに、やらなくて……」


 夕は背筋を伸ばそうとしたが、できなかった。


 何度も殴られ、蹴られた腹から咳がこみ上げる。


 開いた口から飛んだ唾液が糸を伸ばす。血みどろの袖で口元を拭いながら、夕は言った。


「なら、大人しく死んどけよ」


「そう言ってくれるな。そういうのはこう、本能って奴でよ……。もう生きちゃいられねえのになあ。何やってんだかなあ……」


「他人事みてえに……ごほっ、ごほっ!」


 憎まれ口を叩く夕を、全身の苦痛と凄まじい疲労が、全身を地べたに引きずり倒そうとしてくる。


 夕は猫背になり、荒い息を吐きながら、足を引きずって阿黒へ近寄る。


 濡れぼそった頭を踏みつける。


 目の前で兄を解体した男にそうしても、なんの感慨も湧いてこなかった。


「なんで、あんなことした?」


「あんなこと……あの箱か。俺も詳しくは知らねえ。あれがそういうもんだって教えられたのは、つい最近だからな。冥途の土産……いや、逝くのは俺だし、置き土産か」


 阿黒は薄く目を開いて、夕を見上げた。


 月のない真黒の空に、翳る白髪。血や腫れ痕のついた白い顔。


 死に際に、美しい満月を見た。


「あの箱は、“餌妖給棺じようきゅうかん”って名前らしい。バケモンに給餌きゅうじするためのひつぎって話でな。どんな奴が葬者として目覚め、あるいは妖魔になるか……お前、知ってるか?」


「死にたくない奴だろ」


「ああ……死を恐れ、死を拒絶し、何が何でも生きようとする。そういう気概で生き残った奴が葬者に、死んだ奴が妖魔になるそうだ。そんな奴は、俺たち極道の世界にだって中々いねえが、餌妖給棺じようきゅうかんは、拷問と、脳みそがどうだかいう機械を使って、どんな奴にもその資格を与えられるんだとさ」


「…………!」


 夕のはらわたが、嫌悪感に身をよじる。


 殴られた時とは別種の苦痛に襲われ、吐き気がした。


 右肩から拳にかけて、いくつもの白い炎の筋が走る。ぶり返してきた怒りは、衝動となるには力不足だ。


「……それで?」


「そいつの首を落として、鮮度を保ちながら機械に繋ぐ。すると、材料になった人間は、妖魔にも葬者にもならず、魂で生きながら死ぬ。すると海に魚のをバラまくみてえにな……。妖魔どもにとっては上質のえさだ。寄ってきた妖魔どもは共食いし、肥え太り、最後には箱を独占する」


「そんなことして……! 一体、何になるってんだ!」


「さあな、そこまでは……」


 燻る怒りが火花を散らし、弾けて一瞬疲労を飛ばした。夕は阿黒にのしかかって胸倉をつかむ。


「そんなもんに兄貴を入れたのか!? あんなバケモンを育てるために! ざっけんな、ざっけんなよ! なんのためにそんなことしたんだ!? なんで兄貴を……バケモンの餌に! 答えろ!」


「ぐ……っ! 知らねえよ、だが答えられる奴なら知ってる」


「誰だ! 組長か、それとも若頭の鷹巣か!? もうひとりの若頭補佐か!?」


「いや、その三人よりも詳しい奴が……おち、みず……」


「ああ!? 聞こえねえよ!」


 阿黒の瞳が輝きを失いかける。


 水槽の中から響く音を聞くように、少女の声がくぐもっていた。


 限界だった。少なくとも、彼の意識は。


 ―――すまねえ、組長オヤジ。すまねえ、鷹巣の兄貴。


 ―――後は任せるぜ、兄弟……。


 無念だ。後悔もある。それでも阿黒は満足していたし、安堵もしていた。


 組長の失望する顔を見なくて済むからか、情けなく詫びなくて済むからか。


 否、ただ極道として生き、死んだことが彼を満たしていた。苦労もあったが、良い人生だった。心からそう思える。


 阿黒は目を凝らし、何事か喚く夕に焦点を合わせる。


 死は幼く、傷だらけで、それでも美しかった。


 それが突然、目の前から消えた。


「がっ!?」


 気づいた時には、夕はどこかのビルに叩き込まれていた。


 ガラスの扉を突き破ったのだと理解することもままならない。


 阿黒はいない。仰向けに倒されている。息が上手く出来ず、体を全く動かせない。


 ―――なんだ、何が起こった?


 ―――蹴られ……たのか? 誰に?


 背中と床の間で擦れるガラスの破片の感触以外、何も感じない。


 思考が真っ白になる。緊張の糸がぷっつりと切れてしまっていた。


 そんな夕の様子を、反対車線の車道で一瞥した男は、倒れたままの阿黒を見下ろした。


「ったく、急いで駆けつけてみたら、なんだこのザマは? なあ、阿黒!」


 阿黒は驚いて、僅かに首を持ち上げる。


 猛禽のように鋭い眼差しをした男が、目の前に立っていた。


 鳶色とびいろの髪のせいで随分と印象が違う。しかしその目、その声は、溶けだしかけた阿黒の意識を引っ張り戻すに足るものだ。


 掠れた声で、彼は目の前に立つ男を呼んだ。


「兄貴……? 鷹巣の兄貴ですか?」


「他に誰がいる。チッ、あんなガキひとりにしてやられたってのか。情けねえ、それでも極道か? 鎧蛙阿修羅ガイアスラはどうした!」


「すみません。鎧蛙阿修羅ガイアスラは、別のところで、違うガキどもの相手を……。全員、俺たちと同じ葬者でした」


「あの髪色、ただの白髪じゃねえってか」


 隈取組若頭・鷹巣は、咥えていたタバコを口から離して、紫煙を吹かした。


 阿黒と彼が連れていった若衆からの連絡が途絶え、GPSを辿って来てみれば、この有様だ。


 阿黒は両腕を失って死に体。回収するべきブツもない。誰がどう見ても、しくじったのだ。


 憮然とした眼差しが阿黒を睨む。もはや緊張する気力も失われたか、阿黒は頭も起こせずに倒れていた。


「阿黒よお……。まあ、いい」


 嘆息しつつ、阿黒の胸倉をつかんで担ぎ上げる。


 両腕は持っていくことは出来ない。知覚に来ていた誰かに連絡を入れ、白髪の子供の方を振り返った。


 だが、やや離れた場所で、ビルの硝子戸を突き破った白髪の子供が、どこにもいない。ガードレールをまたいで向かうと、中には、硝子の破片しか残っていなかった。


 鷹巣は忌々しく舌打ちをする。肩に伝わる鼓動も呼吸もかなり薄くなって、数秒後には消えていそうだ。


 しばらく次の行動を迷った後、踵を返す。


 持っていけない阿黒の腕を路地裏に蹴り込み、彼は車を待つことにした。

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