エピローグ 既知

“喧嘩するなって、いつも言ってるだろ”


 喧嘩して、泥だらけの傷だらけになった夕を背負って、兄は呆れた顔で溜息を吐く。


 恥ずかしいと抵抗も虚しくおんぶされた夕は、むすっとした顔のまま問いかけた。


 ―――兄ちゃんは、なんで怒らないんだよ。


“あいつらに怒ったって、借金が返せるわけでもないし”


 ―――あいつらを殴って、小遣い巻き上げてやりゃあいいだろ。


 憮然としてそういうと、兄は立ち止まった。


 夕が不思議に思って呼びかけるも、返事はない。


 しばらくして、兄はひとつ、問いかけてきた。


“なあ、夕。親父はクズだって言ってたな。なんでだ?”


 その声に、思わず心臓が飛び跳ねた。


 煮えたぎるマグマを氷の蓋で塞ごうとしているかのような、怒りを押し殺した声だった。


 今、兄の目の前に立っていたら、どんな顔をしているのだろう。背負われていて良かったと、今初めて思った。


 夕は恐怖に震えながらも、つばを飲み込み、平静を装った。


 ―――飲んだくれて、酒買ってこいしか言わないし、母さんや兄ちゃんを殴るから。


“ああ、そうだ。じゃあ夕、俺を馬鹿にした奴を殴って金を巻き上げたら、どうなる?”


“お前は、あのダメ親父と同じ、クズに成り下がる”


“夕、お前は親父がクズだってちゃんとわかってて、クズである理由も言えるのに、なんでそのクズと同じになろうとするんだ?”


“クズってことは、見下げ果てたダメ人間ってことだ。なっちゃいけない人間ってことだ”


 諭しているうちに、兄の感情はクールダウンしていった。


 まるで、自分に言い聞かせているかのよう。それでも、夕は兄から目を離せなかった。兄の言葉を、無意識に聞き逃すまいとした。


“だから、他人を殴るのはやめろ。小遣いを巻き上げるなんて、もってのほかだ。いいな?”


 ―――……わかったよ。けど、あいつらが兄ちゃんのこと、馬鹿にするのは我慢出来ない。


 自慢の兄だった。


 父の暴力から家族を守り、母を支え、夕の父代わりになってくれた。


 いつも笑って、人当たりも良くて、大人たちに好かれた。


 父親と違い、誰の目から見ても立派な人だった。


 なのに、夕の同級生は、そうした人柄を無視して、名前だけをあげつらって侮辱した。


 夕は、そいつらをボコボコにした。椅子や机を振り回しまでした。


 そうして何人にも怪我をさせて、泣かせてやり、問題になった日の夕方のこと。


 兄は、夕に自分の名前の由来について教えてくれた。


“昔、母さんから聞いたんだけどさ。親父は俺の名前なんかどうでも良くって、いつも邪魔だって言ってたらしい”


“でも母さんは、俺が可愛かったらしくって。だから、意趣返しも兼ねて、いっそ名前に組み込んでやろうと思ったらしくてさ”


“それで色々調べて考えて、蛇にしたらしい”


“蛇は医学、不老不死、永遠の象徴。だから長く、優しく、図太く、朗らかに生きてほしいって意味でつけたって言ってた”


“だから、俺の名前は蛇太朗じゃたろうなんだとさ”


“今度言われたら、そう言ってやれ。お前らの頭じゃ理解できないぐらい、いい名前なんだって誇ってくれよ”


“そうすりゃ、俺も母さんも、胸張れるからさ”


 兄はそう言って、いつもの笑顔に戻った。


 あんな凄絶な死に顔とは似ても似つかない、夕焼けの逆光を貫くほどの眩しい笑みで。


 ―――兄ちゃん、ごめん。


 ―――俺、やっぱり、兄ちゃんを傷つけた奴を許せねえよ。


 ―――殺してやりたい。八つ裂きにして、同じ痛みを味わわせたい。


 ―――どうしたって我慢出来ないんだ。自分勝手なのは、わかってるけど……。


 ―――でも、どうしてだろうな。


 ―――どうしてやってやったのに、俺……。


 不意に夕の体が、浮かび上がった。


 驚いて手を伸ばすが、離れていく兄の体はまるで幻のように、夕の手をすり抜けてしまう。


 兄が離れていく。夕は空中で必死にもがいて兄を呼ぶが、彼は振り返らなかった。


 夕焼けのオレンジ色が、兄の体を覆い隠していく。


 やがて目も開けられないほどに光が強まって、ふっと暗闇に変わった。


 背中に柔らかな感触。夕は自分が眠っていたことに気が付いた。


「う、ん……?」


「おっと、起こしてしまったようだね?」


 無理やり瞼を開いた視界に、見慣れぬ顔が入り込んできた。


 艶のある黒い髪を短く整えた、忠誠的な顔。


 男でも女でも通じる面立ちに柔らかな笑みを浮かべている。


 見覚えは、あった。あったが……。


 夕はポカンと瞬きをし、やがて阿黒と戦っていたことを思い出して、勢いよく跳ね起きた。


「ここは―――……うっ、ぐ!?」


 全身が激しく痛み、夕は自分の肩を抱いて体を丸める。


 体中に、様々な種類の痛みが走って、動きを縛る。夕は体を震わせながら、なんとか顔を上げた。


 寝心地の良い柔らかなベッド。いつまでも撫でていたくなる手触りの毛布。シンプルにまとまった部屋には、観葉植物がいくつも置かれていて、レースのカーテンをそよ風が揺らしている。


 ベッドの傍に座っていた誰かは、小さく笑って肩をすくめる。


「安静にしていた方が良い。医者が言うには、命に別条はないし、後遺症もないだろうとのことだ。しっかり休んでいれば、ね」


「お前……どうして。ここはどこだ? 俺は……」


「ん?」


 問いかけると、黒髪の誰かは目を丸くした。


 すらりとした細身を、白いシャツとサスペンダーで吊ったスラックスで包んだ姿は、ますます性別の把握が難しい。


 だが、夕は知っている。“彼女”だ。それが、何故ここに。


 黒髪の少女は首を傾げ、空を覆う結界よりも黒い瞳で夕を見つめる。


 息の詰まりそうな沈黙の中、夕はごくりと息を呑んだ。

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White Night:All Out -白夜天荒- よるめく @Yorumeku

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