剣乱:強壮

 カーテンが開かれる。


 隙間から覗く外の風景が、暗い部屋で眠っていた少女の肌を照らし出した。


 丁寧にケアされた白い肌に、柔らかくも引き締まった体つき。


 出るとこは出て、引っ込むところは引っ込んだボディラインは、性別を問わず息を呑ませる。


 少女は窓際に両手を置くと、外を眺めた。


 見えるのは、ネオンサインが煌々と輝く、眠らぬ繁華街の景色のみ。


 だが、目を刺激するビル群よりも、さらに遥か遠くを見つめる。


 微かに聞こえる遠雷に似た何かを感じ取ったのだ。


 眼下の歩く人々に、これといった反応はない。連れ立って歩き、時には千鳥足で、中には道に嘔吐するサラリーマンの群れ。客引きする男女。全てがいつも通りだった。


 それでも少女は、自身の感じたものを気のせいでは済まさない。


 ベッドから身を起こし、青暗いライトでほのかに照らされた室内に足を下ろす。


 ライトがついていると言っても明るさは全く感じない。裸のままスリッパを履く少女の背後で、膨らんだ布団がもぞもぞと動いた。


 寝返りを打った誰かの、寝惚けた甘ったるい声。


「うぅん……。起きたの……?」


「んー、まあね。まだ寝てていいよ」


「どこ行くの~……?」


 目覚めた少女はベッドから出て、脱ぎ散らかした服を拾い上げる。


 その髪は、同衾していた者の目には明るいブラウンに見えていたが、彼女自身の目には水色に映っていた。


 競泳水着に近い手触りのボディスーツに袖を通し、臀部までを覆い隠す髪を軽く持ち上げてなびかせた少女は、垂れ目がちな童顔でベッドに振り返った。


「お腹空いちゃった。ちょっとコンビニ行ってくるね」


「あたし、おにぎり……」


「わかった。朝までには帰ってくるね」


 肩越しに軽く手を振って、少女は寝室を出た。


 ホテルの廊下を歩きながら、頬に触れる。先ほど、少女を微睡みから揺り起こした気配は、未だじっとりと肌に張り付いた。


 水中で軽い地震に遭遇すれば、こんな感じがするのだろうか。


 肌を微かに痺れさせる、空気の振動とはまた違う、何か大きなものが震えるような感じ。


 髪と同じ、水色のジャケットを羽織った少女は、だんだん止んできた小雨を浴びながら、真夜中の街に繰り出した。


―――――――――――――――


「はああああああああッ!」


「おらあああああああ!」


 振るわれた刃が蛇とぶつかる。


 白夜が阿黒の喉笛を尾で狙うが、彼は仰け反り、頭を振り回すような動きで回避した。


 遅れて飛んでくる刀が、今度は夕の首を落とそうとする。屈んでかわすと、鳩尾に膝を入れられた。


「かはっ!」


「オラオラオラ!」


 体を折った夕の後頭部を柄尻で殴りつけ、鼻面に膝蹴りをかまし、剣で胸を斜めに引き裂く。


 簡素なシャツとスポーツブラが破かれ、白皙の肌に赤い筋が刻まれた。


 白夜は必至になって、尻尾で連続の刺突を撃つが、阿黒は妙に柔軟な動きでひょいひょいと避け、夕の土踏まずを蹴った。


 体勢を崩し、がくんと膝を突く夕の胸に、前蹴りが叩き込まれる。吹き飛ばされた夕は仰向けになりながらも、なんとか起き上がる。


 その顎を、革靴の爪先が撃ち抜いた。


「ハッハッハッハッハッハ! おらガキ、さっきまでの威勢はどうした! 俺を殺すんじゃなかったのか、あ!?」


「クソ、が……ッ!」


 狂ったように笑う阿黒の前で、夕は真横にごろごろと転がる。その地面に逆手持ちの剣が突き立てられた。


 なんとか距離を取ってから起き上がり、魂喰夜蛇を食いつかせようとする。


 しかし阿黒は狂気の愉悦に歪んだ笑顔のまま、剣の一振りでそれを薙ぎ払った。


 ズキ、と切り傷の痛みに顔をしかめる夕の前で、阿黒は軽く両腕を広げる。


「ああ、ハハハ! いい気分だぜ。ゲラゲラ笑い転げながら安酒かっ食らいたいような最高の気分だぁ、ハハハハハ!」


 死線を掻い潜ったためか、阿黒は異常に興奮している。それ自体は白夜も数時間前に味わったものだ。


 死の危険と、それを退ける力。そうしたものは、人をハイにさせるらしい。


 阿黒は今、葬者として一歩先に進んだのだ。


「夕!」


「急かすな、まだやれる……! 蛇!」


 覚束ない足取りで立ち上がった夕は、アッパーカットのムーブで魂喰夜蛇を撃ち出した。


 大きくアーチを描いた大蛇は、阿黒を頭から丸呑みにする。


 白く朧な輪郭は、赤銅色の剣閃によって解体され、吹き散らされた。


 阿黒はゆっくりと、夕に近づいてくる。


 開いた瞳孔は、開けた服の下についた、生々しい剣の痕に向けられている。


「やっちまったな、体にそんな傷ついちまってよ。これじゃあ売り物にならねえってドヤされちまうぜ」


「誰が……売り物だ、てめぇ……ッ」


「お前だよ。けど問題はねえ。首から上さえありゃあ、売れる。葬者の首が欲しがられてたからな!」


 突然、阿黒が急加速する。


 反射的に白夜が尻尾を伸ばすが、片方の剣に弾かれてしまった。夕は半身になって、右腕の魂喰夜蛇を膨張させる。


 斬撃は防げたが、脇腹を狙った蹴りはどうにもならない。吹き飛ばされ、追い撃ちの剣戟に晒される。


 幸い、傷は浅い。しかし左の二の腕とあばらの下から腹にかけて、また一筋傷が出来た。


 夕は踏ん張って転倒を防ぎ、阿黒の振り下ろしてくる二刀を右腕の魂喰夜蛇で受け止める。


「お前らが持っていったあの箱なあ! 俺らも最初はなんだかわからなかったんだ! ハハハ、おかしな話だろ!? 殺してもいい奴の頭に電極ぶっ刺して拷問して、死にそうになったら首を落とす! それで何になるんだって話だ!」


「そうやって……兄貴を殺しやがったのか!」


「ああそうだ! あの野郎は組長を闇討ちしようとしやがったからな! けど返り討ちにあったんだぜ!? 青二才が、勝てるわけねえってのによお!」


 異常な高揚のためか、口の軽くなった阿黒は力尽くで二刀を振り切った。


 後ろに弾かれる夕。いつの間にか阿黒の脇腹を貫いていた白夜の尾が引き抜かれ、空いた穴から血が噴き出す。


 それでも痛みを感じていないかのように、阿黒は笑いながら喋り続ける。


「ヒヒヒヒヒヒ! 馬鹿だが大した鉄砲玉タマだったぜ! いたぶられてんのに、これ以上好きにさせねえって言って向かってきてよ! 爪を何枚剥がしても俺たちを殺す気がいやがった! 歯向かってこなけりゃウチに入れてたって組長オヤジが言うぐらいでよお! それに比べて弟は!」


 夕がピクリと反応する。


 目が霞み、額が熱を持つ。怒りで誤魔化し続けてきたダメージも、そろそろ限界が近い。戦意を失えば最後、そのまま倒れてしまいそうだ。


 それでも顔を上げた。


 腹を殴られ、吹き飛ばされて、ひっくり返された。


「兄貴が気合入った奴だったから、ちょっとは期待してたのに、あいつは兄貴の死体見るなり腰抜かしやがったんだ! 兄貴の死体を目の前で解体してやったら、泣きながら土下座して、漏らしやがって! 去勢された犬にも劣る玉無し野郎だった!」


 汗だくになりながら、夕は奥歯を噛んで身じろぎをする。


 目を開けているのに、視界は黒い。それは闇ではなく、空の色。


 燃えるような痛みが傷口を覆う。さらに心拍がひとつ鳴るたび、傷を内側から裂かれるかの如き苦痛が襲ってきた。


 体が末端から冷えていく。藻掻こうとしても動けない。


 ザン、と夕の首の真横に刃が突き立てられた。


 空の景色に、真っ黒い人影が入り込む。阿黒は夕を踏みつけ、アスファルトをゆっくりと裂きながら、夕の頸動脈に刀を近づけていく。


「それで、お前はあいつのなんだって? まあ、なんでもいい。体はズタズタにしちまったが、首は使える。生きたまま、もっとズタズタにして、死にたての頭を切り落として箱に詰め込んでやる。兄貴と一緒になれるんだ、心底嬉しいだろ、ええ?」


「やめ、ろ……!」


 夕は右腕を動かし、刃をつかんだ。腕を包む形で顕現した魂喰夜蛇も刀に食いつき、それ以上近づくのを止めようとする。


 この場で殺す気があるか否か、そんなことはもう関係ない。ここで動かなければ、早晩、無残な死を遂げる。


 何よりここで反撃せねば、二度と復讐など出来なくなる。


 阿黒は可笑しそうに喉を鳴らした。酔いの肴は、無駄に足掻く少女の顔だ。


 夕の左腕を踏みつけて、もろともに白夜を抑え込む。喉笛を赤銅色のオーラをまとう革靴で踏みつけられた白夜は苦しげな声を上げる。


「兄貴も報われねえよな。仇を討つ危害もねえ根性なしの弟を抱えて死んでいったんだ。最後まで弟に手を出すな、夕、夕、って叫びながらな!」


「…………っ!」


 カッと目頭が熱を吹いた。


 今まで隈取組でこき使われる中、兄の死にざまについての話を聞いたことは一度もない。


 刀身を噛んだ魂喰夜蛇が顎に力を注ぎ込む。夕の腕に籠もる力に応じて。牙が刀の腹に擦れて耳障りな音を立てた。


 阿黒は薬物、あるいは酒で悪酔いしたかのような、狂気の笑みを浮かべて一方的に叫ぶ。


「ハハハハハハ! そうまでして守ったクズ弟は、俺たちの使いっぱしりになった! そいつもどこかに雲隠れしちまったんだよなあ、借金残ってるってのによお! お前、あいつがどこにいるか知ってるか!? 拷問する前に抱いてやるからよお、寝物語にでも吐いてみろやぁッ!」


「うるせえ……」


「聞こえねえよ!」


「うるせえって言ってんだよ!」


 阿黒の手を、異様な手応えが圧した。


 一回り大きくなった魂喰夜蛇は、顎を内側に入れ、上下の牙を刀身に押し付け、ギリギリと音を立てる。


 夕は持てる力を全て右腕に注ぐ。首筋を撫でる刃の冷たさと、魂喰夜蛇の輪郭が、間近に迫った断頭に対する警鐘となった。


 兄も、こいつらに首を切り落とされる寸前、こんな感覚を味わったのか?


 ―――俺なんかのために?


 ―――俺みたいなクズのせいで、こんなやつらに!


 夕は獣のように吠え、全霊で阿黒の剣を押し返した。


 阿黒は怪訝そうに笑みを薄めたが、すぐに両手で剣を押し込んでくる。


 ほっそりとした腕がはち切れそうだ。手首、肘、骨が軋んで悲鳴を上げる。


 それでも、夕はなおも抵抗を強めた。


 怒りと悔しさの上に積み上がった、使命感のために。


「ああそうだよ! 俺は……怖かったんだ! 兄貴をあんな風にされて、次は自分だって思ったら……怖くて仕方なかった! 何を思っても従うしかなかった! だけどな……!」


「何を……言ってやがんだァ!」


「だけどもう、我慢の限界だ……! 黙って言いなりになるのはもう嫌だ! お前ら全員、ぶっ殺してやる。まずはお前からだ、阿黒ぉ! 兄貴を八つ裂きにした報いを受けさせてやるぁぁぁッ!」


 バキン! 夜の静寂しじまが砕け散る。


 阿黒は目を見開き、前につんのめりながら、己の右手に視線を向けた。


 刃が、魂喰夜蛇に噛み砕かれている。抵抗を受けながら、絶対的有利と生還の酔いゆえに思いもしなかった事柄が、彼を目覚めさせた。


 バランスが崩れる。夕は左腕を踏みつけていた革靴の足を振り払った。解放された白夜が阿黒の首にかじりつく。


 阿黒はとっさに白夜をつかむが、鋭い牙は既に喉笛に食い込み、離すことはない。


「ぐが……っ!」


 夕は勢いよく跳ね起き、阿黒の鳩尾に頭突きを入れた。


 隙だらけの腹を殴りつけ、白夜をつかんで左腕を打ち振る。阿黒は叩き伏せられながらも手を突いて完全な転倒を免れた。


 余裕の狂熱は、既に冷めている。


「首、切り落とすんだったな」


「……っ!」


 阿黒は白夜に構わず、やじろべえのように跳ね起きた。


 折れた刃が白銀の輝きを帯びて伸び、元通りになる。


 もはや待ったなしだ。即座に夕の首を断ち切ろうと振るわれた刃は、白い炎をまとった夕の腕に受け止められる。


 立ち上がった夕は左腕をだらんと垂らし、傾いた不完全な片膝立ちをする阿黒を見下ろす。


 その瞳を見た阿黒は、冷たい突風に吹かれたかのように感じた。


 銀色の瞳は、閾値を突き抜けた怒りのせいで、一周回って凪いでいた。冷徹で、酷薄な、真の殺し屋の目だ。


 夕は阿黒の刃を振り払う。肘から先を包んでいた炎が掌に集まる。


 白い炎を握りしめた夕は、左腕を引いた。


「落としてやるよ、お前の首を。俺の兄貴にそうしたように!」


 阿黒が白夜に引きずられる。


 夕は完全に耐性を崩した彼の首筋めがけて、右手を振り下ろす。


 阿黒は無理矢理両足を前に出して、夕の右手から伸びた白い炎を剣で弾いた。


 返す刀で白夜を斬り捨てようとするが、寸前で逃げられる。


 斬撃の空振りも気にせず、距離を取って立ち上がり、切っ先を突きつけた。


 白い少女の右腕に、大蛇の姿はもはやない。


 魂喰夜蛇は、夕の手の中で、一本の剣に変化していた。


 刃の節をいくつも接続した純白の剣。


 所謂“蛇腹剣”と呼ばれる形状のそれを、夕はひと薙ぎした。


 夜葬旭“魂喰夜蛇”―――“白皎裂薙はっこうれっか”。


 喰らい合い、新生したる、異形の妖剣。


「お前は殺す。地獄に送って、お袋と兄貴に泣いて千年許しを乞わせる!」


「舐めやがって。ビッグマウスは、見掛け倒しの蛇だけにしろよ! お゛おッ!?」

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