邂逅

「気をつけなさいよ」


「わかってる、っての……!」


 制服のスラックスを両手で押し上げ、夕はふらつきながら、危なっかしい足取りで階段を降りる。


 明日香が住んでいたのは学生マンションの五階だった。エレベーターもあるのだが、明日香はわざわざ階段で降りる。


 結果、夕は制服に着られ、さらにサイズの合わない靴を履いて、うっかり転びそうになっていた。


 目線の高さも大きく変わったせいか、歩幅に違和感があり、車酔いに近い感覚に襲われる。


 肩から伸びあがった白蛇の白夜が、不安そうに呟いてきた。


「おい、こけるなよ? 多分、オマエが死んだらオレも死ぬ。ここまで生き延びてきて、そんな間抜けな死にざまは御免だ」


「黙ってろ……!」


 どうにかこうにか最後の段に足を下ろし、一階に降り立つ。


 これだけで既に一苦労だ。既に一日分働き詰めたような疲労感に襲われていると、ロビーの自動ドアが開く。


 前かがみになって、ずり下がりかけるスラックスを押さえつつそちらを見ると、入ってきた青年が、明日香に片手を挙げた。


「おー、明日香、やっと降りてきたか。で、そっちの子が?」


境兵きょうへい? 車で待っててって言ったのに」


「あんまりに遅いから、なんかあったのかと思ってな」


 話しかけてきた青年は、荒野で臨む暁の地平線を思わせる短髪を撫でつける。


 背は高く、髪色以外は典型的な大学生と言った具合。服装もカジュアルで、特段変わったところは見られない。


 それにしても、かなりの高身長だ。あるいは、すっかり低くなった視点と、前かがみになって服を押さえるポーズのせいでそう見えるのか。境兵は夕を怪訝そうに見つめ、肩から伸びた白い蛇に眉をぴくつかせた。


 炎のように揺らめく輪郭は、およそ普通の蛇のものではない。


 境兵はしばし考えてから口を開く。


「その子が、前に先生が言ってた協力者か?」


「色々訳ありなのよ。詳しくは、全員そろってから話すわ」


「ひとりを除いて、だろ」


「……あの子、また?」


「またっつーか、音信不通だ。先生も心配してんだけどな」


「はあ……」


 もはや指摘する気も起きない、といった調子で、明日香は肩を落とす。


 白蛇に身をやつした白夜は、舌をちろちろと伸ばして問いかけた。


「初めまして、だよな。オマエ、電話の時にいなかったろ。白夜だ、よろしく」


「へえ、喋る式神か。そんなのもいるんだな。俺は……」


「自己紹介は後。行きましょう。境兵、その子を運んで。おんぶでもなんでもいいから」


「運べってお前」


 境兵は文句を言いかけて、夕の頭からつま先までを見た。


 ぶかぶかの服。ずり落ちそうなスラックス、がぽがぽと空虚な音を立てる靴。


 首をひねった境兵は、明日香から事情を訊こうとしたが、“それは後”の一言で遮られた。 


「わかったよ。ったく、強引な奴。じっとしててくれよ、白夜ちゃん」


「ちょ、ちょっと待て! 何する気だ!?」


「何って、おんぶか、お姫様抱っこか」


「やめろ、ひとりで歩ける! 触るな!」


「ちょ、騒ぐな騒ぐな。俺が変質者みたいだろ。何もしないから動くなって」


 夕は逃げようとするが、まともに動けず、尻餅を突きかける。


 境兵がその背中を支え、ひょいと抱き上げてしまった。


 靴が片方、足から外れて床に転がる。


 ばたばたと暴れたせいで、もう片方も落ちた。


「下ろせ、下ろせって!」


「暴れるな、落とす、落とす! 靴拾えないからじっとしてろ!」


「下―――ろ―――せぇ―――っ!」


 夕は羞恥心と現実を認めたくない気持ちから、激しく抵抗する。


 しかし、境兵の腕にしっかりと抱きかかえられては抜け出せず、結局そのまま車の後部座席に放り込まれてしまった。


 家族用のワンボックスカーだが、子持ちというわけではあるまい。友人たちと遊びに行く用だろうか。


 慣れた手つきで車を発進させた境兵。後部座席の端に座り、暗い表情でぶつぶつ呟く夕から首を伸ばして、白夜が問う。


「どこに向かうんだ? アジトか?」


「ま、アジトっちゃあアジトだな。秘密基地なんて大層なもんじゃねえけどさ」


棚途市ここの大学よ」


「大学ぅ……?」


 興が削がれたとばかりに、白夜が復唱する。


 白い蛇は体を伸ばして、運転席と助手席の隙間に滑り込んだ。夕など眼中にないと言わんばかりに。


 境兵は横目で蛇をちらりと見た。


「話は大体聞いてる。白夜ちゃんが助けを求めた相手は、大学の先生やってんだ。俺はゼミ生で、その人の教室に出入りできる。……それより、このまま向かっていいのか? 白夜ちゃんの服、そろえてやった方がいいんじゃねえのか?」


「後でいいわよ。それと、白夜は蛇の方で、葬者の方は夜刀夕」


「なんだそれ、どういうこと?」


「説明は着いてから」


「いや、最低限はしてくれって……」


 抗議しつつ、境兵はフロントガラスから空を見上げた。


 車内のデジタル時計についた時刻は、午前十時を回ったところ。だが空は一面真っ黒だった。太陽はおろか、雲さえもない。朝とは思えぬ異様な天候だ。


「いけすかねえ天気だよなあ」


「晴れるといいわね」


 適当に返事をしながら、明日香は車内モニターを点ける。


 ちょうど政治のニュースをやっていて、与党の議員がエネルギー事業の投資について熱心に語っていた。


 ニュースキャスターや自称アナリストの話を聞き流している間、夕は俯いて、許容量をオーバーした頭を落ち着けようと努める。


 つまらない番組や、単調な車の揺れ、そして精神的な疲労に引っ張られ、意識は水中に落とされた岩のように沈んでいった。


―――――――――――――――


「クソッ、クソぉっ……! 俺が、こんな……っ!」


 外に出た夕は、ぎりぎりと歯を軋ませながら、屈辱を噛み殺そうとしていた。


 情けないことに、目頭が熱を持ち、涙が浮かびかけているのがわかる。恥の上に、恥を山のように積み上げている気がしてならない。


 当然といえば、当然だろう。夕は今、あどけない少女として、男の背中におぶわれているのだから。


 降りるなり、夕を背負った境兵は、苦笑いをしていた。


「人の背中で泣くなよ」


「泣いてねえよ!」


「じゃあ静かにしてろって。その、なんていうか、服が危なっかしいんだから」


「ぐ、ぎ……っ!」


 上下に揺さぶられながら、夕は悔しさに唸った。


 白夜は夕にかまわず、鎌首をもたげてキャンパスを仰ぐ。


 ギリシャの神殿を近代的に作ればこんな風になるだろうか。学校というより、美術館といった方が近い外観で、空が青ければ随分と見栄えが良かったはずだ。


 白夜は不思議そうにきょろきょろする。


「ここがダイガクってやつか。人があんまりいねえけど?」


「今は二限目の真っ只中だしな。基本、人通りは授業が始まる前か後に集中してるんだよ。二限終わったら昼休みだし、ぞろぞろ湧いて出てくるぞ」


「引っ込んでろよ、蛇。もし誰かに見られたら……」


「あ゛?」


「ハハッ、心配ない。こいつは、普通のやつには見えないからな。明日香、お前、教えてないのか?」


「先生に教えてもらえばいいと思って。早く行きましょう」


 足を早める明日香に合わせて、境兵は速度を上げる。


 夕は境兵の背中にしがみついたまま、情けなくなるとともに、懐かしい気分も味わった。


 広い背中と、くぐもった心音が、胸の奥をちくちくと刺す。いつの間にか暴れるのを止め、境兵の鼓動に聞き入っていた。


 大人しく黙り込んだ夕を余所に、白夜は質問攻めを続ける。


「なあ、大学で何してるんだ? センセーとやらも“葬者そうしゃ”なのか?」


「会えばわかるわよ」


「その色々先延ばしにする癖、やめた方がいいぞ。悪いな、えーと、白夜でいいんだよな。先生も葬者だ。俺も明日香も、先生に拾われたんだぜ。わかってて連絡したんじゃないのか?」


「いや、オレも必死でさ。とりあえず、野良の葬者だってことを確認してから、協力できるかなって」


「野良って、犬猫じゃないんだぞ」


 会話しながらエスカレーターや階段を駆使して上階に登る。


 たどり着いたのは、扉だけで中の狭さを察せられる部屋がいくつも並ぶ、研究室のフロアだった。


 その端の方へと一行は近づき、“鬼木原陽菜乃”とネームプレートを掲げたドアにノックする。


「鬼木原先生、失礼します」


 手すきの明日香が扉を開けて中に入ると、案の定部屋は狭かった。


 本をぎっしりと詰め込んだ本棚に、対面用のデスク。奥はパーティションによって仕切られているが、パソコンや、様々な機材が置かれているのが見える。


 よく見れば、新型旧型を問わず、ラジオにテレビ、電話、ゲーム機など様々な機械が、狭い部屋の中で整理整頓されていた。


 パーティションの向こうから、ひとりの女性が顔を出す。


 真面目そうな顔をした人だ。フィールドワーカーなのだろうか、白衣に登山客のような服装を合わせた、不思議なコーディネートが特徴的だ。


 腰まで伸びた髪は白と黒のツートーンカラーだが、色は砂嵐のノイズのように絶えず移り変わっていて、見ていると不安を掻き立てられる。茜色の瞳に見つめられると、どこか異次元にでも引き込まれてしまいそうな気がした。


 狭い研究室の主は、柔和な笑みで来訪者たちを出迎える。


「いらっしゃい。豊来ほうらいくんの背中にいるのが、白夜くんかな?」


「色々事情が込み入っていまして」


「込み入った事情を、さっぱり説明されてなくって」


 境兵が、明日香の言葉を真似て肩を竦める。


 白夜は“先生”をめつすがめつ眺めていたが、やがて小さく会釈した。


「……どーも」


「ふうん、喋る式神か。自律しているのか、それとも腹話術のようなものなのか。詳しい話を聞きたいところだ。ともかく、私の研究室へようこそ。ここで哲学の講師をしている、鬼木原きぎはら陽菜乃ひなのだ。明日香の後見人でもある。座ってくれ」


 夕はようやく、境兵の背中から下ろされた。


 残った恥ずかしさをかき消すように、用意されていたスツールに座る。


 明日香と境兵がその両隣に、陽菜乃は対面に腰かけた。


 白夜は夕の左腕に巻きついたまま、どこか緊張したような様子。


 陽菜乃は机の両手を組んで、早速話を切り出した。


「さてと、そっちのふたりとは、自己紹介が終わっているのかな?」


「あー、いや、俺はまだなんですけどね」


「境兵だろ、知ってるよ」


「……いらないらしいです」


 白夜に返され、境兵は微妙な顔をする。


 陽菜乃が机の下から取り出したペットボトルの水を受け取り、明日香が口を開いた。


「先生にコンタクトを取ったのは、この子の蛇です。正確には、蛇と一体化した“白夜”と名乗る女性で、本体の方とは別人です」


「ん? ……どういうことかな」


「白夜と山で合流した後、巨大な妖魔に襲われている少年を発見しまして。白夜は自分の夜葬旭を用いて、その少年と融合したところ、この女の子になったそうで。意識はその少年のもの、少年の式神に白夜が宿ったそうです。話を聞く限りでは」


「ふーむ」


 陽菜乃は眉間に皺を寄せ、考え込む素振りを見せる。


 癖なのだろうか、机に触れさせた指を人差し指から順番に上げ下げし、何かを数えてから、質問をした。


「わかった、そこはひとまずそれで納得しよう。君、自己紹介を頼めるか」


「オレが白夜だ。今はこんな蛇だけど、れっきとした人間だぜ」


「……風鎧ふうがい高校一年、夜刀夕」


「わかった、白夜に夜刀君だな。私に電話をしてきたのは白夜で、譚抄山たんしょうざんに呼びつけた。そこで私は明日香を向かわせたわけだ。……して、巨大な妖魔とは?」


「妖魔については、夜刀夕が詳しいと思います」


 夕は鬱々とした表情で、明日香の視線を見返した。


 混乱が去り、今は気分が落ち込んでいる。


 だが、他人はいつも、そんなことはお構いなしだ。視線を適当なところに向けながら、小さく呟く。


「わからねえよ。あの化け物は、いきなり現れて、ツレを食った。どこから来たのかなんて、俺に訊かれても……」


「一番初めに妖魔……その化け物を見たとき、君は既に、その蛇を出せるようになっていたのか?」


「いいや。逃げてるうちにこいつらにあって、気づいたらこうなってた」


「霊感はある方か?」


「幽霊なんざ、ガキのうちに信じなくなってるよ。いるわけねえ。……ねえ、よな?」


 夕は俯き、ズボンをぎゅっと握りしめる。


 そうだ、あの怪物が幽霊だったら、今頃ヤクザなどありはしないだろう。


 死者は死者。命尽きればそれまでなのだ。


 少なくとも夕は、そう思っていた。


 口元を引き結んだ夕に代わって、白夜が口を開く。


「リスクを軽減するために、あの山を選んだんだけどな。あそこは随分と濃い霊壌れいじょうだ、霊感のない奴でも見えるし触れるぐらいのな。それにしても、あの夜はちょっと強すぎたが」


「明日香でも祓えなかったか?」


「傷つけるぐらいは出来ましたけど」


「倒すには至らなかった、と」


「だから、オレが近くにいたこいつを“覚醒めざめ”させた。そしたら、こいつは女の子になって、オレはこいつの魂に混ざっちまった。不覚だぜ、こうなるってわかってたら、やらなかったのによ」


「俺の台詞だ、クソ蛇」


「ああ!?」


 夕が吐き捨てると、白夜は大口を開けて噛みつかんばかりに口を開いた。


 境兵がその首を掴んで制止する。


 離せ離せと喚きながらぐねぐね動く白夜に苦笑いをして、陽菜乃が問いかける。


「まあ、事情はわかった。では、そうだな。夜刀君は、今の状況を飲み込み切れているか? どこまで教えてもらった?」


「ヤソウキョクだの、ヨーマだのの話は聞いた。よく覚えてねえけど」


「なるほど。なら、改めて説明しようか」


 陽菜乃は手近な棚から、ホワイトボードとペンを取り出して、さらさらと流麗な字を書く。


 箇条書きで、“妖魔ようま”、“葬者そうしゃ”、“夜葬旭やそうきょく”の三つのワードが出てきた。


「この三つは覚えて帰ってくれ。まず妖魔。一般に幽霊や妖怪、都市伝説の怪物と思ってくれ。奴らは死者の魂から零れた、強い生存本能が独立して動いたものだ。既に死んだ生き物の霊が、生きたいという一心で動き始めた存在。言い方は悪いが、魂だけの死にぞこないだ」


 その説明を聞いた夕の脳裏に、あの射殺した初老の男が蘇った。


“ま、待て……! 俺を殺したらただじゃあ済まんぞ! 俺がいくらお布施したと思ってる! 俺には、永遠の命が……!”


“し、死なねえんだぞ……! 俺は死なねえんだぞぉぉぉぉぉぉぉ!”


 醜く、意味不明で、聞くに堪えない絶叫。


 もしや、あの狂った老人の執念が、あの怪物を生んだとでも言うのだろうか。


 体が焦燥に炙られ、熱を持ち、汗が流れる。明日香は、夕の手の甲に落ちる雫を見逃さなかった。


 陽菜乃もまた、夕の反応を興味深く見つめる。


「続けていいかな。次に“葬者”だ。君を含め、ここにいる全員のこと。妖魔に対抗する術を持つ。死地に遭って抗い、自らの生存本能によって魂を“覚醒”させた者が、我々だ。“夜葬旭”は、葬者の魂の形が具現化した異能力。まあ、霊能力とでも解釈してくれ。大丈夫か?」


 夕は頷くのが精一杯だった。


 自分でも説明の出来ない感情が、頭の中を圧迫している。息苦しく、重い。


 陽菜乃はペンを閉じて、人差し指の上で回転させる。


「話をまとめると、君は山で妖魔に襲われ、その際に葬者として覚醒した……いや、白夜によってさせられた。他者を覚醒させる夜葬旭か。なるほど、ならこの大仕掛けにも納得が行く」


「おーい、先生。ひとりで納得してないで、俺にもわかるように言ってくれ」


「では、特別授業だ。豊来君」


 陽菜乃はペン回しを止め、キャップをつけた先端を境兵に突きつけた。


「我々が陥っている“危機”について、説明したまえ」

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