第8話 大川さんの事情
思わず黙って大川さんを見つめてしまった私とマスターの視線に気付いたのか、大川さんが頬を緩ませる。
「すみません、知りもしないのに断言してしまって」
「あ、いえ……随分と実感がこもっていたなあと思って」
ぽろりと本音が出ると、大川さんは今度こそあははと声を出して笑った。
「ええ、はい。身近にそういった種類の人間がいるので、つい実感を込めてしまいました」
何がそんなに可笑しいのか、大川さんは暫くクスクスと笑った後、お冷やをクイッと飲んでから私たちの顔を交互に見る。
「そんな僕からのアドバイスは、逃げられる内に逃げることですよ、月島さん」
「逃げる……」
私が呟くようにその言葉を口にすると、大川さんは微笑んだまま頷いた。
「そういう人間は、変わりません。変わるかもしれない、そう期待していた時期が僕にもありましたが、無駄な時間でした」
マスターが、静かにお冷のおかわりを大川さんの前にスッと出す。
「……失礼な質問かもしれないけど、もしや彼女、とか?」
するとその質問には、大川さんは首を横に振った。
「いいえ、僕に彼女はいませんよ。ただの友人の話です。ちょっと執着が強いだけの、ただの友人です」
その言葉からは、その友人というのが女性であることが窺えた。どういう関係なのかは分からないけど、構ってほしいタイプの子なんだろうな、というのも伝わってくる。
大川さんは優しそうだから、きっと親身になってあげたんだろう。まさか執着されるなんて思いもよらず。自分がその人の助けになれないか、そう思って差し伸べた手を掴まれ、引きずり込まれたのでは。
逃げられる内に、ということは、もう大川さんはその人から逃げられると思っていないということだ。
私とマスターの視線に促され、大川さんはぽつりぽつりと話し続けた。
「……僕は、突き放せる段階にいた時に友人の言葉をそのまま信じてしまった。それが虚偽だったと気付いた時には遅くて」
「虚偽……?」
はは、と乾いた笑いを見せながら、大川さんがコップを掴む。
「友人の語る内容は、恐らく半分以上が嘘なんです。外に見せている姿は、きっと僕が知ってる友人とは全く違う姿でしょう」
「嘘……」
今度はマスターが呟いた。大川さんが、くいっともうひと口水を含んでごくりと音を立てて嚥下した後、コップを静かに置く。
「嘘に嘘を上塗りして、虚栄の上に立って生きている。そんな感じですかね」
だから、と大川さんが先を続けた。
「構ってくれる相手がいないと、僕のところに来て僕にはばれている本性を曝け出す。僕はただの聞き役ですよ。だけど友人の本性を知る僕を、あの子はもう離そうとしない。きっと、他の人にばらされるのが怖いのだと思います」
「だって、それじゃ大川さんが……」
ただ都合よく振り回されているだけじゃ。彼女はいませんと言っていたその言い方からは、その友人とやらがそれをよしとしていないから、という風にも聞こえた。
それじゃあまるで、自分に告白してきて振った相手を私に紹介し、自分の周りに固めようとしている梨花と一緒じゃないか。
自分の配下に置く。大川さんのその言葉が、しっくりきてしまった。そうか、そういうことなのかとようやく少し理解が及ぶ。
「……だから、ここは僕の逃げ場に丁度いいなと思ったのが本音です」
「逃げ場……」
私の呟きに、大川さんが柔らかく微笑んだ。
「いつも唐突に現れるんです。さすがに職場にまでは来ませんが、代わりにマンションの前で待ち伏せされることもあって。居住者じゃないと奥までは入れないのが救いですけど」
「……きついな」
マスターがぼそりと言う。大川さんは、それにも笑顔で頷いた。
「疲れて帰ってきた時なんかは、正直本当にきつくて。なんだかんだ理由を付けて家に上がり込もうとするので、精神的に参っていたところだったんです」
家がばれてしまっているのはきついだろう。きっと、元は本当に仲のいい友達関係にあったのかもしれない。だけど、いつからかそのバランスが崩れてしまったんじゃ。
マスターが、唸りながら尋ねる。
「余計なお世話かもしれないけど、引っ越しとかは考えないの?」
「……何度か、縁を切ろうとは思ったんです」
大川さんが、うつむき加減で膝の上で手を組んだ。
「……だけど、うまくいかなくて」
大川さんは、明らかに言葉を濁す。本人が語りたくないのであれば、それは根掘り葉掘り聞いていい種類のものではないんだろう。
「友人もそろそろ結婚適齢期だって自分で言ってるくらいなんで、理解のある旦那さんを見つけてくれたら、なんて淡い期待を
力が抜けた笑い声を小さく上げて、大川さんは組んだ手の指を動かしている。
「適齢期……これまた失礼かもだけど、大川さんはいくつなの?」
「僕ですか? 二十六です」
「あ、じゃあ私と同い年ですね」
もう少し上かと思っていた。物腰が穏やかだと、年齢も上に見えるものらしい。
「月島さん、同級生だったんだ。もっと若いかと思ってた」
「色々こじんまりしてますからね……」
私がへへへと笑うと、大川さんが「じゃあ」と提案する。
「敬語、なしでいきませんか?」
「……はい、そうしましょう」
そう返答すると、大川さんはもう一度ぐびりとお冷やを飲んでから、私ににっこりと笑いかけた。
「これからもよろしくね」
「はい、こちらこそ」
それ以上、何が言えるだろう。大川さんのことに、私は何も口出し出来ない。私と大川さんは、似たような状況にある。
だけど、私は本気で逃げようと思えば仕事を変えるなりして逃げることが出来る。
でも大川さんは、すでにその段階を過ぎたと言っていた。
彼の落ち着いた佇まいは、身動きを取ることを許されない諦観から来ているのかもしれないな、と俯き加減な大川さんの横顔を眺めながら思った。
「……いつでも来てよ。大川さんなら大歓迎だよ」
マスターはそう言って微笑みかけると、大川さんに「何か食べる?」と尋ねる。大川さんは嬉しそうに頷くと、横に置いてあったメニューを眺め始めた。
マスターが私に向かって目を細めて微笑んだので、この話は一旦終了。そういうことだと悟る。
大川さんは悩んだ末、マスターおすすめのホットサンドを頼んだ。あれは美味しいと私が太鼓判を押したのもあるかもしれない。
注文された品を調理しに、マスターが調理場へと消えた。残されたのは、私と大川さんだけ。
そこで、今日の目的をようやく思い出した。
ハンドバッグから例の文庫本を取り出し、表彰式の様な渡し方で大川さんに本を差し出す。
「あ、あの! お待たせしました!」
大川さんは一瞬目をぱちくりさせたけど、すぐに朗らかな笑顔に変わるとそれを柔らかい仕草で受け取った。
「月島さん、読むの早いね」
「え? いや、三日も掛っちゃって、全然、へへ」
「僕、大体二回目を読み返すんだ。答え合わせをしたくって」
「あ、それ分かります!」
私が同意を示すと、大川さんが少し戯けた表情で軽く私を睨みながら笑う。
「ほら、敬語」
「あ」
どちらからともなく笑い合うと、大川さんに好きな作家さんについて尋ねることにした。にこやかに応える大川さんを見て、少しでもこの人の助けになれないかな、そんな烏滸がましいことを考える。
私にとって、『ピート』は癒しスポットだ。大川さんにとっては今は立地がいい逃げ場かもしれないけど、いつか私みたいに大切な場所になってくれたら。
会話を続けている内に、ふと気付く。どうして大川さんのことがこんなに気になるのか疑問に思っていたその答えは、もしかしたら。
もしかしたら、私たちがどこか似ているからなのかもしれなかった。
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