第7話 彼女の理由
道幅の広い歩道を、駆け足で進む。目指すは私の癒しスポット『ピート』だ。
マスターが癒しなのか、それともあの場所が癒しなのか。正確なところは、私にも分かっていない。その両方をひっくるめての場所、それがあそこなのかもしれなかった。
ガラス窓を通して、柔らかい電球色の灯りが歩道を照らしている。パッと見たところ、窓際のテーブル席には誰もいない様だ。
木製の重厚な扉を開ける。大川さんが言っていた『異空間』という表現は、確かにピッタリだ。一歩踏み入れた途端、まるで外界から切り離された場所に来た様に思えるから。
「こんばんは!」
私の姿を確認すると、マスターがにこやかに手を上げる。
「マリちゃん、遅かったね」
カウンター席には、大川さんの姿もあった。もぐもぐとホットサンドを食べているところだ。
おしぼりで口と手を拭うと、弧を描いた目と口で私に会釈をした。
「月島さん、今お仕事終了ですか?」
「ええ、なかなか終わらなくて……」
前回同様、座席をひとつ挟んでカウンター席に座ると、マスターがベルガモットの香りが微かに漂うおしぼりを手渡す。
これから本格的な夏に向かうこの季節、冷たくされたおしぼりは火照った手に心地良かった。
「また同僚の子のお喋りに捕まっちゃったのか?」
マスターが、苦虫を噛み潰した様な顔で口を尖らす。
「あー……ははは……」
私が苦笑すると、マスターが少し強めの口調で言った。
「マリちゃん。優しいのはマリちゃんのいいところだけど、自分の仕事を邪魔されるんだったら、ちゃんと上の人を通してでも言った方がいいと思う」
「……でも」
思い出すのは、病んでいった元同期の姿だ。彼女は、周りに必死で訴えていた。だけど、皆彼女の仕事が遅いからだと取り合わなかった。
彼女の直属の先輩が、梨花の取り巻きのひとりだったから。
私の直属の先輩も、梨花寄りの人だ。かなり本気で狙ってるのか、梨花が彼氏の話を職場でしていても、気にした様子もなくべたべたしている。
同期が辞めて梨花の仕事が溢れた時に、仕事をちゃんと平等に振れよと梨花の直属の女先輩に文句を言ったのは、この人だった。
その先輩以外にも、梨花の仕事を手伝わされた梨花の部署の男性は、時折梨花と二人でランチに行く。割と大人しいひとつ上の先輩だけど、その態度は露骨で、梨花に腕を組まれると嬉しそうに笑うのが常だった。
梨花に歯向かうということは、あの人たちを敵に回すということだ。一見平穏に見える職場環境を自ら乱すことは、私にはどうしても出来なかった。
「どうして私なんだろうなあ……」
ポツリと呟くと、大川さんが真面目な顔で小さく首を傾げる。
「その同僚さんは、月島さんに勝ちたいんではないでしょうか」
「――へ? いや、でも、同僚は滅茶苦茶美人で私なんか足元にも及ばない感じで……」
慌てて否定をすると、大川さんは私をまっすぐに見た。
「だって、現に僕は月島さんの雰囲気が好きですよ」
「ぶっ」
私が思わず吹き出すと、大川さんはあくまで真面目な表情のまま、続ける。マスターは、びっくり顔でただ大川さんを見つめていた。
「だから、周りに自分の方が明るくていい女だとアピールしてるつもりなのではないでしょうか。そして月島さんの方が立場が下なのだと、反論しない月島さんが服従している風に見える姿を周りに見せたいのでは」
「おお……なるほど」
腕を身体の前で組んだマスターが、感心した様に頷く。
私は滅茶苦茶恥ずかしくて、顔だけでなく頭も背中もカアッと火照照り始めていた。
大川さんが、恥ずかしげもなく淡々と続ける。
「月島さんの穏やかな雰囲気は、隣りにいる人を落ち着かせるんだと思います。派手さはないかもしれませんが、僕はそれがとても心地いいと感じていますから」
「ごほっ」
私が吹いても、大川さんは止めなかった。軽い拷問の様に感じる。恥ずかしくて仕方がない。
マスターが、繰り返し頷きながら後を続けた。
「確かに、マリちゃんが怒ったところなんて見たことないし、聞いたこともないもんなあ。いつもにこにこしていて、我慢し過ぎてるんじゃって心配になるくらいだし」
「あ、あの、マスター、もうこの話は」
うんうんと大川さんが賛同する。
「やっぱりそうなんですね。そうじゃないかと思っていました。月島さんからは、一度もピリッとしたものを感じたことがないので」
「あー分かる分かる。春の陽だまりみたいだもんねえ」
「さすがマスター、いい表現ですね。ぴったりです」
分からなくていいから、もうこの辺りで本当に止めてほしい。褒められ慣れていない私は、顔から火が吹き出しそうになっていたから。
「男性は派手で可愛い子に目が行きがちですけど、全員が全員華やかな子が好みな訳じゃないですからね」
「分かるわー。隣にいてほっと出来る感じの方が好みっていう奴、何気に多いもんなあ。俺も派手な子は苦手で」
うんうんとマスターが身を乗り出してくる。大川さんは、端正な顔をまっすぐにマスターに向けた。目が真剣でちょっと怖い。
「これは完全に偏見ですけど、そういう方はあまり読書もしていない様な。本の話が通じないと、それだけで会話しようという気持ちが萎えるんですよね」
「分かる分かる。好きな作家の話が出来ないと、俺なんか話題途切れちゃうもんなあ」
マスターの表情が輝いている。大川さんは、苦笑しながら肩を竦めた。些細な仕草ひとつひとつから落ち着きが窺えて、不思議な雰囲気の人だなあと思う。
「物知り、凄いと言われても、固まっちゃって」
「あー同志がいた」
男性陣二人で頷き合っている姿を、口を挟めないままただ眺めた。この二人は、いつの間にここまで仲良くなったんだろうか。さすがマスターだ。大川さんも、意外にもちっとも物怖じしない人なので余計なのかもしれない。
「これは僕の勘なんですが、その同僚さんが何か月島さんを非難する様なことを言った際に、庇い立てすることを口にした男性がいるのではないでしょうか」
大川さんの意見に、マスターが手をぽんと打った。
「マリちゃん、あれだ。前に言ってたあれ!」
あれと言われて、熱くなってぐるぐるしている思考を宥めながら該当する事柄を思い出す。――あれ。あれだ。
「確かにあった……でも、そんな大袈裟なものじゃなくて、別部署の彼女の仕事を手伝ってと言われて断った時に、それはさすがに私の仕事じゃないでしょうって取り巻きの人が言っただけですよ。でも、そこから態度がコロッと」
「ああ。その同僚さんは、否定されることに慣れていないんでしょうね」
大川さんが、深く頷く。
「恥ずかしいのか悔しいのか、そこまではさすがに分かりませんが……。歯向かうと思っていなかった人に間違っていることを指摘されて、更に味方だと思っていた人にも笑われて、プライドが傷ついたんじゃないですかね」
「なるほど……でも、それがどうして近付いてくるきっかけになったのかが、どうしても理解出来なくて」
私の返答に、大川さんは真剣な面持ちではっきりと言った。
「貴女がその同僚さんの配下にいて逆らわないと周りに見せつける為です」
大川さんの意見は、新鮮だった。私には、梨花の真意が全く読めなかった。付き合ったことのない種類の人間だった所為もあると思う。日本の高校に通っていなかったし、それに大学時代は似たような雰囲気の友達ばかりで固まっていたから。
「そして配下の人間が逆らったのを許してあげる優しい自分を演出しているんですよ、月島さん」
悟った様な諦めた様な口調で自嘲気味に笑う大川さんを見て、私とマスターは目配せをする。断言する大川さん。これは、何かある。前回もちょっと感じたことだった。それはマスターも同様なのだろう。
大川さんが、淡々と続ける。
「月島さんに同情的な自分の周りの人間に、月島さんは自分の管理下にある所有物だから余計な詮索はするなと言っているんです」
しん、とした空気が、場を支配した。
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