第6話 安堵できる人
「なんだ、てっきりマリちゃんがナンパされちゃったのかと思ったよ、あはは」
「嫌だなあマスター。ナンパなんてされないし! 私の方がナンパした様な形になっちゃってて、えへへ」
カウンター席にひと席間を空けて座る、私と大川さん。カウンターの向こう側で頭を掻いて笑っているのは、大川さんを不審者扱いしかけたマスターだ。
大川さんは温かい珈琲を美味しそうに口に含んだ後、柔らかい笑みを浮かべる。
「月島さんの雰囲気がとても素敵だったので、つい付いてきてしまいました」
「ごほっ」
口に含んでいた水が鼻に入り、慌てておしぼりで鼻と口を押さえた。ツンとする鼻孔から、ベルガモットの香りが飛び込んでくる。
マスターの眉毛がピクリと動いた気がした。
「こちらのお店の雰囲気は、異空間みたいで物凄く落ち着きます。あの本を手に取ろうと思って、本当によかったですよ」
あくまで穏やかに静かにそう言うので、恐らくは本心から言っているのだろう。
「これから、ちょくちょく顔を出してもいいですか? マスターとも、じっくりお話をしたいです」
端正な顔立ちに微笑みを浮かべて見上げてくる大川さんに、マスターは一瞬戸惑いを見せた。柔らかいのに案外ストレートな物言いをする大川さんに、たじたじの様子だ。
いつもはゆったりと落ち着いているマスターが押されているのが何だか可笑しくて、思わずおしぼりの隙間から笑いを漏らした。
すると、そんな私を見てマスターが苦笑する。そして大川さんは、私とマスターを交互に見てしみじみと言った。
「こんなに穏やかな気分になれたのは、久しぶりです」
あまりにも実感の籠った声色に、私とマスターは互いに目配せをする。これは何か事情がありそうだ。
ずず、と熱い珈琲を啜りながら緩やかに口角を上げて店内を見回している大川さん。その横顔は読めなくて、何が彼を穏やかじゃない気分にさせているのか、つい気になってしまった。
だけど、それは本人が話す気になってからじゃないと聞いちゃいけないことだ。マスターが、私が話し出すのを待っていてくれた様に。
「ここは、食事も取れるんですか?」
大川さんが、唐突に視線をマスターに戻した。マスターはゆっくりと頷くと、メニューの説明を始める。
大川さんにとってここが、私と同じ様な大切な場所になってくれたらいいな。
そんなことを思いつつ、さっき大川さんと折半した本を早速読み始めることにした。
こうして、ブックカフェ『ピート』の中に流れる穏やかな時の流れに、新しい常連が加わったのだった。
◇
折半したSFファンタジーを三日間掛けて読み切ると、私は今日も仕事終わりにブックカフェ『ピート』に向かう。
大川さんとの出会いの翌日は、日中に梨花に邪魔をされて仕事が終わらず、十時には閉まってしまう『ピート』には行けなかった。
その次の日は取り巻きの男性社員が沢山いたので、私の仕事はかなり捗り『ピート』に行けた。だけど今度は、大川さんがいなかった。
前日に来て、これまでどんな本を読んできたのかっていう話を楽しそうにしていってたよ、とマスターに聞き、ちょっぴり悔しく思う。私もその話を聞きたかったなあとぼやくと、「マリちゃんは本当に本の話をするのが好きだよな」とマスターに笑われたけど、事実だったので否定出来なかった。
三日目は、またもや梨花のお喋りで日中は仕事に集中出来なかった。だけど、六時になると「合コンに誘われちゃって! けんちゃんに言ったら嫉妬するかなあ、うふふ」と言いながら、香水の甘い香りを振り撒きながら会社を後にしていった。これで集中出来る、と一気に片付ける。
はっと気付くと、時刻は八時。せめて今日は、読み終わった本だけでも置いていきたい。そう思い、まだまだ残っているメールは明日の早朝に回すことにして、急いで帰り支度を始めた。
まだ残っている社員が複数名いたので、お疲れ様ですと声を掛けて会社を出る。
どうしてあんなに大川さんのことが気になるんだろう、そう考えながら走って駅に向かった。幸い電車はすぐにホームに滑り込んできたので、一番近いドアから車内に飛び込む。
考えてもよく分からないままだけど、これから会話を交わしていく内に少しずつ判明してくるのかもしれない。そもそも、まだ一度しか大川さんと会っていないのだから。
息を整えていると、暗い窓に反射する自分の姿が目に映る。走った所為で、髪の毛が跳ねていた。それを手櫛で直したけど、そういえば化粧を直すことすら忘れていたのに気付く。こういうところが梨花と決定的に違うところなんだなあ、と自分を情けなく思った。
こんなことでは、そりゃあ恋人なんて出来ないだろう。ただ実際にほしいのかと言われると、正直微妙なところだ。仕事は朝早いし、帰りは遅いことが多い。行く場所といえば『ピート』と本屋くらいで、後は家でのんびりとするのが殆ど。
華がないにも程があるけど、それでも今はこれが心地良く感じるから仕方がないのかもしれなかった。
前に合コンに誘ってきた先輩は、それ以上私を誘うことはなくなった。事情を聞かれたのであまり感情を込めず淡々と説明をしたら頭を下げられて、それ以来あまり親しく会話を交わすこともなくなってしまった。バツが悪かったのかもしれない。
窓ガラスに映る自分の姿。全体的に小さくて、女性らしさはあまりない。髪型も相まって、見る人に子供っぽい印象を与えそうだ。せめて化粧を梨花の様にばっちりすればいいのかもしれないけど、そこに毎朝一時間割くよりは、一時間早く出社して仕事を片付けたかった。
取捨選択した結果だから、これも仕方ないんだろう。
それに、勿論外見はいいに越したことはないけど、外見で寄ってくる男たちを相手して、本当に梨花は楽しいんだろうかと不思議に思っていたというのが正直なところだ。
だって、年を取って自分よりも若く美しい人が現れたら、外見だけで寄ってきた人は離れていくんじゃないかと思うのだ。
折角優しい思いやりのある彼氏がいるにも関わらず合コンに参加するのは、どうしてなんだろう。そこも理解出来ない。梨花に尽くしてくれると梨花がいつも話している彼氏では、満足出来ないんだろうか。
私だったら、複数の興味のない相手にちやほやされても、きっと戸惑うだけだ。大して仲良くない人に甘えるのは不得意だし、疲れないのかなあと思ってしまうあたり、私は相当枯れているのかもしれない。
私だったら、たったひとり、心から安堵出来る人の隣にさえいられれば満足出来ると思うから。
突然、ぽんと脳裏にマスターのはにかむ姿が浮かび上がった。
両親を亡くし、その頃に次第に疎遠になってしまった大学時代の友人。もっとうまく生きていければよかったのだろうけど、今更遅かった。そんな私が、今心から安堵出来る相手はマスターしかいない。
八つも年上だからか、恋愛感情のようなものを
だからこそ、私はマスターに寄りかかることが出来ているのかもしれなかった。
電車が、『ピート』のある駅に停車する。ドアがプシューッと音を立てて開くと、今日こそ大川さんに会えるといいなと思いつつ、改札に走って向かったのだった。
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