第5話 店名の由来
幸い、『オズの虹の国』は置いてあった。この書店は、品揃えがとてもよくて大好きだ。
浮かれた気分で、新刊のコーナーに立ち寄る。ハードカバーは好きだけど、如何せんかさばる。ワンルームのアパートに置くには困るので、買うのは専ら文庫本だった。
人気順に並べられたものの上位は大体が映画化やドラマ化をしているもので、今は気分じゃない。1位から順に下っていくと、残り一冊になっているものがあった。どうやらSFファンタジーの様だ。
作者名は、岩清水 流。随分と涼しそうな名前だけど、聞いたことはなかった。
手に取ろうと伸ばす。
すると、隣からスッと伸びてきた手と触れた。
「あっ」
咄嗟にパッと手を離すと、知らない間に横にいた男性を見上げる。スーツ姿の若い男性で、造作のいい涼しげな顔。全体的に柔らかい印象で、やや中性的な印象を与える人だった。
普段、ちょっと濃いめのマスターの顔に見慣れているからかもしれない。マスターが織田信長なら、この人は明智光秀といったところか。実際がどうだったかは知らないけれど。
「あ、すみません。――どうぞ」
思ったよりも子供っぽい笑顔で、男性が手で「どうぞ」の仕草をする。私はちょっと裏表紙にあるあらすじを見ようと思っただけだけど、この人はこの本が目的でここに来ているのかもしれない。
男性と同じ様に、手で「どうぞ」の仕草をした。
「え、いえいえ、あの、どうぞどうぞ」
「え、でも、申し訳ないですから。どうぞ」
男性が更に遠慮をする。どうしよう。本当に欲しがっているのなら、私はあらすじだけ読んでスッと戻すのはどうだろう。でも、それだと内容に興味が湧かなかったと思われてこの本を欲しがっていたらがっかりするんじゃないか。
そんなことを考えていたら、またつい言ってしまっていた。
「いえいえ、ちょっと気になっただけなので、どうぞどうぞ」
すると男性も、更に続ける。
「いえ、僕も残り一冊だから売れてるのかなって思って気になっただけで、だからどうぞ」
「あ、私もそうなんです。あらすじが気になっただけで、だからどうぞどうぞ」
互いに遠慮し合い、譲り合い続けた。だけど一向に埒が明かず、その場から立ち去るのも何だか悪い気がしてしまい。
「じゃあ……」
男性と私の声が重なり、文庫本に伸ばされた手と手が重なった。
「あ」
またもや声が重なる。
だけど今回はパッと手を離さず、代わりに互いに目線を合わせると、どちらからともなくクツクツと笑い始めた。
「はは、何だかコントしてるみたいですね」
男性が、肩を震わせながら笑う。
「へへ、そうですね。私もそう思っちゃいました」
笑顔で答えると、男性がようやく本を手に取った。
「何かもう、買わないといけない気になってきましたね」
「確かに。――あっ」
「はい?」
初対面の人にこんな提案はさすがに拙いだろうか。そうは思ったけど、この人ならきっと大丈夫じゃないか。ただの勘だけど、本当にそう思えたので提案することにした。
「あの、それ、折半しませんか?」
「――はい?」
男性の目が、大きく見開かれた。
◇
男性は、
二人並び、夜の歩道をのんびりと歩く。道幅が広いので、並んでも問題はなかった。
「へえ。ブックカフェなんてあるんですね。住んでる駅なのに、ちっとも知らなかったです」
「駅から少し離れた所にありますから。駅を出て右の方をずっと行くんですけど」
「あ、じゃあ僕の家とは反対方面です。だからか。いや、知らなくて損した気分ですよ」
普段はそこまでお喋りじゃない私だけど、大川さんと話しているとスラスラと言葉が出てくる。大川さんの雰囲気が柔らかく、喋り方も穏やかだからかもしれないな、と思った。
「漫画喫茶の本バージョンだと思ってもらえれば。あ、でも飲食代しか取らないから良心的ですよ」
「面白そう。本に囲まれるの、夢だったんですよ」
大川さんの目が輝く。きっと、私と一緒で本が大好きなんだと思うと、同志を見つけた様で嬉しい。
「私もなんです。マスターも夢だったって言ってましたよ」
「やっぱり本好きだと一度はしてみたいですよね」
いくら大川さんがいい人そうとはいっても、初対面の人と連絡先を交換するのはちょっと怖い。だけど、似たような本に興味を示す人なら悪い人じゃないんじゃないか。そんな大した根拠もない理屈を、頭の中で並べる。
でも、これじゃまるでナンパをしているみたいじゃないか。そう思うと、やっぱり軽々しく連絡先を尋ねるのは憚られた。
大川さんは、私が余裕をもって歩行者とすれ違える様、調整しながら歩いてくれている。私はひとりで歩いていてもよく人とぶつかってしまうけど、今はそれが全くなかった。さり気ない気遣いが出来るというのが、好感を持てている要因のひとつなのかもしれない。
「月島さんは、常連さんなんですか?」
「ええ、開店したての頃に、本が入っていた袋が破けて困っていたところをマスターに助けてもらって、それからもう四年通い詰めてるんです」
「へえ。じゃあ、月島さんともすれ違ったことがあったかもしれないですね」
大川さんは、終始にこやかだ。マスターよりは低いけど、それでも結構背が高い。自分が小さいからか、大きな人は威圧感を感じやすいけど、何故か大川さんからはそういったものを感じなかった。
「そうですね。本好きって、見た目だけじゃなかなか分からないから。アンテナがあるといいのに」
「はは、面白いこと言うな、月島さんって」
本から生まれた絆を切るのは惜しい。それと、ブックカフェ『ピート』に新たな常連が増えたら単純に嬉しい。
そんな気持ちから、彼を『ピート』に案内することにしたのだった。これなら連絡先を交換せずとも、本の貸し借りをあの場で行なうことが出来る。
「マスターがいまいち商売っ気がないから、あの場所に通い続けたい私としては勧誘出来る人はどんどんしていきたいんですよね」
「じゃあ僕は勧誘された口か。僕で第何号ですか?」
あくまでにこやかに、大川さんが尋ねた。こんなに会話が続く人なんて、マスターくらいかもしれない。でも、どちらかというとマスターは私の話を聞き出すタイプだ。
新鮮だな。そう思った。
「ビラを配ったのをカウントしないと、実は第一号です」
「え? そうなんです?」
こくりと頷き返す。
「……大事な場所だから、本当に本が好きな人だけ来て欲しくて。――あ、て言っても、私は店には全く関係のないただの客なんですけど」
あはは、と頭を掻いて笑うと、大川さんは小さく笑って頷いてくれた。
「分かりますよ。月島さんにとって、本当に大事な場所なんですよね」
「……ええ」
私はただの常連客で、あの店はあくまでマスターの希望に沿った形で運営されるべきものなのは分かっている。
客を選り好みして経営が悪化しても本末転倒だし、店に迷惑を掛けない人ならばどんな人でも大歓迎すべきなんだろう。
だけど、困った人を放っておけない心優しいマスターの周りには、同じ様に穏やかな人が集まってほしい。つい、そう思ってしまうのだ。
「あ、もうすぐです。あの猫の看板が目印で」
私が猫の釣り看板を指差すと、大川さんが小さく首を傾げた。
「猫がいるんですか?」
「いえ、そうじゃないんです」
隣の大川さんを見上げると、大川さんは不思議そうな薄い笑みを浮かべる。
「ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』って小説、ご存知ですか?」
「ああ、古典SFの」
やっぱりこの人は本好きなんだな。それが分かって、何だか嬉しかった。
「そこに出てくる猫の名前がピートっていうんです」
「あー。そんなのだったかも。夏への扉を探してて、主人公がドアをひとつひとつ開けてあげるってやつですよね」
そうそう、と二人で頷き合う。
「マスターは、カフェを訪れる人にそれぞれの物語の世界の扉を開いてあげたいって、そういう気持ちで『ピート』って名付けたんだそうです」
「へえ……素敵なマスターだね」
「へへ、はい」
余程感動したのか、看板を見つめ続ける大川さんの口調は少し砕けたものになっていた。
「ありがとうございましたー!」
マスターの声がする。店から、先程のサラリーマンたちが出て行くところだった。
「あ、マリちゃ……」
私に気付いたマスターが、上げかけていた手を止める。
「……どちら様?」
不審そうな声色で、大川さんに尋ねたのだった。
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