第34話 癒やしスポットに

 梨花に散々邪魔されはしたけど、私が梨花が望む反応を示さなかった所為か、それとも山田さんが会議が終わって戻ってきたからか、午後は比較的穏やかに仕事を片付けることが出来た。


 定時よりも一時間以上早く出社しているので、定時ぎりぎりで出社する梨花よりも先に帰ることが出来る。梨花がパントリーで山田さんや他の男性社員とはしゃいだ声で笑っている隙に、PCをロッカーに片付けて「お疲れ様でした!」と足早に出口へと向かった。


 集団に混じっていなかった片山さんや秋川さん、それに元々梨花のことを遠巻きにして見ている他の女性社員たちがにこやかに「お疲れ様でした」と返してくれる。


 これが本来普通の反応だよね、と何だかほっとした。明らかに梨花の周りの人たちは判断が狂ってきている。でもそれはきっと、梨花が散々好き放題やって、同期を追い詰め追い出した後でも会社に当たり前の顔をして残ることが出来ているからだろう。梨花はクビにならない。だったら梨花の周りにいた方がいい。そんな損得で判断している人も、中にはいるのかもしれなかった。


 エレベーターを待って梨花に捕まりたくない。非常階段のドアを開けると、ムワッとした湿気を伴う熱気が身体に纏わりつく。でも、私にとってこの空気は梨花がいる空間から切り離された証拠に思えた。


 足取りも軽やかに階段を駆け下り、『ピート』まで真っ直ぐ向かう。今から向かいますというメッセージを二人に送ると、マスターからはOKというスタンプが、大川さんからは「僕はたまには早退しちゃおう。すぐに行く」という返信が届いた。


 昔の友人とはほぼ繋がっておらず、職場の同僚とはあれ以降社内だけの関係に徹しているという大川さん。誰かとどこかに行くことも、私と行ったドライブインシアターが実に数年ぶりのことだったそうだ。


 具合が悪くなった時しか有給を使わないから、捨てまくってるんだよね。大川さんはそう言って、少し寂しそうに笑った。


 がんじがらめの大川さんを解放するには、現状維持じゃ駄目だ。でも、交渉の材料となる事実を見つけて交渉をする時に、ひとりで立ち向かわないでほしい。


 大川さんに比べたら大したことはないけど、私もそれなりに被害に遭ってきた。だから私だって交渉の場に立ち会う権利はある筈だ。


 まだそのことを伝えてなかったので、きちんと目を合わせて伝えたかった。私もいるよと信じてもらう為に。


 小走りで『ピート』に辿り着くと、ドクドクいう心臓を上から押さえて息を整えながら重厚な扉を開く。


「いらっしゃい! マリちゃん早いね!」


 時折見かける中年男性に給仕をしていたマスターが、にっこりして手を振った。その他に、二人連れのサラリーマンがふた組いる。早い時間にはお客さんが多いというマスターの話は本当だったらしい。


「走って来ちゃいました」

「カウンターにどうぞ」

「はい」


 カウンターの向こう側に回ったマスターが、冷えたおしぼりを私に手渡す。いつものベルガモットの香りを嗅ぐと、どこか焦っていた気持ちが落ち着いてくるのが分かった。


「マリちゃん、会社の方は大丈夫だったのか?」

「とりあえずは何とか凌いでいるんですけど、大川さんに関する嘘の話があまりにも多くて」

「嘘の話? 例えば?」


 私が昨日今日と梨花に吹き込まれた、本物の大川さんだったら絶対しないだろう話をいくつか伝えると、マスターは呆れ顔で口の端を歪ませる。


「なんていうか、凄いなあ。しかもそれを会社で堂々と話す辺りが」

「なんかもう、誰も彼女を止められない感じになってきちゃっていて」


 その感じじゃそうだろうな、とぼやきながらアイスコーヒーを準備するマスターを見ている内に、ふつふつと静かな怒りが沸いてきた。


「梨花は大川さんのこと、何にも分かってない。大川さんはそんな人じゃないのに」

「マリちゃんが大川さんのことを大して知らないって言ったからだろうな。知らないから悪印象を植え付けようとしてるんだろ。今のところは疑われてないんだろ?」


 どうなんだろう。時折探りを入れてきているところを見ると、私がとぼけていると考えている可能性もある。


「……分からない」


 私に大川さんの悪印象を植え付けて、梨花はどうしたいんだろう。マスターと私が付き合っている話になっているのにも関わらずそうするのは、この先大川さんとの距離が近くなるにつれ大川さんの味方が増えることを避けたいからかもしれない。


「とにかく、今の感じでボロを出さずに躱していくしかないな」

「彼女が明らかに嘘をついているっていう証拠があれば、取り巻きの人も信じるかもしれないですけどね」

「信じたところで、社長が庇ってたらどうしようもないだろ」

「うう……」


 あそこの仕事は好きだ。梨花以外の人間は、別に嫌いじゃない。梨花だって、私に構ってくる前までは私は何も思っていなかったのに。


 いっそのこと、梨花に従う素振りを見せたらいいのか。でもそうしたら、きっと私は自由じゃなくなる。ここでの癒やしの時間も、大川さんとの未来も、何もかもなくなってしまう。


 マスターが、カウンター越しに私の頭の上に手を置き、撫でた。


「焦っちゃ駄目だよ、マリちゃん」

「はい……」

「大局を見て小局をこなす。ひとつひとつやっていこう。な?」

「うん……」


 マスターの腕の先にある無精髭が生えた顔はいつも通り優しいもので、手のひらから伝わる暖かさに涙が出そうになる。


「――駄目」


 すぐ横から静かな声がしたかと思うと、マスターの手が私の頭から離れていった。スーツの手が、マスターの手首を掴んで引き剥がしたのだ。マスターが、苦笑しながら手を引っ込める。


「大川さん!」

「走ってきちゃった」


 肩で息をしている大川さんが、マスターから冷たいおしぼりを受け取ると、いつもの声色でマスターに言った。


「マスター、簡単に月島さんに触っちゃ駄目です」

「来るの早かったね」


 マスターは大川さんの言葉には答えなかったけど、大川さんは話を続ける。


「早退してきたんです。――マスター、僕は自分で思っていたよりも嫉妬深い人間みたいなので、見た瞬間相手がマスターだって忘れてしまいました」


 マスターが、手首をもう片方の手でさすりながら小さく笑った。


「遠慮ないんだもんな。びっくりしたよ」

「マスターと争いたくないので、だから触らないで下さい。ね?」


 大川さんもマスターも、いつも通りの穏やかな笑顔に見えたけど、二人の雰囲気が何だかピリピリしている様に感じるのは気の所為だろうか。


「……あまり長い時間は掛けられないと思うぞ。俺はマリちゃんの保護者のつもりだからな、マリちゃんが泣く様なことがあれば遠慮なく」

「……遠慮なく?」

「大川さんをマリちゃんから引き離すよ」


 笑顔のまま、マスターがそんなことを言い出した。大川さんは返答しないまま、椅子に腰掛ける。


「……月島さん、何かあったの?」


 大川さんが、私の顔を覗き込んだ。本人に本人の噂話をするのは如何なものかとは思ったけど、ここはきちんと伝えておくべきだろうと思い、言われたことを全部話す。


「勿論、そんなこと信じてないからね!」


 私がうんうんと頷いてみせると、大川さんは私の手を取り両手で包み、黙って聞いていたマスターをゆっくりと振り返った。


「マスター、だからですか」

「そう。分かってくれたかな」


 マスターが、今度は笑顔なしに答える。


「嘘だと分かっていても、これを毎日聞かされるマリちゃんのダメージは大きいだろ」

「はい。そうですね……」


 大川さんが私に向き直り、私の手の甲を親指で愛おしそうにさすり始めた。


「実は今――」


 だけど、大川さんが言い掛けた言葉は、続けられることはなかった。


「ちょっとマリモ! 私のけんちゃんに何してるの!」


 物凄い剣幕で掴みかかってきた梨花が、思い切り私を突き飛ばす。落ちそうな私を助けようとした大川さんの顔面を手のひらで押し返しているのが見えると、私はそのまま床に投げ出された。

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