第37話 悪意

 今日から立川さんはいない。考えるだけで頭が痛くなったけど、仕事をしない訳にはいかない。


 いつも通り早く出社すると、少し前までよく座っていた窓際の端の席に座った。


 パントリーで、秋川さんと一緒になる。この後、社長に立川さんの長期休暇の話をするらしい。梨花の話をどう持っていこうか考えているところだけど、業務に支障が出ていることは伝えるつもりだという。


 定時少し前に、山田さんと梨花がくっつきながら出社をしてきた。昨日の今日で、一体どういうことかと周りの社員は遠巻きに様子を窺っている。


 すると案の定、梨花と山田さんは私の元へとやってきて、昨日のことを謝罪し始めた。


「頼むから許してしてくれよ、な?」

「マリモお、お願いだよお」

「……仕事中なので」


 もう、関わり合いになりたくない。それに実際、本来山田さんに振られるべき仕事が他の社員から私に回ってくる様になり始めていて、確実に業務量は増えつつあった。


「……お前、梨花ちゃんがこんなに謝ってんのにさ、最低だな」


 山田さんが、突然凄み始める。ヒヤリとした瞬間。


「山田。社長が呼んでる。今すぐ社長室に行ってくれ」

「え」


 社長との話し合いが終わったのか、秋川さんが背後から山田さんに声を掛けた。


「真山さん、君はお喋りが多すぎるね。余裕があるなら、片山さんを手伝ってやってくれないか」


 冷たい笑顔でそう言うと、秋川さんが自分になびいてないことを知っている梨花は、苦々しい顔つきで片山さんの方に行ってくれた。


 秋川さんが、こそっと耳打ちする。


「立川さんの長期休暇の原因は伝えたから」


 あとは社長次第かな。秋川さんはそう言うと、席について仕事を始めた。


 暫くして、山田さんが不貞腐れた顔で戻ってきた。梨花を手招きすると、二人でコソコソと私の方を時折見ながら話している。


 梨花の、「嘘、酷いよお! 山田さんの所為じゃないのにい!」という甲高い声が、静かな執務エリアに響いた。



 ぐったりしながらも、とりあえずトラブルのお陰でと言ったら語弊があるけど、梨花が近寄らないので仕事は捗った。


 大川さんは今頃何をしてるだろう。寂しさで潰れそうになってないだろうか。


 ……違う。寂しくて悔しくて潰れそうなのは、私の方だ。


 会いたい。会えないのなら、せめて声が聞きたい。でもきっと、声を聞いたら泣いてしまう。弱音を吐いてしまう。


 だったら今は、マスターの言う通り連絡を取らない方がいいんだろうと思い、気持ちをぐっと抑え込んだ。


 梨花は、「今日は用事があるの! 山田さんごめんね!」と言って楽しそうに去って行った。てっきり相手をしてもらえると思っていたのだろう、山田さんの寂しそうな背中が見えたけど、同情する気にはなれなかった。


 梨花が退社して少しして、社長が颯爽と帰って行った。明日から買い付けの為暫く海外出張らしいから、今日は早く帰って支度をするんだろう。


 私も片付けたら、今日こそ『ピート』に行こう。


 目の前の大分減った未読メールを片付けるべく、集中し始めた。



 マスターに連絡すると、今日は来ても大丈夫だと返事が返ってきた。梨花は誰か別の男と会っているんだろう。


 念の為外から店の中を覗くと、マスターがにこやかに手を振ってくれた。大丈夫らしい。


 扉を開けて、今日こそ心躍る物語の世界に入り込みたい。


「マス……克也さん、こんばんは」

「ぶふっ……。いらっしゃい、マリちゃん」


 今日の様子を聞かれたので簡素に伝えると、マスターは濃いめの顔をしかめっ面にしつつブレンド珈琲を手渡してくれた。


「あの男、完全に手のひらの上で転がされてるなあ」


 好きな子に頼られると、つい強がっちゃうんだよな。知り顔でそう言ったマスターにお勧めの本を尋ねると、「あ、じゃあそんな男心満載のあれを」と言って探して持ってきてくれたのは、ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』だった。


 孤児のジュディのあしながおじさんへの手紙という形で進められていく物語。ジャービスという青年にアプローチされるけど、自分は孤児だからと遠慮してしまう。


 ジュディのひとり語りなのに、ジャービスのもどかしさと矜持の高さが伝わってきて、最後は思わずにんまりとしてしまう一作だった。


「マリちゃんが笑顔になってよかった」


 いつの間にか隣の席で頬杖をつきながら私を見ていたマスターが、微笑む。


「これ、続編もあるんだよ」

「へえ。じゃあ明日読もうかな」

「ああ。待ってるから」


 気分良く店を出て、久々にモヤモヤせずに寝れたのに。


 翌日私を待っていたのは、これまでと変わらぬ梨花のお喋りだった。


 しかも今度は、山田さんまで加わってきていて、全く仕事にならない。


 この人たちは、会社に何をしに来てるんだろう。そんな思いが滲み出てしまっていたんだろう。梨花は私の肩に肩をぴったりと付けると、言った。


「マリモってさ、最初から私のこと馬鹿にしてたよね」

「……そんなことないよ」


 これは本当だ。梨花のことは、そもそも気にもしていなかった。女子っぽい同期、そんな印象しかない。


 梨花は続ける。


「自分はあんたと違うって顔していい子ぶってさ。けんちゃんにもそうやって近付いたんでしょ?」


 そういうの、カマトトぶるって言うんだっけ? あざといよね、と鼻で笑う梨花。


 何を言いたいのか。私に絡んで何をしたいのか。梨花の動機が全く分からなくて、何も答えられなかった。


「あんたのその澄ました態度、大っ嫌いだったんだよね」


 ギョッとして思わず梨花を見ると、梨花と山田さんが冷ややかな笑みを浮かべながら私を見つめている。


「あんたの居場所がなくなるのは、けんちゃんの所為だから。恨むならけんちゃんにしてね」

「え……?」


 目を見開き聞き返すも、梨花はくるりと背をむけて山田さんに向き直ってしまった。


「山田さあん。お昼どこ行くー?」

「んー、あんまりお腹空いてないから、蕎麦とかかなあ」


 梨花が、わざとらしくはしゃぐ。


「ええー! 仕方ないなあ。合わせてあげる! じゃあ、夜は『ピート』で食べようよ! ホットサンド美味しそうだったんだあ!」


 またもやギョッとして、梨花の背中を思わず凝視する。梨花は実に楽しそうに私に一瞥をくれた後、完全に無視をして山田さんと話し続けた。


「あんないいお店を教えてくれたマリモに感謝だよお!」

「うんうん、そうだねー!」


 居場所が奪われていく。喪失感に、膝から崩れ落ちそうになった。


 二人が時間よりも数分早く外にお昼へと消えていくと、急いでマスターにメッセージを送る。


 今は稼ぎ時だから、これを読むのはランチタイムが終わってからだろうと分かってはいても、今送らずにはいられなかった。


 梨花と山田さんが今日『ピート』に行くつもりだと話していたこと。恨むなら大川さんを恨めと言われたこと。


 最後に、マスターも気を付けてと追記した。あまり反発すると、店の評判をわざと落とす様な嫌がらせをしかねないから。


 メッセージを送り終えると、自分もランチに行かなきゃと思い顔を上げる。


「う……」


 でも、ムカムカと吐き気が胃から上ってきてしまい、食欲が湧かない。蕎麦くらいならと一瞬思ったけど、あの二人は蕎麦屋に行くと言っていた筈だ。


 この隙に仕事を進めて、早く帰って夜ゆっくりしよう。


 よくないこととは知りつつも、私は気持ち的に楽な方を選択した。

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