第42話 未来への扉
梨花は、自己都合で退職していった。
山田さんは、これまでのことを私と立川さんに謝罪した。言いたいことは色々あったけど、立川さんの立場を考えて、私は水に流すことにした。恨みなんてない方が、いいに決まってる。
片山さんはというと、きちんと引き継ぎ書を作り、目下急いで採用した派遣の女性と戻ってきた立川さんに対し、引き継ぎの真っ最中だ。
退職予定日は、今月末。でも、田舎に帰る前に色んな人に謝らないといけないからと、引き継ぎが終わり次第有給を取得することになっていた。
「俺が出張に行ってる間に月島さんが退職したって聞いたのに戻ってきてもまだいるし、代わりに梨花ちゃんが辞めちゃってるしさあ」
緩い笑みを浮かべた辺見さんが、引き継ぎ真っ最中の片山さんの肩に腕を乗せる。
「仕事の邪魔です」
片山さんはそう言うと、ペシッと辺見さんの腕を弾いた。
梨花の取り巻きのひとりである辺見さんは、出張で不在中に梨花がいなくなり、悲しいんだろうか。そう思っていると。
「大人しそうな月島さんの下剋上、見たかったなあ」
どうやら違うらしい。
「やめて下さい、そんなんじゃないですから」
モニターを見つめ続けながら答えると、辺見さんは「ええーつまんない」と伸びをした。自由な人だ。
「しかもさあ、梨花ちゃんいなくなったなら俺にもようやくチャンス到来かと思ったのに、よりによって俺の片山くんとなんて酷いよなあ」
「……は?」
思わず顔を上げると、片山さんが冷めた口調のままバッサリと切る。
「辺見さんのものになった記憶はないです」
「ちえーっ」
片山さんの隣の派遣の女性が、え? え? という顔で二人を見比べている。私も同じことをしたい気分だった。
道理でよく一緒にいた訳だ。梨花に特別甘い感じではなかったけど、そういうことなら納得だった。
「で、月島さんの彼氏っていい男なんでしょ? 俺に紹介してみない?」
「お断りします」
即答すると、辺見さんが背もたれに仰け反って「どこもかしこも羨ましいぞー!」と言う。
そのあまりにも明け透けな言葉に、私たちは可笑しくなって笑った。
◇
梨花は、片山さんに連れられて『ピート』に来ると、マスター、大川さんと私の三人に向かって泣きながら謝罪をした。
「マリモ、私ずっと、マリモが羨ましかったの」
梨花がぼろぼろと涙を流しながら言う。
「マリモは怒らないし、優しいし、仕事も出来るし、私が持ってないものを皆持っていて、だから仲良くなりたかったのは本当だったの」
だけど、もう女の子とどう接していいか分からなくなってて、結局は意地悪ばかりしちゃった。
そう言う梨花の化粧は以前に比べて薄く、でもそれが前よりも柔らかい印象を与えて、純粋に綺麗だと思えた。
優柔不断で争いが苦手な私のことをそう捉えていたのは意外だったけど、私も梨花が仲良くなりたいと思っていたとは露にも思わなかったから同じことなんだろう。
「ねえ、図々しいお願いなんだけど、もしよかったら私と今度こそお友達に……」
「駄目。無理。却下」
ハンカチを目に当てながら私を熱い目で見つめる梨花に即答したのは、大川さんだった。
「じゃ、じゃあせめて二人の結婚式には?」
「け、結婚式? え、ま、まあ……」
「まだ結婚は早いんじゃない? これから同棲するから、そこで合わないとかも出てくるかもしれないし」
今度はマスターが、梨花にそう返す。自称私の保護者だけあって、マスターの大川さんに対する採点は手厳しいものがあった。
大川さんが、笑顔でマスターに言い切る。
「大事にしますから、ご心配なく」
「本当かなあ、大丈夫かなあ心配だなあ」
「ちょっとマスター、大川さんも」
笑顔で睨み合いを始めてしまった二人を止めようとすると、すっかり本性を曝け出す様になった片山さんが笑顔でさらりと言ってのけた。
「めんどくさ」
驚きのひと言に私たちが唖然としていると、片山さんは梨花に笑顔のまま声を掛ける。
「ほら、梨花。頑張っていい野菜を作ったら、それを送ってあげればいいじゃないか」
「う、うん……!」
すっかり素直になった梨花が、嬉しそうに頷いた。片山さんが以前会社で「調教って楽しいよね」と言っていたことは、忘れようと思う。
「じゃあ、本当にご迷惑お掛けしました」
「本当だよ」
「もうするなよ」
マスターと大川さんが口々に言うと、片山さんは梨花と一緒に深々と頭を下げ、帰って行った。
これからまだ何人にも、謝罪に行くことになっているそうだ。会うことを拒否している人も中にはやはりいて、そこがクリア出来ないと田舎行きも先延ばしになる。
謝罪だけでは済まない人も勿論いるだろうし、訴える準備をしていた人とはまずは和解の意思があることを伝えなければならない。
早くしないと母さんが怖いからね、そう言って片山さんが梨花を脅すと、それでも自分にようやくちゃんとした母親が出来ると喜んでいる梨花は、誠心誠意で謝ることを誓ったんだそうだ。
道のりは長そうだけど、この道をしっかりと歩き通すことで梨花の妬み嫉みが浄化出来るなら付き合うよ。出社最終日に小さく笑いながらそう言った片山さんの覚悟を、信じようと思えた。
二人が店の外に消えた後、大川さんがふう、と肩の力を抜く。
「さあ、用事も終わったし、片付けに戻ろうか――マリ」
「は、はい!」
大川さんは、私に結婚を前提としたお付き合いを申し込んだ後、もう片時も離れたくないと即座に同棲を申し出た。
そして、マスターが下の名前で呼んでいるのに恋人が苗字だなんておかしいと、その日から私の下の名を呼び始めたのだ。
私は呼び捨てで呼ぶ勇気がなくて、健斗さんと呼んでいる。まだ時折大川さんと呼んでしまって、軽いキスと共に訂正させられるけど。
「終わったら飯食いに来いよ。引越し祝い、奮発するから」
「やった! じゃあ頑張らないと」
「じゃあマスター、後で」
「おう」
笑顔でマスターに手を振ると、大川さん――いや、健斗さんと手を繋ぎながら、私が転がり込むことになった健斗さんのマンションへと向かう。
孤独で埋められていた私の心は、今や幸せでパンパンに膨れ上がっている。大変なこともあったけど、健斗さんに出会えて、健斗さんに『ピート』への扉を開いてあげられて本当によかったと思う。
そしてこの先は、二人で手を取り合いながらひとつひとつ未知への扉を開いていくのだ。
扉の向こうに、まだ見たことのない景色が広がっている期待で胸を一杯にして。
◇
ブックカフェ『ピート』のマスターである堀田克也は、二人の背中を見送ると暫しその場で佇んでいた。
上げていた手を下ろし小さな息を吐くと、買ったままで本棚へ振り分けていなかった文庫本の整理を再開する。
マリが居心地よく過ごせる様にと克也が用意していた安寧の場が、真山梨花の登場によって奪われてしまったのあの日。
居場所を奪ってくる相手すら傷付けてしまうことを恐れていた大川健斗に対し、克也は喝を入れた。
同情する相手を間違えるんじゃない。本当に守りたい相手は誰だと。
健斗の優しさは、相手をつけ上がらせるだけの臆病で中途半端な優しさであって、それでは梨花もマリも健斗も誰も救えない。自分の所業で相手が傷つくことを恐れている限り、マリを守ることは出来ない。
覚悟を決めろ。その覚悟がないなら、自分がマリを守るからもう二度と近付かないでくれ。そう発破をかけた。
それを告げた時、健斗は「やっぱりそうなんですか。でもじゃあ何でこれまで何も」と尋ねてきた。
健斗は、いい奴だ。少し優しすぎるきらいがあるけど、マリが欲していた温もりを与えるには、あれくらい真っ直ぐに愛情を伝えられる方がいい。
健斗は、孤独を知っているから。しがないブックカフェに縋るしかないほどに深い孤独を抱えていたマリの孤独を埋めてあげられるのは、同じくらい深い孤独を知っている健斗が最適だと思ったから。
だけど、最大の理由はそれじゃなかった。克也も、マリの孤独を埋めてあげられるほど愛してやれる自信は十分にあった。
でも、八年の差はどうやっても縮まることはない。『夏への扉』で主人公がコールドスリープをして少女が大人になるのを待てた様な技術は存在しないし、そうこうしている間にも克也もマリも年を取る。
一年、いや、一分一秒でもいい。マリよりも長く生きていられるなら、克也はマリを誰かに託そうとはしなかっただろう。
八歳差という事実が、克也に二の足を踏ませた。それでも諦め切れなくて迷っている間に、マリはマリと同い年の健斗と出会い、――そして互いに惹かれ合った。
だから伝えた。「大川くんの方が長生きする確率が高いからだよ」と。
「あーあ。失恋しちまったなあ」
声に出して言うと、余計に切ない。健斗の代わりに彼氏役を買って出た時は、正直言って愉快だった。克也さんとマリに呼ばれて、嬉しくて、その後虚しくなった。
「よっと」
カウンターに残っていた文庫本を手に取る。マリと健斗が出会うきっかけになった、
血湧き肉躍る感じではなく、作者名の通り涼やかで爽やかな後味だということで、マスターも読んでみてとマリに言われて借りた。
手に取り、最初のページをめくる。すると丁度その時、店の扉が開き、ハスキーボイスが聞こえてきた。
「あの……営業してますか」
「やってますよ! どうぞどうぞ!」
入ってきたのは、随分と顔色の悪い人物だ。目の下のクマが凄くて、透ける様な白い肌が余計にそれを引き立てている。だぼっとした黒いTシャツとゆったりとしたカーゴパンツを履いているので分かりにくいが、随分と細い男だ。
顔の造作は悪くないけど、若干女顔だからか幼く見える。長い黒髪を後ろにひとつで束ねており、束が細いからかヘアゴムが今にも落ちそうになっていた。
幾つくらいなのかな。三十手前くらいかな。そこまでを、一瞬見ただけで考えた。
客の顔を覚えるのが得意なのは、ついしてしまうこの人間観察のお陰かもしれなかった。
「お好きな席にどうぞ」
そう声を掛けると、男は口をポカンと開けたまま辺りを見回す。大丈夫かこいつ。そう思いつつも、笑顔を浮かべ続けた。
男の視線が、カウンターの上に置きっ放しにしていた文庫本を捉える。途端、死にかけみたいな顔をしていた男の顔に、何とも可愛らしい笑顔が浮かんだ。
「あ……っ! 私の本!」
「――え?」
疑問は二点ある。私の、というのはどういう意味か。それと、
「こ、これ、どうでした? 楽しんでいただけましたか!」
男が、――いや、よく見ると若干だけど胸の膨らみがある。化粧っ気がなくて気付かなかったけど、どうやらこの人は女性の様だ。
興奮気味に白い頬を紅潮させると、克也を期待の眼差しで見つめる。それがやけに眩しく感じて、克也は目線を逸らしながら笑顔で答えた。
「ごめんなさい、これから読もうと思ってて、まだなんですよ」
「あ……そうですか」
途端にしょんぼりと項垂れる彼女、石清水流にカウンターの席を勧めると、彼女は目線を下に落としたまま、素直に座る。いつもマリが座っていた席に。
「私、これの後ちっとも書けなくなっちゃって。感想を聞けたらなって思ってたんですけど、皆いいことしか言ってくれなくて……」
自信がなくなって、何がよくて何がいけなかったのかが分からなくなって、思考と共に身体も彷徨っていたところにこのブックカフェを見つけ、惹かれる様に入ってきたのだという。
「お、やっぱりこれを書いた作者さんですか」
克也が尋ねると、彼女はこくりと小さく頷いた。
泣きそうな表情で、今にも壊れてしまいそうだ。
四年前、マリと出会った時のことを唐突に鮮明に思い出した。
「私の作品で、誰かを笑顔に出来るのかなって、自身喪失中です……」
克也の心に、あの時感じたものと同じ感情が少しずつ溢れてくる。
誰かの心に、未来への扉を開いてあげたいと。
「――では、ひとつ物語をお話ししましょうか」
石清水流の本を手に取り、パラパラとめくる。
「物語……ですか?」
流が、怪訝そうに顔を上げた。でも、少し期待が感じられる、そんな表情だ。
「はい。石清水さんの作品がなければきっと紡がれることはなかった、とある男女のお話です」
「私の……」
流の目に、力が宿る。克也はそれを見て小さく微笑むと、一冊の本から始まった恋の話を語り始めたのだった。
扉の先のブックカフェ ミドリ @M_I_D_O_R_I
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