第3話 マリの過去
マスター特製のホットサンドを齧りながら、本を読み進める。もうあとちょっとで終わるところだった。
手の中のホットサンドがとうとう全てなくなってしまい、もぐもぐしながらおしぼりを手探りで探る。
すると、おしぼりがぽんと手の上に乗ってきた。はっとして顔を上げる。呆れたような笑顔のマスターが、隣の椅子に座って肘をついてこちらを見ているじゃないか。いつからそこにいたんだろう。
「毎回、本当集中力凄いよな」
「やだ、もしかしてずっと見てました?」
店内を見渡すと、私以外の唯一のお客さんだった常連のお婆ちゃんの姿がない。テーブルの上も綺麗に片付けられていた。全く気付かなかった。かなり集中していたらしい。
「マリちゃんの百面相が面白いからさ」
「え? また顔に出てました? 嫌だなあ」
本を読んでいる間、感情移入をした登場人物に同調して色んな顔をするのが癖のようけど、自分では気付かないから止めようがなかった。恥ずかしい。
「思い切り出てたよ」
はは、と笑うと途端に少年みたいに幼く見える、大人っぽいマスター。以前私は、この人に救われた。きっと今も、現在進行形で。
マスターにとっては私はただの常連のひとりなんだろう。だけど、私にとってマスターは兄の様に頼りにしている存在だった。
にこにこと眺められていると照れくさくて、本で顔を隠す。
「あとちょっとで終わるんで」
「はいはい、分かりました」
マスターは立ち上がりながら私の頭をぽんと軽く叩いていくと、それが何だか親愛の情を表しているみたいでこそばゆい。
残り数ページを読み切ると、栞をテーブルに置いて本を戻しに立つ。確かこれの次は、『オズの虹の国』だ。だけど、シリーズが並べられているそこにそれが――ない。
すると、カウンターに戻ったマスターが手を合わせながら謝ってきた。
「そうだった! その次のやつ、この間お客さんが派手に珈琲ぶち撒けちゃって、発注しようと思って忘れてたんだ!」
「えー! そうなんですか。残念だなあ……」
飲食しながら読むので、当然そういったことはある。分かってはいるけど、まさか丁度読もうと思っていた分がそんなことになっているとは。
ちょっと悲しい。
よほど私が残念そうな顔をしていたのか、マスターが「あっ」と言って必死な様子で提案を始める。
「本屋に走って買ってくるよ! ちょっと待っててくれたらすぐだから!」
「え? いやでも悪いし……」
読みたいは読みたいけど、マスターを走らせてまで今すぐ読みたい訳じゃない。
バタバタと財布を持ってきたマスターが、腰に巻いた丈が長いソムリエエプロンを取る。すらっとした長身だから、丈の長い物がよく似合うのだ。本当に羨ましい。
マスターが、大人な笑みを浮かべながら本棚の前にいる私の真ん前に立つ。見上げないといけないこの身長差。せめてあと十センチ欲しかったな、と首を反らしながらマスターを見上げた。
「本がないから来てくれないじゃ嫌だもんな」
そう言って、また頭をぽんと撫でられる。
「え? いや、そんな薄情なことは」
「マリちゃんの癒やしスポットなんだろ? だったら欲しい物は用意しておかないとな」
マスターがあはは、と笑いかけてきた。この笑顔に何度救われたことか。
思わず笑みを返すと、マスターの目が優しく細められる。
「待ってて。な?」
「わ、分かりまし……」
た、と言おうとしたところで、店の扉が開かれた。
マスターがパッと離れる。
「二人なんだけど!」
「あ、はい、いらっしゃいませ!」
少し酒が入っているのか、赤い顔をした三十代と思われるサラリーマンの二人組が入店してきた。ソファーにどかっと座り、メニューを見始める。
本を読みに来た訳じゃないらしい。カフェという文字を見て入ってきたのだろう。
マスターがおしぼりとお冷を持っていき、渡している。これは本を買いに行っている場合じゃなさそうだ。
だけど、マスターの先程の言葉が温かかったから。
カウンターの向こうに戻り、済まなそうに片手でぺこぺこ謝る仕草をするマスターの元に小走りで近付く。
「私が買ってきます! 新刊も見てみたかったし!」
「え? でも」
今度はマスターが遠慮を始めるのが、何だか可笑しい。
「戻ってきますから」
へへ、と笑うと、マスターの彫りの深い顔がくしゃりと笑顔になった。
「じゃあ、お願いしちゃおう」
そう言って手渡された千円札を、畳んで手に握り締める。自分のショルダーバッグを引っ掴むと、「いってきます!」と店を出て行った。
本屋は、駅前に大型書店が一店舗ある。会社の隣駅にわざわざ降りたキッカケが、この本屋の存在にあった。
私の家は、会社がある駅から終点まで乗り、そこから相互乗り入れをしている別の電車に乗ってふた駅のところにある。
大学が近くにあり、学生が多く住むちょっと下町感漂う町だ。
海外から戻り、帰国子女枠で都内の割と有名な大学に進学した私は、それなりにキャンパスライフを楽しんでいた。
そんなある年の夏。父と母が、海外旅行に出かけた。私は試験があるので、誘われたけど行けなかった。
試験を受けないで付いて行ったら、何かが変わったんだろうか。今でも考える。
両親は、車で成田に向かった。だけど、二人が乗る車は成田に着くことはなかった。
トラックの居眠り運転とのことだった。
後日、運転手から分厚い手紙が送られてきた。それは終始、自己弁護を行なっているものだった。
子供が沢山いて、無理を押して働いていたと。疲れてつい寝てしまって、とんでもないことをしたと今でも反省をしていると。今後は事故を起こさぬよう、別の仕事を探すと。だからどうか許してほしい、どうかどうか――。
その中には、ひと言も私から両親を奪ったことに対する気遣いの言葉はなかった。
そして私は一人になったのだ。
海外から帰ってきてまだ三年ほどしか経っておらず、これから理想の家を建てようかと話していたところだった。
少し郊外でも、庭付きの戸建てがいいという父。芝生はお父さんが面倒を見てねと笑う母。夜道が暗いとマリが怖いだろうから、あんまりど田舎は嫌よ――。
夢を語った時間は、夢のまま終わってしまった。
家族向けの賃貸は高い。住んで三年しか経っていなかったので、荷物は全体的に少なめではあったけど、それでも多い。
その為、大家に頼み込んで、遺品整理が終わるまでは住まわせてもらえることになった。それからは、大学から帰ると遺品整理。就職活動も始めないといけない時期に差し掛かり、とにかく毎日必死に動き続けた。
保険金があったから家賃は払えたけど、両親が残してくれたお金を怠惰な時間に落としたくはない。
もうこれ以上は整理出来ない大切な思い出が詰まった荷物をクリアケースに詰めると、それらをトランクルームに預けた。月に一万円もするけど、それでもこれ以上大切な想いを捨てることはしたくなかった。だから、必要経費だと思うことにした。
四年生の内に、今住んでいるアパートに引っ越した。主に首都圏に店舗展開する輸入雑貨の会社に就職が決まり、その報告を墓前で行なうと、その時吹いた風の中に両親の手のぬくもりを感じた気がした。
父方の祖父母はもうなく、母方の祖父母も他界して数年が経つ。母方のおばがひとり存命だけど、イギリス人と結婚してイギリスに住んでいた。
私のことを心配して時折連絡は寄越すものの、いざという時に頼れる距離にない。
孤独だと、唐突に思った。
その時味わった、世界に自分ひとりしかいないという気分は、言葉では言い表せないほどひんやりとしたものだった。
卒業式は、袴は着なかった。祝ってくれる親族もおらず、気を使う友人たちに笑顔を見せて、就職活動の時に着ていたスーツで参加した卒業式の後は帰った。
四月から入社する会社の周りを散策してみよう。途中でそう思い立ち、会社がある駅に降り立った。スーツを着た人の中にいると、自分も社会人になった気分になれた。
だけど、高揚した気分はすぐに萎んだ。
オフィスビルが立ち並ぶエリア。歩く人の速度は速く、目的がなくふらついているのは自分だけだと思うと、散策する気分があっという間に失せる。
これだけ大きい駅なら本屋もあるかな。そう思い、本屋を検索すると隣の駅前に大型書店があることを知り、電車でこの町に降り立ったのだった。
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