第26話 動機

「――それからは、毎日どこを歩いていても見られてる気がして、気が休まならくなった」


 覇気のない声で話す大川さん。それでも私と目が合うと、目が優しい弧を描く。


「Mが連絡を寄越す頻度は頻繁じゃなくて、どういうタイミングで僕のところに連絡をしてきているのかと思って……探りを入れたことがあるんだ」

「うん」


 忘れた頃に、突如目の前に現れる。毎日追いかけられなくとも、これでは気の休まる時がないだろう。


「だから、最近あの年上の人と会ってないのって聞いたんだ。そうしたら、今日は奥さんの誕生会やってんだよ、浮気されてんのも知らずに馬鹿だよねって言ってて」


 ぬるくなってしまったビールの残りを飲み干すと、大川さんは悲しそうに笑った。


「ああ、Mは自分が一番じゃないことを認識した時に、僕が幸せになってないかを確認しにくるんだな、と思ったんだ」

「大川さん……」


 何が彼女をそうさせているんだろう。大川さんにこうまでして拘る理由が、きっと何かある筈だ。


 だけど大川さんには、それが何かが分からない。Mの動機が分からないから、こうも振り回されてしまっているんじゃないか。


 大川さんは、触れてはならないMの禁忌に触れてしまったんだ。それがどこにあるのか、何なのか分からないまま。


 少し疲れた様子の大川さんが、足を崩す。


「別の日に、帰るとマンションの前で待ち伏せされてたんだ。多分、気付かない間に跡をつけられて、場所を知られたんだと思う……」


 大川さんの手を繋いだまま、私は次の言葉を待った。本当なら、こんな辛そうな話は今すぐにでもやめていいよと言ってあげたい。


 だけど、ここで吐き出さなければ、きっと大川さんは不安を抱えたままMと対峙することになる。


 ようやく再び人と交わりたいという気持ちになるきっかけを作った私を、きっとMはどうやってか見つけ出す。そうしたら、また同じことが繰り返される。


 それが怖くて、でももう奪われたくなかったから、だから大川さんは私に全てを話す決意をしたんだろう。


 このことを聞いて、恐ろしくなって離れていく人間だって中にはいるに違いない。大川さんのことを情けないと判断する人だって、もしかしたらいるかもしれない。


 だけど、大川さんは私を信じてくれた。なら今度は私が信じてあげなきゃ、大川さんが振り絞って出した勇気は、きっともう二度と湧いては来ないだろうから。


 奪い続けられる恐怖。好きになった相手が離れていく悲しみ。全てを諦め、いつか時が解決してくれることを祈るしか出来なかった大川さんは、大きな一歩を踏み出そうとしている。


 だから、きちんと最後まで聞くのが今の私に出来ることだ。大川さんが、私なら事情を知っているから大丈夫だと安心出来る様に。


「大川さん、頑張って」

「月島さん……」

「大丈夫だから」

「うん……」


 大川さんの優しい目尻が、少し濡れている様に見えた。


「……部屋の番号は絶対に知られちゃ駄目だと思って、外に連れ出したんだ。Mは見たことがないくらいベロベロに酔っ払っていて、ひとりでブツブツずっと喋っていた」


 大川さんの目に、少しずつ力が戻る。


「Mは、『そんなこともお母さんは教えてくれないのって、知らねえよこっちは母親の顔すら殆ど覚えてねえよ』って言ってたんだ」

「え……?」


 思わず目を見張る。だって、そもそも母親にお金を稼いでこいと言われて援交しようとしたんじゃなかったか。


 私の驚きを理解してくれたんだろう、大川さんは深く頷いた。


「だから、そのままうん、うん、て相槌だけ打ったら、僕だって分かってなかったのか、Mが言ったんだ」

「なんて……?」

「母親は、Mみたいな父親似のブスなんか自分の子だって思いたくない、ついてくるなって言ってMを捨てた。Mが母親に似て美人だったら一緒に連れていってくれた筈なのに……て」

  

 その言葉が本当ならば、Mの母親は家を出て行ってしまったのだ。顔も覚えていないのは、Mが幼かった頃に離婚したからだろうか。


 だけど、だとすると。


「僕は、もう何が本当か分からなくなって、これ以上どうしていいか分からなくなって、……人との関わりを全て最低限に抑えた」


 大川さんが、目を伏せる。今にも泣きそうなその瞳に浮かび上がっているのは、絶望に近い悲しみに見えた。


 寂しい。孤独だ。身体の奥底からそう叫んでいる様に見えて、大川さんの身体を全部包み込んであげられたらと願う。


「そこからは、時折思い出した時に連絡を寄越してきたり、マンションの前で待ち伏せされたり。僕が誰とも付き合ってなくて友人とも会ってないことを確認してたんだと思う」


 大川さんから、親しい人を片っ端から奪って追い詰める。ここまでやれば、それが目的だったことは明白だ。だけど、何でそんなことをやり続けるのか。


 突然、視界が開けた様な感覚に襲われた。今のだ。今さっきのが、最大のヒントだったんだ。


「そうか……! そうだったのかも……!」

「え?」


 大川さんの手を両手で握り、身を乗り出した。大川さんはキョトンとしている。


「Mは、大川さんにはちゃんとお母さんがいるのに、お母さんの束縛から逃げたから許せなかったんじゃないのかな」

「え? どういうこと?」

「Mは、お母さんと一緒に連れて行ってもらいたかった。だけど捨てられた。でも、大川さんはお母さんが敷いたレールから逃れる為に家を出た」

「うん……?」


 どう言えばいいんだろう。こういう時、ちゃんとテキパキ話せない自分がもどかしい。


「ええと……大川さんは励ますつもりで自分のことを話したけど、Mのものは咄嗟についた嘘だった。自分はお母さんが恋しいのに、それを自分から手放した大川さんを逆恨みしたんじゃないかって」

「逆恨み……」


 大川さんが、呆然としながら呟く。


「自分は手に入れられないのに、大川さんは自分からわざと手放した。なのに同情して励まされて、もう最初の言い訳が嘘だったって言えなくて……。先に大川さんが幸せになるのを、どうしても許せなくなったのかもと思ったんだ」


 Mは、自分を捨てた母をずっと恨んでいた。父親似の顔の所為で捨てられたと思った。


 本当のことは、Mの母親にしか分からない。だけど、離婚するくらいだ。似た顔を見たくなくて、ついきつい言葉を吐いてしまったんじゃないか。若しくは、連れていけない別の理由があったのかもしれない。


 Mは、母親の言葉をその通りの意味と受け取った。


 悪いのは、醜い自分の顔の所為だと。


 進学塾に通うくらいだ。父親はきちんとMのことを考え、お金を出してきたんだろう。だけど、Mは整形して綺麗になりたいという願いを父親に訴えることは出来なかったのかもしれない。


 そして選んだ方法が、援交をして整形費用を稼ぐことだったんじゃないか。


 その社長という援交の相手が、一体どういうつもりでお金を出し続けたのかは分からない。もしかしたら、マイフェアレディでもやっているつもりだったのか。


 大学に進学した後は、きっとMは大川さんとは関わる気はなかった。だけど、偶然出会ってしまった。その瞬間、押し込んで抑えていたMのドロドロとした欲望が、噴き出してしまったんじゃないか。


 嫉妬。羨望。自由に羽ばたこうとしている様に見える大川さんを見て、引きずり落としてやらなければ気が済まなくなった。


 Mが先に幸せを掴んでからじゃないと、そんなの不公平だと。


 ――だとしたら、なんて悲しいんだろう。


 こんなこと、誰ひとり幸せになんかならない。


 大川さんは、弟と自分を救ってくれた親子の様になりたいと願った。でもその願いは、歪んで伝わってしまったのだ。


「大川さん、私はこれから先どんなことがあっても、大川さんを一番に信じる」


 膝で立つと、大川さんは私を見上げる形になった。


 人を救いたいなんて、きっとただのエゴなんだろう。だけど私は、この人を何としてでも救いたいと願うから。


「だから大川さん。私が大川さんを信じ続けることを、大川さんに信じてもらいたい」

「……月島さん……」


 深く昏い孤独の底にいた大川さんに大丈夫だよと伝える為、私は大川さんの頭を腕の中に引き寄せる。


 一瞬固まった大川さんが、次第に力を抜いていくのが感じられた。


「信じて、大川さん」


 大川さんのサラサラの髪の毛に頬を寄せながら、私は繰り返し信じてと訴え続けた。

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