第25話 逃げても

 卒業間際になって、大川さんはお世話になったゼミの教授に挨拶をしに大学を訪れた。そこで、明るさなど欠片もない表情の、痩せ細った顔色の悪い男に呼び止められる。


 誰だろう。一瞬そう思ったけど、すぐに思い出した。一年生の時にMと付き合いだした友人だ。


 友人は身体の中からうみを絞り出すかの様に、突如として語り始めた。


 あの女、俺のバイトで稼いだ金だけじゃ足りないとかほざいて、消費者金融にまで手を出させやがった。


 借金が膨れ上がって、親に相談した時にはもう返せる額じゃなくなっちまっていた。


 全部あの女の為だったのに、自己破産して金が借りられない様になった途端、別の男に乗り換えやがった、と。


 でも、あいつは俺以外にも男がいた。俺、知ってるんだ。金持ちそうなおっさんとホテルに行ってたこと。


 そう言われた瞬間、大川さんの脳裏に二度Mと一緒にいるところを見かけた中年男性の姿が映し出された。当時はスーツの上等も下等もよく分からなかったけど、今思えばかなり上等な仕立てのスーツを来ていたあの男。きっとあいつだと、大川さんは考えた。


 男と付き合う理由が金目的なら、友人から絞れるだけ絞り尽くしたMだ。金持ちの中年男を逃がす筈がない。


 Mとはいつ別れたのかと友人に尋ねると、自己破産をした後だから最近だと返事がある。そうなると、Mは最低でも三股掛けていたという訳だ。


「大川、女は怖い……! 俺もう一生女は御免だ……!」


 就職活動なんてしている心の余裕はなく、このまま卒業すると無職になる。その為、大学に休学届を出しに来たという。


 お前も女には気を付けろよ。友人の忠告を受け、大川さんは何と答えるべきか迷い。


 ただ小さく頷くに留めた。



 新卒として会社で働き始めた大川さんは、数年ぶりに味わう自由を満喫していた。


 あまり快活な性格ではないからか、最初から内勤の生産管理に配属されたのは幸運だったと大川さんは笑う。


 営業だと、とにかく外回りが多い。来客も多く、いつ何時なんどきMとすれ違ってしまうか分からない危険があった。


 だけど、内勤だと殆ど会社の外に出ることはない。ランチも社食や自作の弁当を持参し、とにかく日中は社屋の外に出ない様に気を付けていればよかったからだ。


 新卒としての雰囲気もやや薄れ始めた頃、読書同好会の例の友人から連絡があった。


 Mと付き合い始めてから一気に疎遠になってしまったことを侘びた友人は、これまでの間にあったことを話し始めた。


 卒業してすぐ、突然Mから別れを告げられたのだという。その二日前、卒業旅行で全額自分が払って高級旅館に泊まって仲睦まじく過ごしたばかりだったというのに。


 それまでろくに就職活動もしていなかったので大丈夫なのか心配していた友人は、就職はどうなったかと聞いた。すると、コネで内定が出たんだと嬉しそうな返事が返ってきたという。


 美人だと得だな。そう笑い合ったのは、別れ話のたった二日前の話だ。友人が信じられないのも、仕方がなかった。


 だけど、突然機嫌が悪くなって怒り出すのはいつものことだ。だから、何か嫌なことでもあって不貞腐れているんだろう。そう思い、落ち着いたらもう一度話そうとその場は流した。


 だけど、一向にその後連絡が来ない。まさかな、そう思って連絡をすると、Mの態度はガラリと変わっていた。


 Mは、あざ笑いながら言ったそうだ。「もうあんたといるメリットは何にもないんだよ。今メリットがあるのは、会社の社長をやってる彼。分かる?」と。


 メリットってなんだよ。悲しそうな笑い声が、電話を通して伝わってきた。


 メリット、デメリットで恋愛をしてこなかった友人には、Mが言っていることが理解出来なかったに違いない。


 でも、大川さんにはすぐに分かった。


 ボロボロになるまで金を搾り取ってから捨てられたあの友人は、自己破産して金が供給出来なくなったから切られた。


 高校時代から援交をしていると思われる年上の男性は、どうやら社長らしい。そこで大川さんは気付く。……もしかして、就職のコネとはその社長のことではないのか、と。


 最後に、電話の向こうで悔しそうな声で恨みつらみを述べている友人と付き合っていたメリットは、大川さんの居場所を奪えるからだったのではないかと思った。


 大学を卒業し、友人とは疎遠になってしまった。だからMは、もうメリットはないと切り捨てたんじゃないか。


 だけど、それに気付いたからと言って、大川さんが友人にそんなことを言える筈もなかった。


 納得がいかなくて食い下がる電話の最中、Mは唐突に電話を切った。友人は慌てて掛け直したけど、何度かけても繋がらない。それでようやく、着信拒否されていることに気付いた。


 日頃連絡を取り合っていたSNSはブロックされ、他のありとあらゆる手段を試したけど駄目だった。


 最後に気が付く。友人は、Mの家がどこにあるかすら知らなかったことに。


「……またいつでも愚痴を聞くから」

「うん……大川、なんかこれまで御免な。俺、女にのぼせて周りが見えてなかった」

「気にするなよ。でも、俺からの忠告は聞いてほしい」

「……なに?」


 グス、と電話の向こうで鼻を啜る音を聞きながら、大川さんは心を鬼にして言った。


「例え戻ってこようとしても、それは全部演技だ。全部が嘘だ。だから、絶対に気を許すな」


 友人は、暫くして小さく「うん」と答え、また連絡する、そう言って電話を切った。


 その後、その友人からは何度か電話が掛かってきたけど、やがて時間が彼の心を癒やしたのだろう。半年ほどが経った後、友人からの連絡は途絶えた。


 大川さんは、自分から連絡をすることは控えた。大川さんの周りには、忘れた頃にMが現れる。大川さんと接点を持つことで、友人がまたいつかMと再会するかわからない。


 だから、再び繋がったこの縁は繋げておかない方がいい。


 友人すら持てない自分。だけどその選択をしたのは自分だ。力強く選択をした弟の様に、大川さんは自分の周りの人間を守る為、自分が孤独に耐えることを選択したのだった。



 社会人二年目になり、新人が入社してきた。


 先輩となると、時には後輩の悩みも相談に乗ってあげなければならない。ペアを組まされた後輩の面倒を見るのは、これまで孤独を抱えて生きてきた大川さんにとって、純粋に楽しかった。


 後輩はよく懐いてくれて、弟と過ごした遠い過去のことを思い出した。


 Mも、いまや社会人だ。日中は働いているだろうし、後輩や同期もたまには一緒に飲みたいと言っている。


 でもどうしても外は怖かったから、大川さんは家に呼んだ。その頃にはすっかり得意になった料理で同僚と後輩をもてなす時間は、普通に楽しかった。


 皆を駅まで送ってやり、笑顔で手を振って別れた。笑顔のまま振り返ると――Mがそこに立っていた。


 身体中の血が下に落ちる感覚を、久々に味わった。


 ずっと会いたかった、まさかこんな所で会うなんて私たちやっぱり運命なんだよ。


 ちっとも運命だなんて思っていなそうな顔で言われて、大川さんは我に返った。


 Mを無視し、地上に出る。この駅に住んでたの? そういえば昔この近くで助けてもらったのってそういうことか。


 無視しても、ベラベラ喋りながら付いてくる。大川さんが無視を続けていると。


「ねえ! 私のこと、嫌いにならないで! 好きなの! 愛してる!」


 Mはそう叫ぶと、車がスピードを出して走っている大通りにいきなり飛び出した。


 大学時代の悪夢が甦る。車が、どんどん迫ってくる。


 Mが、楽しそうに笑った。


「今私を見捨てて私が死んだら、あんた一緒私を忘れられないよ」


 それが決定打となった。


 大川さんはMの腕を引っ張り歩道側に引き寄せる。


 にまりと笑うMに、今後連絡が取れなくなったらお前に殺されると言いながら車に轢かれてやる。


 そう言われた。

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