第20話 Mとの出会い
高校二年の半ばからひとり暮らしを始めた大川さんにとって、これまで一切やってこなかった、否、させてもらえなかった家事をするのは最初は大変だった。
包丁もろくに握ったことのない人間が、いきなりまともな料理なんて作れる筈もない。そこで大川さんは、まずは初心者向けの料理の本を買った。
細かい作り方が乗っている最初のページから順繰りに作っていくと、最後のページに辿り着く頃にはとりあえず指を切ったり食材や鍋をまっ黒焦げにしたりといった大きな失敗はしなくなった。
したこともないトイレ掃除もお風呂掃除も、母親がどんな洗剤を使ってどうやって洗っていたかすら知らなかった。だけど当然、電話をして聞くことなんて出来ない。
唯一といってもいい情報源のネット情報を頼りにつつ、商品説明を読み込んで試行錯誤を繰り返しながら乗り切った。
私の場合はそこまで程度は酷くなかったけど、大して家事を手伝っていなかったことに違いはない。だから、教わる相手がいないのはかなり大変な状況だ、ということが容易に理解出来た。
父親が母親に大川さんのことをどう話したのか、大川さんは詳細を聞いていなかった。一度、父親に尋ねはしたそうだ。だけど、電話の奥から聞こえてきたのはためらい混じりの溜息。その後、短い言葉が返ってきた。
「別の道を行くことにした、そう言ってある」
それだけだった。元気にしているかと心配しているとか、そういった言葉を多少は期待していたことに、その時になって初めて気が付く。
そして、言わないのはそういうことだ。大川さんは、母親の中でいない息子にされてしまったのだと知ると、何とも言えない気持ちになった。
幸い父親との仲は悪くはなく、住む場所も生活費も全て父親が負担してくれている。
板挟みになっているだろう父親に「迷惑を掛けてごめん。なるべく早く独り立ちするから」と答えると、「馬鹿者」と短い言葉が返ってきた。
不甲斐ないのは父親の方だったんだろう。だけど今更、母親と真ん中の息子を見捨てることなんて出来なくて、しっかりしている様に見える大川さんに犠牲を強いた。
そういう意味だと今なら分かる、と大川さんは私の手を握り続けながら少し悲しそうに笑った。
当時は大川さんもまだまだ子供で、父親の贖罪にも似た気持ちなんてちっとも分かっていなかった。とにかくこれ以上迷惑を掛けない様に、浪人は絶対に避けよう。そう自分に誓うと、一層勉学に励んだ。
塾の中でも上のクラスに入った大川さんは、同じクラスにいるひとりの女子と知り合う。黒縁眼鏡でおさげをしており、前髪は目の半ばまであって、随分と暗い雰囲気の子だなあなんて思ったそうだ。
消しゴムを忘れたのか、何かを探している時に声を掛けたら、そっぽを向かれてしまった。それ以来、話しかけたら拙いのかと思って遠巻きにしていただけだった。
すると、大川さんが塾に入ってきてすぐに近付いてきた別の女子が、「あいつの顔、見られたもんじゃないもん。鼻はでかいし瞼は垂れてるし、マジで豚みたい。目が腐るから見ない方がいいよ」と言った。
それを聞いて、あの眼鏡と前髪は顔にコンプレックスがあるのを隠しているのか、と納得する。
女子は化粧をすると化けるだなんて聞いたことがあるけど、親が許さないのかな。そんな風にも考えたらしい。
「それにしても、友人……じゃ呼びにくいね。じゃあ、Mにしよう」
そんな風にクラスの女子に酷評された女子。それが例の友人、Mだった。
ただクラスが一緒なだけのM。大川さんもそれ以上は特に気にすることもなく、関わり合いになることもない関係が数ヶ月続いた。関係とすら呼べないものだろう。
同じ部屋で同じ空気を吸っている同学年の女子、ただそれだけの存在だったから。
そんな彼女ともう少し深く知り合うことになったきっかけは、とある冬の日に起きた。
大川さんが、コートの前を押さえながら繁華街の先にあるスーパーへと向かっている時のことだった。
少し暗がりの細い路地の奥に、明らかに中年と思われるスーツ姿の男に肩を掴まれた、見覚えのあるおさげの後ろ姿が見えたのだ。道の奥に光るのは、ラブホテルの看板。
彼女は俯きがちで、それが大川さんの目には嫌がっている様に映って見えた。
咄嗟に駆け寄り、Mの名を呼ぶ。すると、Mはハッとして振り返り、スーツ姿の男から逃げる様にこちらに向かって駆け出し、通り過ぎた。
相手は未成年で、Mの知り合いに見られて男も焦ったのだろう。「み、道案内をしてもらってただけだよ!」と聞いてもいないのに挙動不審な態度で言い訳をすると、道の奥へと走って行ってしまった。
男の後ろ姿が見えなくなったのを確認してから、大通りへと戻った。だけど、もうMの姿はなかった。
何だったんだろう。だけど状況的に考えられるのは、無理やり連れ込まれそうになったか、それとも自らの意思で赴いたかのどちらかだ。
関わり合いにならない方がいい。そうは思ったけど、気になってしまうのが人というものだ。
結局その日はもう、Mと会うことはなかった。大川さんは、次に塾で会った時、機会があれば聞いてみる程度にしようと思い、一旦その出来事には蓋をすることにした。
次に塾に行った時、Mの姿はなかった。それまで大して気にしたこともなかったので、Mが毎回来ていたかどうかすらも記憶にないことに気付く。
まあその内来るだろう。そう考え、自分には他人を構っている余裕なんてないんだぞと再び目の前の問題に取り組み始めた。
次にMの姿を見たのは、それから一週間ほど経ってからのことだった。
誰もMがいなかったことに気付かず、Mに話しかけもしない。元々仲良しこよしな雰囲気ではなく、他人は他人と割り切っている印象が強い塾だ。
放っておけ。下手に首を突っ込んで厄介事に巻き込まれでもしたら、勉強の時間がなくなってしまう。
もし一浪でもしてしまったら、ほら見たことか、自分の言うことに従わなかったからだと母親に思われる隙を与える様なものだ。
死んでしまった弟の分も、自分の決めた道を突き進まないと駄目なんじゃないか。
そう考えたその時、ふと脳裏にあの親子の姿が浮かび上がった。損得など一切考えない、温かい心を持った親子の笑顔。
居場所がなく困っていた弟を受け入れ、同じ様にがんじがらめになっていた大川さんにも手を差し伸べてくれたあの姿勢。
あれがなければ、弟はもっと早くに壊れていたかもしれない。
だったら自分も、猿真似かもしれないけど少しでも優しい人になりたい――。
その決断は、きっと間違っていた。大川さんは、力なく笑いながらそう呟いた。だから私は、そんな大川さんの頭をもう一度撫でてあげる。
すると大川さんは、車の中の時と同様に私の肩に今度はこめかみを乗せ、暫く私の手の感触を味わう様に体重を預けていた。
「僕は帰り際にMに声を掛けて、困ったことはないかって聞いたんだ」
すると、それまで一切話そうとしなかったMが口を開いた。
「……実は、そうなの」
勝手に想像していた、暗く覇気のない声ではなく、他の女子よりも少し高い可愛らしい声だった。
長い前髪の所為で相変わらず目は合わないけど、大川さんの傍に寄ってくる女子が言っていたほど大きく醜い鼻じゃない。確かに大きくて上向き加減だけど、目は腐りはしていない。
Mは、周りに人がいないのを確認すると、聞こえないほどの小さな声で言った。
「実は……親にお金を稼げって言われてあの仕事を紹介されて、それであの日は困ってたんだ」
「――は?」
その後にMから聞いた話は、衝撃的なものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます