第29話 繋がる

 そのまま大川さんお手製の夕飯までご馳走になった私は、駅まで送るという大川さんの言葉に甘え、名残惜しい気持ちを抱えながら駅までの道のりを二人でゆっくりと歩いた。


 手を繋ぎたい。でも見られたらどうなるかを考えると怖い。大川さんのその気持ちが愛おしくて、そう言わざるを得ない大川さんの気持ちも痛いほど理解出来て、だから私たちはひとり分間を空けた距離で並んで歩く。


 月島さんは自分の恋人だと、誰に対しても堂々と胸を張って言える様になりたい。結局気持ちが抑えきれなくて触れてしまって、言ってることとやってることが支離滅裂だけど。


 穏やかな口調で照れた様にそう言われ、それは私の方だって沢山触れてますとつい大きな声で答えてしまい、二人して笑い合った。


 いつもの書店がある前まで来れば、駅まであとちょっとだ。


 書店があるビルの前を通り過ぎたその時。


「マリちゃん、大川さん!」

 

 声がした方を振り向くと、丁度マスターが書店があるビルから出てくるところだった。見慣れたシャツとソムリエエプロンの姿じゃなくて、今日はラフなTシャツとジーンズを身に付けている。


 てっきり日曜日に二人で歩いてどうしたんだ、とか聞かれるかと思ったら、違った。嬉しそうに満面の笑みを浮かべながら、マスターが言う。


「いいところに!」


 差し出した左手には、本がぎっしりと詰まった紙袋があった。見れば右手にも、同じくらい重そうな、本がパンパンに詰まった紙袋がもうひとつある。


「頼む! 片方手伝って!」


 困った様な笑顔を浮かべたマスターに、私たちは思わず笑い出した。大川さんが、さっと近寄って紙袋を受け取る。思ったよりも更に重かったらしく、クスクス笑った。


「マスター、いくらなんでもこれは買い過ぎですよ」


 えい、と勢いを付けて紙袋を身体の前で抱え直すと、マスターが「お」という表情になり真似をする。それにしても重そうだ。


 マスターが、『ピート』の方角に向かって歩き出した。道幅は広いので、私たちも横並びで同じ方向へと向かう。


「いやあ。予約しておいた本なんだけど、なかなか取りに行けなかったのと、新刊が面白そうでつい」


 大川さんが、自分が持っている紙袋とマスターが持っている紙袋を見比べて苦笑した。


「こんなに買って。随分したんじゃないですか?」

「なあに、経費で落とすからいいんだよ」


 マスターがにやりとしながら言い返す。大川さんは呆れ顔になった後、探る様な楽しむ様な目つきでマスターに尋ねた。


「ちなみに、予約したものと自分用に買った新刊と、割合はどれくらいなんです?」

「んー、まあ半分以上が自分が読みた……あ、違う違う!」

「違くないでしょう、全くマスターってば」


 あはは、と笑い合う大川さんとマスターに挟まれながら歩いていると、二人とも私よりも随分と背が高いから、どちらかが喋る度に左右を見上げていて、我ながら忙しない。


 地下にある駅の改札へと続く階段の前を通り過ぎ、大きな交差点を渡れば『ピート』には五分ほどで到着する。


「そういえば、映画はどうだったの?」


 マスターが思い出した様に尋ねてきた。それに対し、大川さんが穏やかな笑みを浮かべながら答える。


「ひとつ目の映画は怖くなかったんですけど、ふたつ目が滅茶苦茶怖くて。二人とも、悲鳴を上げながら観てました」

「大川さんも悲鳴を上げたの? 意外だなあ」


 本当に意外そうな顔になったので、今度は私が答えた。


「大川さんは、心の中で叫んでたみたいですよ。きゃーとかわーとか言ってたのは、ほぼ私です」

「まあマリちゃんはね、本読んでるだけでも表情豊かだから」

「本当にそんなに色んな顔してます?」


 泣く時は確かにあるけど、百面相をしている自覚はない。すると、マスターが歯をニカッと見せながらからかう。


「今度、動画を撮ってあげるよ。本当に面白いから、自分で確認するといい」

「ちょっと、マスターってば!」


 何が楽しくて自分の百面相を見なければいけないのか。軽めにマスターを睨みつけると、マスターは笑いを堪え切れないんだろう、肩を小刻みに震わせていた。


 すると、大川さんが何気ない口調で言う。


「あ、それ撮れたら僕にもデータ下さい」

「え?」


 大川さんの言葉に、私とマスターが同時に大川さんを振り向いた。大川さんは相変わらず穏やかそうに微笑んでいる。そして更に言った。


「ひとりで寂しい時に月島さんの百面相を見たら、きっと幸せな気分になれそうだから」

「お、大川さん……?」


 自分が映った動画を静かに眺めながら微笑む大川さん。あまりにもその姿がしっくりきていて、私も笑いを堪えられなくなってしまった。


「ふ……ふふっ。ちょっと、可笑しいなあ大川さん……!」

「結構真面目に言ってるんだけどな」


 へへ、と照れくさそうな笑みを返されて私も笑っていると、マスターがにやにやしながら私の肩を肘で小突く。


「ちょっとマリちゃん。保護者に報告が必要な感じになったんじゃないのか?」

「ほ、報告……! ええと、そのですね!」


 お付き合いの予約をしたなんて、どう説明すればいいものやらだ。私がワタワタしていると、大川さんが助け舟を出してくれた。


「マスター。僕が今ははっきり出来ない理由を月島さんに伝えたんです。問題が解決し次第、交際を――」


 その時。


 背後から、女性の声が飛んできた。


「けんちゃん!」


 その瞬間、大川さんがビクッと反応し、視線が一気に彷徨い始める。


 後ろから走ってきたその女性が、私の反対側から大川さんの腕にベタッと触れ、顔を覗かせた。


「ほらやっぱりけんちゃんだー! ちょっと、振り向いてくれたっていいじゃないのお!」


 女性の目がマスターを捉え、下まぶたがあざとく弧を描く。よく見る、相手を品定めしている目つきだ。マスターは、彼女の中では合格。そう判定されたのだ。


 そしてようやく私に視線を移すと、可愛らしく艶やかに口角を上げたまま、私を馬鹿にした目で挑む様に見た。


「ちょっとマリモ、私のけんちゃんと何やってんの? 自分が何やってんのか分かってんの?」


 すると、それまで固まっていた大川さんが、青褪めた顔で遮る。


「お前のものになった覚えはない」


 女性が、するりと大川さんの腕に指を挟み込んで掴んだ。


「けんちゃん、この間喧嘩しちゃったこと、まだ根に持ってるの? ごめんって謝ったのにい」

「喧嘩なんてしてない……話を作るな!」


 噛み付く様に言っても、彼女には堪える訳がない。だって彼女は女王様だ。常に皆の中心にいて、周りにいるのは全て彼女の配下の人間なんだから。


「やだあけんちゃん、もしかしてマリモと浮気するつもりだったの? いくらマリモが田舎臭くて騙せやすそうだからって、これを選んじゃだめだよお」

「やめろ、黙ってくれ……っ」


 大川さんの目が泳ぎ、泣きそうな目で私を見た後、縋る様な目つきになったかと思うとマスターをじっと見つめた。マスターは暫く黙ったままだったけど、やがてフウ、と小さく息を吐くと、M――真山まやま梨花りかに話しかける。


「君、誰? 大川さんは俺の店の常連さんで、俺の荷物を運ぶのを手伝ってもらっただけだけど」


 マスターは紙袋を下ろして片手で持つと、大川さんと同じ様に固まっていた私の肩を抱き寄せ、これまで聞いたこともない様な冷たい温度の声を出した。


「マリちゃんは俺の彼女だけど、これって何? どんな知り合いか知らないけど、失礼にもほどがあるだろ」


 一瞬混乱したけど、大川さんが唇をぎゅっと噛み締めたまま意思の強そうな眼差しで私たちを見ているから、これは大川さんが私を巻き込まない為に咄嗟にマスターを頼った結果なのだと悟る。


 それまで険のある表情で私を見ていた梨花が、ぱっと笑顔に変わった。作り込まれた、きっと自分が一番可愛いと思っている笑顔に。


「なーんだ。てっきり私のけんちゃんに手を出したのかと思っちゃった! 私、マリモの同期で親友なの! ごめんマリモ! 勘違い、許して!」


 連絡先も交換していない相手を親友と言える梨花の図々しさに、背筋が凍りついた。

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