第13話 過去の告白

 両親の死後、仕事で必要に駆られた時以外、車に乗るのは避けていた。


 仕事で乗ったのも数える程度で、商品が保管された倉庫に赴く際にタクシーに乗っただけだ。


 タクシー運転手はプロだから大丈夫。そう言い聞かせて、前日に読み耽った楽しい物語の世界を繰り返し必死で思い返しながらその時間をやり過ごした記憶が蘇る。


 だけど、プロでない人の運転はあれ以降初めてで、しかも大川さんも運転は久々だと聞いた。家で支度をして待つ間、失礼だけど大丈夫だろうかという不安が鎌首をもたげてしまったのだ。


 震えるほど怖くはない。ただ、自分の周りの空気がシンと張り詰める感覚だけがあった。


 これから車に乗るんだ。その考えに囚われてしまい、自分の弱さが情けなく思えた。


 大川さんは居眠りをしたトラック運転手じゃない。あれは不幸な偶然が重なっただけで、大川さんとは関係ない。


 今朝からずっと、そう自分に言い聞かせ続けてきたのに。


 こんな態度のままじゃ、私が怖がっていることが大川さんに伝わってしまうんじゃないか。折角誘ってくれたのに、がっかりさせるんじゃないか。


 そう思うと自己嫌悪に陥りそうになり、いやいやこんな暗い表情をしちゃ大川さんに失礼だと鏡の前で笑顔を作ってみたりした。


 でも不安になって、大川さんが下に着いたよというメッセージを送ってくるまで、何度もそれを繰り返した。


 だけど、いざ乗ってみたら思っていた以上に平気だった。


 車は怖いと思い込んでいたけど、大川さんは制限速度をしっかりと守り、無理な車線変更は行なわず、車間距離もきちんと空けて運転してくれた。


 この人の運転なら大丈夫だ。そう思える様になると、少しずつ動悸も張り詰めた神経も収まってきてくれた。


 大川さんはいつになくおしゃべりだった。これから向かう場所の説明が終わった後は、これまで観た映画の話を沢山しては、私に意見を求めた。観ていない映画の話をすると大川さんは興味津々で質問してくれて、嬉しくなってつい語る。


 そんな会話のお陰で、高速の途中にある大きなサービスエリアまであっという間だった。


 もしかしたら、私が緊張気味だったのを察して、それでいつもよりも多弁だったんだろうか。


 大川さんは人の感情の些細な起伏にも機敏だから、気を遣わせてしまったんだろうか。


 大川さんが待つ車の前側に駆け寄ろうとした瞬間。


 履き慣れない高いヒールの所為でグキッとバランスを崩した。


「わっ!」

「危ない!」


 大川さんが私の腕を掴む。


「あ、ありがと……」


 大川さんが、照れた様な表情で私を見下ろした。


「慌てなくていいから」


 この優しい言葉にカアッとのぼせた私は、慌てて言い訳を始める。


「あ、あの、慣れない高さのヒールを履いてきちゃって……! はしゃぎすぎちゃった、へへ……っ」

「ヒール? あ、確かにいつもより背が高い」


 にこ、と大川さんが微笑んだ。大川さんの笑顔は、いつも柔らかくて安心する。だけど今日は、それを見る度に何故か激しい動悸が伴った。今もそうだ。


「歩きにくい? その……支えていいなら」


 そう言うと、私にスッと腕を差し出してきた。あの笑顔のまま。


「……その、はしゃいでくれたお礼に」

「わ……」


 もう、思考も感情も、全てがパンク寸前だ。多分、手汗が酷い。こんな手で触ったら、さすがに引くんじゃないだろうか。


「気になるお店はある? サービスエリアのグルメって最近有名だけど、全然行ったことなくて」

「あ、私も全然なくて」


 固まっている私の手を取った大川さんは、それを自分の腕に引き寄せた。


 大川さんの手は、車内のエアコンで冷えていたのか、ひんやりと冷たくて気持ちいい。でも、掴まれている内に、じんわりとその固い手の感触と共に中から伝わる熱さが、私の手汗をかいた手と同等になっていく。


「じゃあ、案内板見てみようか」

「あ、はい」

「敬語」

「あ……うん」


 初夏の日差しは力強く、正午付近のアスファルトの照り返しは凄い。私の顔が火を吹いた様に熱く感じるのは、きっとそれの所為もあるに違いなかった。



 結局どこの店がいいのかよく分からなくて、小洒落たレストラン風のお店に入ることはなく、イートインコーナーでこれぞ古き良きサービスエリアの軽食だろうというラーメンを食べた。


 この安っぽい味がいいね、そう言って笑い合うと、これまであんなに車に乗ることに恐怖を覚えていた自分が馬鹿みたいに思えたから不思議だ。なるとの薄っぺら感が如何にもで、それを一緒に楽しめる大川さんは素敵だと素直に思った。


 この人は、怒ることなんてあるんだろうか。でもだからこそ、切っても切れない困った友人に悩まされているんだろうけど。


 食べ終わって車に戻ると、中は灼熱だった。窓を全開にしてエアコンも最大まで入れて、二人で笑い合っている内に、自然と車は発進する。その緩やかさに今度は恐怖は一切感じることはなく、ああ、今なら話せると唐突に思った。


 やがてエアコンの吹出口から冷たい空気が出始めると、大川さんが窓を閉める。


「大川さん、私の話、聞いてくれますか」


 また敬語。そう言われるかなと思ったけど、大川さんは小さく微笑んで頷いただけだった。やはりこの人は人の感情の動きに機敏だ。私の覚悟に近い感情が乗った声色を察して、茶化さないでいてくれる。


「実は私、ほぼ天涯孤独の身で」


 私がそう切り出すと、大川さんは小さく息を呑んだけど、「うん」と小さく相槌を打ってくれた。


「両親は、私が大学生の時に車の後ろから追突されて亡くなりました」

「車……」


 エアコンの風の音に掻き消されそうなほどの小声で、大川さんが呟く。


「実はちょっと乗るの怖かったんですけど、でも大川さんといたら全然平気でびっくりしました」


 へへ、と笑ったけど、大川さんはまた「うん」とだけ返して、笑い返してはくれなかった。


「――他に親戚は?」

「あ、おばがひとりいるんですけど、イギリス人と結婚していてイギリス在住で」


 祖父母ももういないことを簡単に説明すると、大川さんが少し掠れた声で囁く。


「そっか……」

「はい。でも、今は寂しくはないですよ。私には『ピート』がありますし」

「マスターとはどうやって知り合ったの? 聞いてもいい?」

「うん、それは勿論」


 はっきりと力強く頷くと、私は時折大川さんの横顔を見ながら、マスターと出会った時のことを話した。


 この車が走るのは左車線。中央と右側の車線の車は、遠慮なく飛ばしていっているけど、大川さんはそれに流されることなく制限速度を守り続ける。メーターは、きっかり80を指したままだ。


「――で、その日から私は『ピート』の常連第一号になって、早四年です」

「そうだったんだ……だから月島さんの癒やしスポットなんだね」


 事ある毎にマスターが『ピート』はマリちゃんの癒やしスポットだから、と繰り返し言うので、大川さんにとってもすっかりその認識みたいだ。


「そうなんです。私にちゃんと寄り掛かれて、相手も私に寄り掛かってお互いに支え合う人が出来るまで、あそこに寄り掛かっていればいいって言ってもらえたから、マスターの言葉に思い切り甘えてそうしてる真っ最中なんですよね」


 えへへと頭を掻くと、ようやく大川さんの口の端が緩やかに上がった。


「……その、野暮なこと聞いてもいい?」

「え? どうぞどうぞ、大した秘密もない人間ですし」


 両親の死を黙っていたこと以外、私に取り立てて隠しておくような事実はない。


 大川さんは少し言い淀んでいる。なんだろう。


 私が大川さんの横顔を見ながら待っていると、大川さんが尋ねてきた。


「その……何で今日僕に言う気になってくれたの、かな?」

 

 少し照れくさそうな、緩んだ頬。


 もしかして、思った以上に大川さんは私に好意を持ってくれているのかもしれない。


 初めてそう思った瞬間だった。

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