第15話 大川さんの過去

 互いに告白めいたことを伝え合った後。


 大川さんは、ポツポツと家庭の事情を話してくれた。


 大川さんの父親はお医者さんで、地元の総合病院に勤めていた。母親は専業主婦で、教育熱心な人だったそうだ。


 父親はいずれは独立したいと考えていて、その為に優秀な跡継ぎを用意することを母親に課した。


 母親は長男の大川さんが生まれてすぐに英才教育を始め、大川さんが物心ついた時には、毎日勉強するのが当たり前になっていたそうだ。


 母親は、大川さんが医者になれなかった時の保険に兄弟を欲した。大川さんのふたつ下に男の子、更にそのふたつ下にもうひとり男の子を生む。四人目も欲しがったそうだけど、教育費が馬鹿にならないと父親の反対に合い、諦めた。


 大川さんが通った幼稚園は、少し離れた場所にあるお受験で入るところ。小学校まではエスカレーター式で、所謂お坊ちゃん学校だった。


 周りにも医者や弁護士の子供がゴロゴロしていて、母親はその仲間入りが出来て鼻高々だったらしい。


 そして当然の様に、すぐ下の弟、一番下の弟も母親が敷いた大川さんと同じレールの上を辿った。


 高校生になった大川さんは、医学部目指して猛勉強の日々を送る。私立の学校に通っていたので、地元の友人は数える程度しかいない。だから、同い年くらいの若者が楽しそうに青春を謳歌しているのは町を歩けば感じられたものの、自分の居場所がそこにないことくらいは初めから理解していた。


 医大に通う様になったら、きっとそこで仲間が出来る。だから自分はそれまで努力すればいいんだ。


 何の疑いもなく、そう思っていたそうだ。


 だけど、問題はそのすぐ後に起きてしまった。


 一番下の弟が、中学受験に失敗してしまったのだ。母親は激怒。父親は、大川さんと次男のどちらかがなればいいじゃないかと日頃から一番可愛がっていた末っ子の弟を庇ったけど、母親はそれを許さなかった。


 恐らくは、母親自身が失敗したという考えにすり替わってしまったんだろう、と大川さんは淡々と語る。


 かといって落ちてしまったものは仕方がない。地元の公立中学校に通い始めた弟は、それまで地元に友達がいなくて初めは戸惑っていたけど、やがては近くにすぐに会える友達がいることの良さに気付いて、楽しい中学校生活を送り始めた。


 医者は目指さない。自分がやりたいと思ったことをやるんだ。そう明るく話す弟を、羨ましいと思ったそうだ。自分にはこんな確固とした考えはこれまで一度たりとなかった。それを、四歳も下の弟は中学一年で見つけている。


 医者になりたいのは、本当に自分の意思か。初めて疑問が湧いた。


 弟は、大川さんや父親との仲はよかった。だけど、日頃家にいてこの三人兄弟を管理しているのは母親だ。そして、大川さんも母親には逆らったことはない。


 やがて、弟は自分の家が他所の家庭とは違うことに気付き始めた。勉強の毎日。一回のドロップアウトで見放され、ダメ人間のレッテルを貼られる。


 こんな簡単な問題で百点を取れないなんてお前は馬鹿だ、落ちこぼれだ。試験結果を見せろと言われて見せる度に罵倒され、夕飯を抜かれることもあった。


 自分に用意された夜食をこっそり弟に渡したことも、一度や二度ではなかったそうだ。


 それでも、誰も母親を責めなかった。何故なら、彼らは完全に母親の支配下に置かれ、母親の考えが唯一無二のものだと思い込まされていたから。


 そして弟は段々、父子家庭の友人宅に入り浸る様になってしまった。


「あそこの父ちゃんの料理は手は込んでないし買ってきたお惣菜の方が多かったりするけど、それでもうちのよりずっと美味しいんだよ」


 弟を心配して問い詰めたところ、大川さんには気を許している弟はそう言って照れくさそうに笑ったのだという。


 母親は、あんなのは放っておけと放置する様になってしまった。父親は、開業準備で忙しくて殆ど家にいない。次男は母親にべったりのいいこタイプで、自分こそが父親の病院を継ぐのだと、大川さんにも敵意を剥き出しにしていたそうだ。


 いつもご飯を友人の家で食べていく様になってしまった弟を、ただ放置しておく訳にはいかない。だったら自分が保護者代理でその父子家庭の家に挨拶に行ってみよう。そう思い立った大川さんは、「何かあった時の為に知っておきたい」と事前に場所を聞いておいた友人宅を訪問した。母親が友人と外食に出かけたその隙を狙って。


 友人の父親は、突然訪れた大川さんに驚きながらも、弟を心配して来たことが分かると快く中に招き入れてくれた。


 自分の家とは明らかに違う、整理整頓とは縁のなさそうな物がごちゃごちゃしているリビング。そこに置いてあるテレビの前で、弟と友人は楽しそうに笑いながらゲームをしていた。


 弟の屈託のない笑い声など、もう何年も聞いたことがなかったことに気付く。


 折角だからご飯を食べていきなさいという父親の勧めもあって、夕飯に招かれた。割と上手に出来たと思うんだけどというカレーの具は皆サイズがバラバラで、ところどころルーが固まったままの箇所もあったけど、物凄く美味しかった。


 笑顔がある食卓。じゃがいもの皮入ってんじゃん、とケタケタと笑う弟の友人。今度自分も一緒に作りたいと頬を紅潮させている弟。


 弟の言っている意味が、ようやく理解出来た。


 帰り際、その父親は言った。


「君も、また来たい時に来ればいいよ。人間さ、逃げたい時ってもんはあるからさ。なんてな」


 その言葉に、是非また伺いますと大川さんは笑顔で答えた。弟と歩く帰り道、大川さんはこれまでにないほどの開放感を覚えていた。


 お前の言っていた意味がよく分かったよ、あの家安心するな。弟にそう告げると、弟は嬉しそうに笑った。


 だけど、大川さんのまたの機会は訪れなかった。


 それから数日経ったある日の夕方。大川さんは、あの父親が旨いぞと言っていた駅前の唐揚げ屋を覗いていたところだった。学校からの帰り道で、家に帰ればお弁当が用意されている。それを持って塾へ行くのが常だったけど、母親が忌避する出来合いの物も、母親が言うほど悪いものではなかった。


 だから、ちょっと買って食べてみようかな。そう思って並んでいた時に、大川さんの携帯が鳴った。


 母親からだった。


 警察から電話があって、弟が友人と歩いている時に交通事故に遭ってしまったので今その病院に来たところだという。


 サー、と血の気が引いた。


 弟の容態はどうなのか、友人は怪我はないのか。大川さんは矢継ぎ早に母親に尋ねたけど、返ってきたのは別の言葉だった。


「あなた、その人たちに会ったことあったのね! どうして知っていたのに、そんな素行の悪い友達と一緒にいるのを止めなかったのよ!」


 絶句、とはこのことだと思ったそうだ。


 外はまだ多少は明るい時間だ。しかもあの子は全然ぐれている子ではなく、明るく気さくな子だった。


 一体今どこにいるのか、とにかくそれだけを聞き出すと、大川さんはその場所から比較的近くにある救急病院へと走った。


 病院につくと、弟は手術中だった。友人の顔色は真っ青で、標識を無視してスピードを出したまま突っ込んできた車に気付いた彼が自分を庇ってくれたんだ、と泣きながら大川さんに縋った。


 あの父親にも連絡が行っているそうで、とにかくその場はこの子を慰めようと抱き締めていると、警察と話をしていたらしい母親が戻ってきた。


 大川さんと弟の友人を見た瞬間、物凄い剣幕で罵倒を始める。


 それはそれは酷いものだったという。


 やがて仕事を抜け出した友人の父親が来ると、母親は更に捲し立てた。大川さんが止めても、全く止まらなかった。


 悪いのはお前たちだ。三男を悪の道に引きずり込んだからこんな目に遭ったんだと怒鳴る母親は、完全に気狂いの様に見えたという。


 それでも、友人の父親はひたすら謝り続けた。謝ることなんて何ひとつないのに。


 やがて大川さんの父親もやってくると、母親は父親に連れられ、鎮静剤を打ってもらう為にその場からいなくなった。


 大川さんは謝った。もっと自分が弟を庇ってやるべきだったと泣いて謝った。そんな大川さんにその父親は、「君も被害者だよ。自分を責めずにね」と言ってくれた。


 弟はその数日後、息を引き取った。享年、十三歳。


 告別式に泣きながら来てくれた友人と父親を、母親は罵倒しながら物を投げて追い出した。


 大川さんは、その二人に泣きながら頭を下げて謝った。ごめんなさい、ごめんなさい、と。そして伝えた。弟と友達でいてくれてありがとうと。弟を救ってくれてありがとうと。


 悲しそうに微笑みながらその場から立ち去ったその親子は、やがて別の町へと引っ越していき、――二度と大川さんと会うことはなかった。

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