第10話 内に向けられた目
その日は、これまでにないくらいすんなりと仕事が片付いた。
化粧室に直行し、落ちてしまった化粧を少しだけ直す。
ばっちりメイクはしてないしやり方も分からないけど、いつも化粧が半分落ちてしまった顔しか大川さんに見せてない。
いい報告をする今日くらい、ちゃんとしたところを見せたかった。
大川さんは、私に逃げろと伝えた日からほぼ毎日、『ピート』に来ている。
大川さんの例の友人からは時折連絡が入るそうだけど、仕事のプロジェクトが大詰めで帰りが読めないからと断っているらしい。
プロジェクトに参加してるのは本当だよ。まあ大詰めっていうのは嘘だけど。そう爽やかに笑う大川さんを見て、この人は友人に困らされてはいるけど、こうして自分で自分の身を守ることは出来る人なんだなと思った。
私と違って、しっかりした人なのだ。
男性社員たちと飲みに行こうかと楽しそうに話をしている梨花の横を、スッと通り抜ける。「お疲れ様です」と受付を通り過ぎる際に背中を向けたまま言った。
梨花からは何も返って来なくて、梨花の仕事を手伝っている男性社員、片山さんが小さく「お疲れ様」と答えてくれただけだった。
「片山さん優しーい」
馬鹿にした様な笑いが聞こえたけど、聞こえないふりをする。
私が立川さんの近くに座った理由に、梨花は気付いたんだろう。その声色には、若干の怒りが感じられた。
一度も振り向かず、いや、振り向くのが怖くて、エレベーターホールの前でエレベーターが来るのをただひたすら待つ。
どこの職場だって、人間関係に全く問題がないところなんてそうはないだろう。だから、嫌味のひとつやふたつを言われるくらいなら、大したことはない筈だ。
これまで一番の問題は、梨花に仕事の邪魔をされることだった。普通にやれば終わることも、梨花のお喋りが止まないから集中出来なかった。これだって、傍から見たら同期同士がきゃっきゃとはしゃいでいる様に見える光景なのかもしれない。
普段私の近くに座る人は、内情を理解していると思う。皆が皆、梨花の取り巻きな訳じゃないから。だけど。
この会社の社長は若い。まだ四十代半ばで、出社する時は高そうでお洒落なスーツと着こなしている、すらりとした見た目は素敵なおじさまだ。
だけど、社長もやはり男だ。社長になろうと思うくらいの人だから、自分に自信も持っているし、色んなことに貪欲なんだろう。
梨花は、社長にも遠慮なく甘える。しなだれかかる梨花の肩に社長が手を回しているのを、何度か目撃したことがあった。
立川さんが、不満はあっても梨花の対処を訴えに出ない理由。それが分かった。
社長は既婚者だけど、あちこちで浮き名を流しているというのは先輩方から聞かされている。
月島さんは社長の好みじゃなさそうだから大丈夫だと思うけど、でも酔うと触ったりするから気を付けて。
そう注意されたこともあった。幸いというか、飲み会があっても基本梨花が社長の隣にいるので、私が被害に遭ったことはない。
だけど、私達が入社する前は、社長ももっと若かったこともあり、ギラギラとした目を女性社員に向けることもそれなりの頻度であったらしい。
それがいけないことだと、皆分かっている。だけど、自社の社長にそれはセクハラだと言える訳もなく、なるべく波風を立てないでやってきた、というのがこれまでの経緯らしかった。
上の階でずっと止まっていたエレベーターが、ようやく動き始める。
開いたエレベーター内の僅かに空いた空間に身体を滑り込ませると、身体に絡みついている様に思えた梨花の視線がようやく剥がれた気がした。
◇
「お、マリちゃん今日は早いね」
店の扉を潜ると、今日はあの常連のお婆ちゃんがいた。トールキンの『指輪物語』は進んだんだろうか。手に分厚いハードカバーを持っているので、あれがそうなのかもしれない。
カウンター席は空席で、ちょっとガッカリする。折角化粧を直してきたのに。
その様子を見たマスターが、楽しそうににやけた。
「まだ来てないよ。いつも七時くらいに来るから、食べて待ってたら?」
「えっ! あ、いや、そういう訳じゃ……!」
慌てて顔の前で手を振って否定したけど、マスターには通用しなかった。にやにや笑いが止まらない。
「別にいいんじゃないか? 俺はあの人はいい奴だと思うけど」
「え、いやその、そんな烏滸がましいこと、いやいやいや……!」
手渡されたおしぼりに視線を落とすと、マスターの苦笑が降ってくる。
「烏滸がましいって、同じ人間だろう」
「え、いや、そりゃそうだけど……」
でも、何というか同い年だというのに大川さんは私よりも遥か高みにいる人で、隣に座らせてもらえているだけで有り難い、そんな感じなのだ。言うならば、推しという感覚に近いかもしれない。
「だってさ、悪い印象じゃないんだろ?」
真顔に戻ったマスターが、少し声を潜めて尋ねた。それには、大きくこくりと頷き返す。
「悪い印象だったら、ここに連れてきませんって」
「だよね。マリちゃんが他の人を連れてくるなんて意外だなあと思ったもんなあ」
マスターが、無精髭の生えた顎をしゃくった。
「同じ本が気になったっていうのと、その後の譲り方が……なんかその、優しかったから、大丈夫かなと思って」
しどろもどろになりながらも私がそう答えると、マスターは保護者然とした微笑みを浮かべながら小さくうなずく。
「マリちゃんは、ちょっと人との距離を詰めるのが苦手なんだと思うな」
「それは……はい」
この性格の所為で、海外の高校に通い始めた時も、最初の数ヶ月は友達が全然出来なかった。
向こうは博愛主義が推奨されているからか、無口で愛想笑いを浮かべている東洋人を面倒みようとしてくれた友人は数名出来たけど、彼女たちにもよく言われた。もっとはっきり意見を言わないと駄目だよ、と。
笑ってるだけじゃ分からない。繰り返し、何度もそう言われた。それはそうなんだろうなあと思い、日本に帰ってきてからは結構頑張って友達にも積極的に話しかけたつもりだ。そしてそれは、ある程度成功していたと思う。
だけど。
多分、きっかけは両親の死だ。あそこから立ち直る為に、私はがむしゃらに動いた。
踏ん張って歯を食いしばって、耐えて堪えて、そして堰を切ったように涙がとめどなく溢れたあの日にマスターに救われるまで、私は動いていたのに止まったままだったことに気付いた。
そこからまた少しずつ、外に目を向け始めた。
お付き合いに発展しかけた男性の、あのひと言があるまで。
相手にとっては些細なひと言だったのだと、分かっている。大して事情も知らない人の、何気ない感想だ。
だけど、その日以来、外に向きかけていた私の目は再び内側に向いてしまった。
あの日から、再び私は臆病な私に回帰して、今もまだそのままの私でいる。
「立ち直りかけていたところに心無いひと言を言われて、自分の心を守ろうとしたんだろうな、とは思うよ」
「……はい」
「でもあの人は、その人じゃないよ。それに多分あの人は、マリちゃんを傷つける様なことは言わないと思うけど」
私が顔を上げると、相変わらず少し苦笑した風のマスターと目が合う。
「マリちゃんは、それをあの人から感じたんじゃない? だから近付いてみたい。でも、過去のことがあって怖い。違うかな?」
私の悩みをよく知っているマスターが、囁く様に言った。
「……勇気出せよ。駄目でも、俺がここにいるから」
「マスター、私……」
先を続けようとしたその時。
「――あ、いた。こんばんは」
涼しそうな顔にほんのり汗をかいた大川さんが、店に入ってきた。
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