第9話 作戦決行

 その日から、私たちは少しずつ会話を交わし続け、小さくちょっとずつ距離を縮めていった。


 日中は、相変わらず仕事を梨花に邪魔されることが多い。これまでは、表面上はうまく回っている様に見える会社の人間関係を崩したくなくて我慢していた。


 だけど、大川さんのあの言葉を聞いて以来、少しずつだけどはっきりと言える様になってきた気がしていた。


 逃げられる内に逃げる。私は逃げられる状況にある。多分、転職してしまえばこの関係はあっさり終わるだろう。


 ただ、それは結果として誰か他の社員に梨花を押し付けることにはなってしまうけど。


 この仕事は性に合っている。だけど、だからといって唯一無二のものじゃない。でも、新卒から育ててもらって恩もあれば愛着もある。それに、すぐに就職が決まらなかったら、私は自分しか頼れない天涯孤独の身だ。


 両親が残してくれた遺産はあるけど、出来る限り手を付けたくはなかった。本当の本当に困った時に使わせてもらおうと決めているから。


 遺産の残高が減ると、両親が私に残してくれた想いも消えてしまう気がしてしまって。


 お金に色は付けられない。そんなのは分かりきっていることなのに、それでもどうしてもそう思えて仕方なかった。


 でもだったら、何も試さないまま逃げる前に、梨花にも伝えてみようか。そう思ったのだ。


 梨花を怒らせると大変だからやんわりとにはなるけど、もしかしたら梨花は周りがそのお喋りに迷惑がっていることに気付いていない可能性だってある。


 でも、何度か「今は仕事中だよ」とか「集中したいんだ」と言っても、梨花はお喋りを止めなかった。キーボードを叩く腕を引っ張って「ねえねえ話聞いてるー?」と言われた時は、さすがに溜息が出てしまった。


 その後梨花は、取り巻きの男性社員を捕まえて私の文句を言いながらパントリーへと消えて行った。


 あの気のいい先輩の秋川さんが、それを見て苦笑いしてくれたのが救いだ。


 最初は、秋川さんに言われた通り、秋川さん経由で梨花の上司に言うのもいいかもしれないと思った。だけど、よく考えてみるとそれはお門違いなんじゃないか。


 あの人は営業職だから、梨花とも私とも部署は関係ない。勿論仕事上関わることはあるけど、まずは言うなら直接関係部署への方がいいのでは。


 それが社会人としては筋が通ってるよね、そうアドバイスしてくれたのが大川さんだった。大川さん曰く、感情的にならないこと、相手に筋が通っていないと突っ込まれない様にすることが肝心なんだという。


 大川さんの会社は結構な大企業で、部署と部署の役割が明確になっていて、かなり分業化が進んでいるそうだ。部署としての結束は固いけど、横の繋がりは弱い。その上、ちょっと敵対しちゃったりもする。


 同じ会社内なのに可笑しいよね、まあどこも大企業なんてそんなもんだけど。だから僕はそういう見極めは得意な方かもね。


 そう言って笑った大川さんを尊敬の眼差しで見ると、大川さんは照れて「あんまり見つめないで」とおしぼりで口元を隠してしまった。


 こんな風に照れる人なんだな、そんな新発見だった。


 でも、だったらまずは困っているところを周りに見せた方がいいんじゃないかな。


 私が勧めたスティーブン・キングの『シャイニング』を涼しい顔をして読みながら、大川さんはそんな貴重な意見をくれた。


 滅茶苦茶怖いねこれ。そう言って爽やかに笑う大川さんがあまりにも涼やかで見惚れてしまったとは、勿論言えない。


 マスターがちょっと驚いた表情で私を見ていたので、勘違いしてないといいなと思った。


 これはきっと、恋愛感情なんかじゃない。だって、大川さんと居ても初恋の時の様な胸の高鳴りはないから。


 道をすれ違っただけで心臓が苦しくなる。


 大学時代の遅咲きの初恋はそんな感覚があったけど、嵐の様な想いは、その彼に可愛い女の子らしい彼女が出来ることであっさりと終わった。


 同じ学部に同じ学科だったのに、名前すら覚えていてくれなかった、そんな相手だ。


 相手のことを何も知らなかったのは、私も一緒だったけど。知っていたのは、名前とその笑顔だけだった。


 その後に告白されてお付き合いをした人には、そんな感情をいだけなかった。だからこれは恋じゃないのかな、そう思っている内に、彼には別に好きな人が出来た。


 派手な感じの子で、私は納得してそのまま身を引いた。


 その後は、社会人になって付き合いかけたあの人だけだ。


 だからきっと、私は淡白なんだろう。初恋の時に、激しい燃える様な想いを出し尽くし、今私に残ってるのは燃料不足の土台だけなのかもしれない。


 マスターにこのことを話したら、「マリちゃんがしたのは恋。長く続いていくのは愛だと俺は思うよ」と言われた。「愛にも程度があるけどね」とマスターが苦笑する。


 首を傾げると、「エミリー・ブロンテの『嵐が丘』に出てくるヒースクリフみたいな愛し方じゃ、どっちも疲れちゃうだろ?」と言われた。なるほど、確かにそうかもしれない。狂うほどに愛してしまうのは、病んだ愛し方としか言えないだろう。


 その後マスターは、「シェークスピアの『ロミオとジュリエット』なんて、出会ってから死ぬまで三日だしね。俺はあれこそただの恋だと思うなあ」と戯けた顔で教えてくれた。激しすぎる恋は身を滅ぼす。納得だった。


 でも、それにしたって恋の段階もなくいきなり愛が生まれることなんてあるんだろうか。


 経験の少ない私には分からなかったし、マリちゃんももう少し時間が経ったらきっとそういうことも分かってくるよ、とマスターに言われてしまい、結局私のその疑問はまだ問うことが出来ていないままだ。


 大川さんの隣にいると、じんわりと温かい。だからこれはきっと、友情なのだと思う。


 大川さんのことが気になるのは、彼が私とどこか似ているからだ。こんな素敵な人と似ているなんて言うのも烏滸がましいけど、『ピート』という環境が好ましいと感じる同志だから。


 大川さんは、家族のことは話さない。そして私にも聞いてこない。お互いひとり暮らしをしているのは会話から察しているけど、あえてその話題を避けている。そんな直感があった。


 私が言わない様にしていることに、大川さんは気付いている。だから触れない、そういった距離感だ。


 マスターは、私が心を開くのを待っていてくれた。私が心を開いた後は、受け止め続けてくれている。それは時に優しく、時に少し厳しく。


 大川さんは、私の勝手な思い込みも多分にありそうだけど、何となく感覚で初めから私の戸惑いを理解してくれている、そんな気がした。だからかもしれないけど、大川さんの意見は毎回的確だった。


 私が困っていること、私が嫌だと思っていることを自分のことの様に当てていく。まるでその全てを見てきたかの様に。


 考え方が似てるのかなとも思うけど、私よりは大川さんの方が何倍も大人に思えるから、それもやっぱり図々しい考えなのかもしれない。


 そんな大川さんと、あれこれ会社の環境も説明した上で決めたこと。それがこれだった。


 梨花の直属の女先輩の近くに座るのだ。


 梨花は、その先輩の陰口は言うけど、直接本人に向かって言うほど馬鹿じゃない。多分、苦手なんだろう。


 客観的に見ると、分かる。梨花は、実は女性に甘えるのが苦手だ。だけど、以前辞めてしまった同期や私は、自分よりも立場を低く見ている。男性には甘え、そうじゃない私たちに対しては上に立とうとする。


 自分よりも立場が上の女性の傍には近付かない、それが分かった以上、円滑な業務を遂行する為にはそれを利用しない手はなかった。


 大川さんと作戦を練った翌日。


 その女性の先輩、立川さんが九時ギリギリに出社してくると、「カウンター席ってこの時間眩しくって」と言って立川さんの隣に移動をしてみた。立川さんは、これまでも私に同情的だった。だからか、にこやかな挨拶と軽い会話を交わすことが出来、ほっとする。


 お互いに仕事に集中し始めると、あとはカチャカチャとキーボードを叩く音だけになった。


 すると、やはり梨花は近付いて来ない。


 一度パントリーに珈琲を取りに行く時にちらっと横目で確認したら、同じ部署の男性先輩の隣にくっつき気味で何かを話していた。


 これはいける。これなら、会社を辞めなくても済むんじゃないか。


 大川さんに報告したい。だけど連絡先は交換していないから、だったら今日も『ピート』に行こう。そう思い立ち、私は久々に職場で気分よく業務をこなすことが出来たのだった。

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