第11話 誘い

 大川さんは、ジャケットを腕に抱えてネクタイを緩めながら私の横に座った。


「もう大分暑くなってきたね」

「う、うん。蒸しますよね」

「また敬語」

「あ、つい」


 いつもは、大川さんの方が先に来ている。だから、私はいつもひとつ席を空けて座っていた。


 だけど今日私が座るのは、いつも大川さんが座っている席。


 そして大川さんは、私のすぐ隣に座ったのだ。


「はいおしぼりどうぞ」


 マスターが、例のベルガモットの香りがするおしぼりを大川さんに渡す。


「あ、冷たい。さすがマスター」


 あはは、と穏やかに笑う大川さんの横で若干固まり気味な私に、マスターが口の端を小さく上げて意味深な一瞥をくれた。


 抗議の意味で軽く睨みつけたけど、あんまり効果はなかったみたいだ。マスターは口元を手首で隠すと、頬を緩ませる。


「マスター、どうしたんです? 随分機嫌がよさそうですけど」


 大川さんは緩い微笑みを見せながら、ちょっと不思議そうにマスターに尋ねた。マスターは、にやつきながら大川さんに答える。


 これは何か悪戯を考えている顔じゃないだろうか。嫌な予感がした。


「マリちゃんが可愛くて」

「ちょっと! マスター!」


 慌てて止めようとすると、大川さんが真顔で私を見た。


「え? マスターと月島さんて」


 やっぱり誤解された。私は慌てて首をぶんぶん横にふると、必死で大川さんに訴え始める。


「違うの! マスターってばすぐにこうやって私のことをからかうんだから!」


 すると、大川さんが笑顔に戻った。


「よかった」

「――え?」


 マスターと私が、同時に声を発する。マスターは何やら楽しげな目配せを送ってきているけど、私はそれを見ない様にした。そうすると大川さんを見てしまい、どうしていいか分からなくなって最終的におしぼりに目線を落とす。


 見かねたのか、マスターが大川さんに尋ねた。


「どうしたの? よかったって、何で?」


 それを聞いちゃうか。不安と期待から身動きが取れないでいると。


 大川さんが、ガサゴソと後ろポケットからスマホを取り出すと、画面を操作している。……なんだろうか。


「実は、会社の同僚がチケットを取ってたんだけど、急に出張が入っちゃって行けなくなっちゃって」


 大川さんは、そう言いながら私にスマホの画面を見せてくれた。画面を覗き込むと、『ドライブインシアター』とある。


「ドライブインシアターって?」

「はは、僕も同じことを同僚に聞いた」


 にこやかに笑う大川さん。大川さんの、細いと思っていたけど案外骨ぼったくて男らしい指が、画面をスクロールさせていく。広々とした広場に大型スクリーンが設置され、車が点々と駐車されているイメージ画像のところで停止した。


「今、少しずつ流行が戻ってきているらしいいよ」

「あ、これってアメリカの映画とかにあるやつじゃ!」


 車に乗ったまま巨大スクリーンで映画を観るやつだ。一度でいいから体験してみたいな、なんて子供心に思っていた記憶が甦る。


 大川さんが、クスッという笑いを漏らして頷いた。


「そうそう。行けないから行ってきたらって言われてチケットを譲ってもらったのはいいんだけど、月島さんが知ってる通り、僕はろくな友達がいないから」

「は、ははは……」


 確かに、ろくでもない友人の話しか聞いたことがない。新たに友人を作ろうにも、難しかったんだろうとは思う。


「でも、月島さんは久々に出来た安心出来る友人だと勝手に思ってて」

「え……っ」

「よかったら、一緒に行かないかな、と思って……」


 大川さんが、上目遣いで私をちらりと見た。目の下の頬が、ほんのり桃色に染まっているのは暑さからくるものだろうか。


「あ、勿論僕が送り迎えするから。その……だから、もしマスターとそういうのだったら連れ出しちゃ拙いかなと思って」


 それで「よかった」だったのか。どうしよう。すごく行きたい。だけど、だけど車は――。


「マリちゃん」


 マスターが、私の背中を押すような呼びかけをひと言放つ。


 その静かな声は、確かに私の背中を押した。


「い、行きます!」


 私のどう考えても必死さが窺えるだろう返答に、大川さんはそれはそれは朗らかで嬉しそうな笑みを浮かべたのだった。



 大川さんと、連絡先を交換した。「俺にも教えて」というので、大川さんはマスターとも連絡先を交換する。


 マスターも一緒に行きますかという大川さんの問いに、マスターは「仕事あるし」と即答した。「はい、そう言うと思ってて、初めから月島さんを狙ってました」と大川さんが笑うと、マスターがぐいっと身を乗り出してくる。


「俺は一応さ、マリちゃんの保護者のつもりだから」


 そう言ってウインクをした。そんなマスターを見て、大川さんはその真意を測りかねた様だ。笑みは浮かべているが、戸惑いが窺える表情で私とマスターを交互に見比べている。


 どうしよう。言った方がいいだろうか。でも、今いきなり私の家族の話をされては、大川さんもきっと困ってしまうだろう。


 迷った末に、大川さんに伝えた。


「私の話を、ドライブインシアターの時に聞いてもらっても、いい……?」


 私の意図は伝わったかは分からない。だけど、大川さんはとてもよく人の感情を読み取るから、小さく笑うと「うん」とだけ答えてくれた。


 大川さんは車を所有していないので、レンタカーを借りるつもりだという。お金は折半しようと提案すると、「僕はまだ月島さんに『ピート』への扉を開けてくれたお礼をしていなかったから。これでも全然足りないけど」とさらりと辞退されてしまった。


 扉を開けてくれた。まるで、大川さんが猫のピートみたいだ。


 それは大川さんも同じだったらしく、少し戯けた表情になってうそぶく。


「僕、猫っぽく見えない?」

「確かに」


 感情の起伏を大きく見せないところも、ゆるゆると滑らかに交わす会話も、確かに猫っぽい。私がうんうんと頷くと、マスターがからかう様に口を挟んだ。


「マリちゃんは犬っぽいよな」


 それに大川さんが乗っかる。


「尻尾を振って喜びを表現してそうだもんね」

「えっ私ってそんなイメージなの?」

「そりゃそうだろ」

「うん」


 二人の即答に私が口を尖らせると、マスターが可笑しそうに笑った後、「あ」とカウンターからいそいそと出た。


 なんだろうと思い、目で追う。マスターは、外国人作家のコーナーに行くと、「どこだっけ」と言いながら探し始めた。


 大川さんと顔を見合わせてマスターの様子を見守っていると、やがて二冊の文庫本を手に戻ってきた。


「これに出てくる犬のアインシュタインが、最高に可愛いんだ」

「アインシュタインだと男の子の犬じゃないですか」

「うん、まあ」


 あははと頭を掻いたマスターは、私の手の中に本を置いていく。


 作者名はディーン・クーンツ。タイトルは『ウォッチャーズ』、上下巻になっていた。


 マスターが、にやりと笑いかける。


「今日は金曜日だし、遅くまで開けててもいいよ」


 ここで心ゆくまで読んでいいよ、ということらしい。


「ついでに大川さんに送ってもらって、家の場所を教えてあげたらいいんじゃないか? 出発は明日の午後だろ?」

「え、でも」


 何やらスマホをいじり出した大川さんが、画面を私に見せる。


「レンタカー予約しちゃった。後は家の場所が分かると完璧かな」


 穏やかな口調で言われてしまい、悪いからと固辞することも出来ず。


 壁にある時計を確認した。まだ、七時を回ったところ。集中すれば、一冊二時間。


「――はい! 一気読みします!」

「じゃあ僕は、月島さんが読み終わった上巻を読ませてもらうまでマスターのオススメを読もうかな」

「お、いいのあるよー!」


 マスターにクラブハウスサンドを注文し、私は大川さんが終電に間に合うべく、一気に物語の世界へと飛び込んで行ったのだった。

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