第17話 先約
最初の映画の上映時間までまだ少し時間があったので、湖畔の遊歩道に立ち並ぶキッチンカーや屋台をゆっくりと見て回った。
人はそれなりに多いけど、ホラー映画だからか子連れは少なく、全体的にカップルが多い。
大川さんの固い手に包まれた自分の手の存在に集中しない様に努力はしてみたけど、やっぱりどうしても落ち着かなかった。
大川さんを見上げて見る限りは、大川さんは落ち着いている様に見える。だけど時折交差する視線で、大川さんが言っていた様に内心は焦っているのだと知った。
時折擦れ合う大川さんと私の手首。慣れないその感覚に、誰かと手を繋いだのなんて最後はいつだっただろうと考える。
多分、大学の時に少しの間だけ付き合った最初の彼氏が最後だ。そう考えた後に、いや、ついこの間大川さんに送ってもらった時に繋いでいたじゃないかと思い出した。
大川さんの話はまだ最後まで聞けていないけど、あの後は例の友人が話題に出ることはなかった。
多分、大川さんも私と一緒の気持ちだったんだと思う。
折角縮まった距離。他に知り合いなど会わないだろう場所で、何故二人で楽しく過ごしてはいけないのかと。
繋がれた手から、大川さんの体温が伝わってくる。それは確実に、私の中にあった『孤独』という虚無を埋めていっていた。
二人で他愛もない会話を交わしていると、会場に映画の上映の時間が迫っていることを知らせるアナウンスが響き渡る。
念の為お手洗いに寄らせてもらってから、飲み物と軽食を手に車へと戻った。車内は熱く、エアコンで一気に温度を下げる。
「そういえば、どうやって音を聞くのかな?」
映像は見えても、大音量で音声を流す訳にはいかないだろうと思っていると。
「FMラジオで聞くんだよ」
「へえ!」
なるほど、そういう仕組みになっているのかと感心した。でも、正直なところホラー映画の音声がラジオから聞こえてくるのは少し恐怖だ。
そんな私の怯えが顔に出ていたのだろう。大川さんが、やっぱり少し照れくさそうな笑みを見せながら、私に手を差し出す。
「もしかして、ホラー小説は読めてもホラー映画は苦手なんじゃない?」
「う……あは、あはは」
やはり見抜かれていたらしい。
大川さんの手に、そろそろと遠慮がちに手を重ねた。途端、大川さんがぎゅっと力強く私の手を握り締める。
「実は僕もあんまり得意じゃないんだ」
大川さんの目が真剣そのものなのは、これから訪れる恐怖の時間への怯えか、はたまた別の意味を含むのか。
だけど、ん? と思った。得意じゃない。誘ったのは大川さん。スティーブン・キングを涼しい顔で読んでいたのも大川さんなのに。
「え? そうなの?」
「観るのは避けてて。だってほら、……基本家にひとりだし」
実家にいた時は勉強の毎日で、進路変更後はずっとひとり暮らしだ。確かに最初のホラー映画をひとりで観るのは怖いかもしれない。
「……実は、ホラー小説も『シャイニング』が初めてだったりして」
「え! そうだったの!」
そうなんだ、と大川さんが笑顔で頷く。だから、と続けた。
「手を……繋いでいてもらえると安心する」
「う、うん……私も」
「それに」
大川さんの目が、泳ぐ。
「その、マスターの受け売りじゃないけど、お互い怖くたって、寄り掛かり合えばきっとそこまで怖くない、から」
「大川さん……」
私が大川さんに寄り掛かるだけだと、不平等で不均等に思えた。だけど、大川さんも寄り掛かってくれるなら。
そこでふと気付く。
もしかしたら、人付き合いを深くしていこうとしなかったのは、自分の中に燻るこの「自分ばかりが」という劣等感とも罪悪感とも言える感覚を常に抱えることを恐れていた所為なのでは、と。
巷でよく言う、重い女というやつだ。私は相手の重石にはなりたくはない。だけど、きっと温もりに飢えていた私は重くなってしまう。
巨大スクリーンに『間もなく上映開始となります』という文字が映し出される。その下にあるFMラジオの番号に調整を始める大川さん。
ザザザ、と何度かラジオが雑音を立てた。
調整が終わった瞬間から、スピーカーから小さめの不安を煽る様な音楽が流れ始める。音量を上げると、車内は一気に映画前の少しワクワクやドキドキする感覚に包まれた。
「これくらいかな?」
「うん、いいと思う」
選曲が怖いけど、これも演出の内なんだろう。
車内であればいくら悲鳴を上げようが周りの迷惑にはならないから、これは案外いいかもしれない。
大川さんが、クッションを抱き締めながら私を見た。熱の籠った目。私はそれに釘付けになる。
「……僕さ、月島さんが考えてるよりもきっと、もっとずっと不器用で口下手で重たい男だと思う」
「……うん」
「寂しがり屋だし、言いたいこともはっきり言えないし、笑って誤魔化しちゃうし」
大川さんの言葉は結構直球が多いと思っていたけど、あれでもそうらしい。
「うん」
クッションの奥から、励ます様に相槌を打つ。私もそうだよ、そういう思いも込めて。
「――例の友人と、ちゃんと話してみようと思うんだ」
「……え?」
私を見つめ返す大川さんの瞳からは、強い意志が感じられた。
「月島さんに何かをされるのは絶対に嫌なんだ。だから、ちゃんと話して、理解してくれるまで話し合って、それでそうしたら……」
ごくん、と大川さんの喉が鳴る。
まさか、これは。
そんな考えが一瞬だけ脳裏をよぎったけど、それ以上は深く考えられなかった。
大川さんの眼差しが熱過ぎて。
「その時、改めて月島さんに交際を申し込みたい」
「大川さん……」
大川さんが、狂おしそうな目で私を見つめ続ける。
「我ながら卑怯だなって思ってる。先約だけして、結局は月島さんを縛り付ける行為だと分かってる」
はっきり出来ないもどかしさ。それが私を苦しめることになるかもしれないと、大川さんはそう言いたいんだろう。大川さん自身だって苦しむだろうに。でもそれも、私にはそうしたくなる気持ちが理解出来た。
大川さんは――怖いのだ。
大川さんの手を、もう片方の手で上から包む。
「大丈夫だよ。大川さんが私のことを心配してるのが伝わってるから。ちゃんと、待つ。待ってる」
「うん……ありがとう、月島さん」
「うん」
大川さんの瞳は潤んでいた。二人を包むBGMは、おどろおどろしい音楽。ホラー映画を観る直前に交わす会話じゃないなと、どこか客観的な私が俯瞰してこの光景を眺めている。
だけど、そんなのも私たちらしくていいじゃないか。
常に華やかで明るいステージの中心にいる梨花と違い、私は自分の人生なのに舞台袖から流れる自分の時間をただ眺めている気がしていた。
でもそれは、大川さんも一緒だったんじゃないか。
母親の関心は自分という個人にではなく、医者の息子という固有名詞に注がれていたこと。自由になろうと足掻いた弟は、きっと大川さんの目にはそれこそステージの中心に立っている様に見えたのかもしれない。
そこに立ちたい。でも、そこに立ったら母親はもう振り返ってくれない。
大川さんは、ずっと寂しかったんだろう。ずっと、自分自身を見て欲しかった。
そんな時に出会った新たな友人。
それまで疑うことなく言われた通りのことを受け入れてきていた大川さんが、その友人といることで何を得たのかは分からない。大川さんが語らない限り、私には知り得ない。
だけど思うのだ。
大川さんは、そこに孤独を埋める救いを求めたんじゃないか、と。
私が『ピート』とマスターに求めた様に。
私はそれで救われ、少しずつ心の穴を埋めてきた。だけど、大川さんは。
だから、ちゃんと伝えよう。
「でも、今からでも大川さんを支えたい。大川さんは、私にとってとても大切な人だから」
「うん……ありがとう月島さん。ちゃんと相談する」
「うん、ひとりで抱えないで」
「うん、うん……」
大川さんの額が、私の肩に乗る。泣いているのかは分からない。見られたくないのなら、見ないでおこう。
やがて、FMラジオから上映開始のアナウンスが流れ始める。
「大川さん、手を繋いでてね」
「うん、月島さんも離さないでよ」
顔を上げた大川さんは、笑顔に戻っていた。クッションを抱き締め、スクリーンに視線を移す。
似通った深淵を覗いてきた私たち。互いに抱えるのは、深い孤独だ。
その孤独を知るが故に、私たちは互いに惹かれ合っていったのかもしれない。
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