第二章 その4
僕は大きく息を吸った。温いとも涼しいとも感じられない空気に肺が膨張する。そして口から生気を感じさせる吐息が漏れた。
「じゃあ。始めよう」
「まずは、そうね。鈴の音よりも先に、この場所について話す必要があるかも。
ここは…、成れ果ての世界、って言うべきなのかな。人間の世界には神様がいっぱい祀られているでしょ。それはもう東西南北何千もの神様がいる。付喪神のことを出しちゃえばその数に限りなんて無くなっちゃうほどにね。
じゃあちょっと質問。誰も参拝しなくなった神社とか、誰も使わなくなった由緒ある品に宿る神様は最終的にどうなっちゃうと思う?ずっとその場に残り続けるのかな?それとも、消えてなくなっちゃうのかな」
何も答えられない。想像したこともなかった。誰も参拝しない神社や使われなくなったものと言うのは、つまり誰の記憶にも残っていないか、大して重要な意味を持たない物に成り果てたということだろう。僕は常に記憶に残していない側であり、使わないから捨てる側でもある。だからこそ、答えられない。
「黙ってちゃ話が進まないよ。
そうだね、仮にその場に残り続けるとしよっか。じゃあ、その神社が取り壊されたら?経年劣化によって自然に朽ちてしまったら?その時神様はどうなちゃうんだろう」
僕は生唾を飲む。
「多分…、死ぬ」
腿の上に作られた握りこぶしに力が入る。その中は汗でびっしょりと濡れている。
「死ぬ、ね。それは半分正解で、半分間違いだね。
答えはね、神としては死ぬ。だけど、別の何かとして形を変えて存在し続けるの。形を変えて、皮を変えて、そして成れ果てる。誰にも祀られることなく、役割を終えた神様たちはそうしてこの薄闇の中で蠢く何かに成れ果てる。ここはそんな成れ果てたものたちの行きつく場所。
だから成れ果ての世界、なの」
成れ果てる、それは自分が自分じゃなくなる、ということなのか。元の自分の、一分一秒と積み重ねていった歴史の一切が腐って剥がれ落ちていく。そして残るのは成れの果て。吐き気にも似た気持ち悪さが込み上げてくる。だが、同時にどこか親近感も湧いていた。過去を無くした僕と、成れ果てた神様。そのどこがどのくらい違うのか。そう違いは無いのではないか。そんな安らぎと同時に恐ろしい想像をしてしまう。
「あの鈴の音もね、成れの果ての一部なの。私たちは本体を見てないから憶測でしかないけど、鈴を持った本体はこの小屋よりも遥かに大きいはずよ。鈴の音が屋根の真上から聞こえたでしょ。多分その場所に手があって鈴が吊り下げられていたのよ。だからそいつの顔はもっと高いところにある」
およそ想像の範疇を超えていた。僕と、恐らく金木犀も、鈴の音というものを想像して音以外のものを想像することはなかったはずだ。それは間違いなく音であり、音でしかなかったからだ。その鈴は生き物としてありえない高さの位置から鳴らされていたから、どこかスピリチュアルというか、とても姿かたちのない霊的な何かから発せられている音だと思っていた。
フォクシー曰くそれは間違いなくスピリチュアルであり、霊的な何かであるらしいが、それに像が結んできたことによってより恐怖感が増してきた。
「二人とも、顔青いけど…。少し休憩する?」
ちらりと前を向くと、口を真一文字に結んだ金木犀の姿があった。あまり辛そうという感じはしないが、とても不愉快そうではある。それがどんな心境の発露なのか詳しくは知れない。
金木犀のことを慮って一度休憩を入れた方が良いだろうか。だが、状況が状況なだけあって先延ばしにしてもあまり意味がないように思える。嫌なことを長々とやるのは苦痛だ。なら、一気に片づけてしまえば後が幾分か楽になるだろう。
「いや、続けてくれ」
僕は言い切った。
「そぅ、何かあったらいつでも言ってね。
とはいっても、あとは何を話せばいいのかな…」
フォクシーはそう言って首を傾げて唸り始めた。視線は中空を見つめ、思考に潜っている。
質問したいことなら、ある。一つだけ、許されない質問が。思いつくだけなら咎められることなんてないと思うが、口にしただけで全てが無下になるような。そんな質問が。
それは、フォクシーはどんな神の成れの果てなのか、だ。僕を知っているフォクシーは昔の僕といつ出会ったのか。成れ果てた前か、後なのか。どんな関係で、どんなやり取りをしてきたのか。
僕がこの好奇心に殺されたら止めどなく質問が溢れてくるだろう。それはこの場で最も罪深いことだということは分かっている。分かっているんだ。だが、それが僕の過去の一切を知り、罪を悔いることに繋がるような気もする。
だが、もし僕が好奇心に殺されるようなことがあったら、フォクシーや金木犀も道連れにしてしまうだろう。心中をするにしては自暴自棄さがちと足りない。なら、多少回り道をしてでも円満を目指すべきだ。
「質問なら、ある。
僕の記憶について。どうしたら戻ると思う?」
「……」
フォクシーは何も言わない。だが、その口とは対照的に、僕の眼球を抉るような鋭い視線が妙な抑揚を生んでいた。
喉にチリチリとしたむず痒さを感じる。それをどうにか抑えたくって、固唾を飲んでみる。しかし、どうにも治る気配はない。
「本当に、思い出したいの?」
フォクシーは思いつめたように訊いた。多分、フォクシーは僕の答えを理解している。でも、訊かずにはいられなかったのだろう。訊いて、自分の感情に折り合いを付けなくてはならなかったのだろう。簡単で、だけど全く理解できない気持ちを理解するために。その気持ちが一体何なのか、僕にも分からないけど。
「思い出したい、じゃない。思い出さなくちゃならないことなんだよ、これは」
「ならない、ってずいぶんな言い様だね」
「そうなんだから、仕方ないよ。金木犀が何者なのかとか、あの神社で何が起こったのかとか、それって全部僕の記憶に帰着するものだし。だから…」
「だから?」
「手を放すわけにはいかない」
口から滑るように漏れ出た言葉は、僕の耳にも、恐らくフォクシーの耳にも、すんなりと入ったようだった。フォクシーは妙に納得した顔をして、「しかたないなぁ、まったく」と言った。言葉の字面だけを見ると、あまり好感を持っているようには見えない。だが、その表情は、本当に、妙に、納得したようだった。もはや嬉しそうにも見えた。心なしか尻尾もゆさゆさと揺れている。
「どうせ私が教えなくっても、二人で闇雲に探し始めるんでしょ?そんなの危なっかしいったらありゃしないから、白状するわよ」
段々と尻尾の揺れが大きくなっている。フォクシーの顔は斜め上に逸らされており、表情を伺うのは難しい。だからといって分からないわけではない。だって、表情より豊かな尻尾がこんなにも主張しているのだから。でも、どうしてそんなに嬉しそうなのか。
「あんたの記憶を戻すための方法よね…。といっても、これをすれば確実に戻る!なんて方法は知らないのよね。可能性が高いのは一つだけ思いつくんだけど」
そして申し訳ない表情をして見せた。
「なんにも分からないよりかは遥かに心強いよ。だからさ、言ってみて」
「……。さっきここが成れ果ての世界ってことは説明したよね」
「あぁ」
「あんたが以前にこの場所で記憶をなくしたのは、多分間違いない。私にも心当たりがある。なら、この世界にあんたと、そこの…、金木犀と所縁のある記憶の成れの果てがあるんじゃないかって思うの」
「記憶の、成れの果て?」
「そう。記憶の成れの果て。どんな形なのか、どこに何があるのかとか、私も詳しくは分からないけど、この世界で記憶を失くしたのならその可能性は高い、と思う」
フォクシーはおおむね僕の目を見て言った。しかし、「思う」という言葉を使うたびに、自信無さげに視線は宙を舞った。フォクシーも不安なんだろう。
「探し物の鉄則って、失くした場所から探すことよね。どこで失くしたか、何か目星はついてたり、する?」
僕は思わず金木犀の方に目を向ける。そして目が合った。唇は噤まれており、手は胸の前で握られている。僕と視線があっても、その姿勢を崩そうとはしていない。
記憶、と言えば金木犀の夢だろうか。夢の出来事を記憶と言ってもいいのかな、と刹那に思ったが、夢は記憶の整理の副産物である、という話も聞いたことがある。なら、ニアリーイコールなのかもしれない。なら、思いつく場所は一か所だ。
「神社の、祭り」
「えっ?」
「夢の中で僕は金木犀と、いや違うのかな、金木犀とよく似た女の子と神社の祭りの中を歩いていたんだ。とっても周りは賑やかで、手が暖かかった…」
僕は思考を脳裏に寄せながら、反芻していた。
「何て言うか、その、物凄く綺麗で、きらきらしてて…」
呆けたように僕は言った。言って少しすると、自分の言ったセリフが物凄く気恥ずかしかったと気付き、慌てて取り繕うとした。
「あぁ、あの、あれだよ、あれ。あの子の着ている着物の装丁がね、光に反射して綺麗だったってね。そういうこと。あはは…」
視界が広い。その時になって僕は自分の目が泳いでいることに気が付いた。あぁ、なんて情けないんだ。何が情けないって、本音を言っているのにそれを取り繕ってしまったことが何よりも恥ずかしい。穴があったら入りたい。なんなら自分で掘ってしまおうか。
そんなことを思いつつ、視界の下側にフォクシーの姿が映った。死角ぎみだったから、どんな様子なのかははっきりとしない。しかし、笑われているか、引かれているか、どちらにしてもこっちがダメージを負うことは避けられないだろう。そう半ば諦めかけていた。
だが、どうにも動きが鈍い。まるでフォクシーの周りだけ時が止まっているかのようだった。焦点をフォクシーの影に移す。
フォクシーは、口を半開きにしながら呆けていた。まるで呆気に取られているという言葉を絵に描いたように、ぼんやりとしている。
「フォクシーさんや、どうしたんだい?」
僕のおどけた問いかけに、いまだ心ここにあらずと言った様子で「えぇ、だいじょうぶ」と答えた。そして続けた。
「素敵な、夢ね」
それだけ。それだけだった。そしてその口は、ほぅ、と小さく息を漏らした。
そう、素敵な夢だった。ほんとうにそうであったのか誰も分からない夢。素敵で、甘い夢。
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