第三章 その4

ついさっき角を曲がるまで人っ子一人いなかったはずなのに、今では喧騒が祭りの雰囲気を支配していた。

「兄ちゃん、顔色が悪いぜ。人酔いでもしちまったか?」

もう一度振り返ると、爺さんが屋台から体を乗り出して心配そうに声を投げていた。


「一息ついたみたいで何よりだ。後ろで休んでいき」

折りたたみ式の簡易椅子に座った僕は、半ば脱力したように目を閉じた。そして指を目頭まで持っていき、強く揉んでみた。そのまま宙を仰ぐようにして上を向く。目を瞑っているのにも関わらず、視界は明るい。裸の電灯の光が白いテントに反射しているのだ。それがなんとも眩しくって、僕は徐に手で光を遮った。

膝上にはささやかな重みを感じる。その重さは不規則に動きながら、優しい暖かさをもたらしていた。膝の上に居るフォクシーに息がかからないように、虚空にため息を吐いた。

「ったく、本当に意味が分からない…」

それはただの愚痴だった。誰かに聞いてほしいとか、そんな意思はなく、ただ感情の器が一杯いっぱいになって溢れ出た吐露でしかなかった。

ただ、そんな配慮はエゴに過ぎないのだろう。直接的でないにしろ、近くに居れば否応なしに感じざるを得ないのだから。

「ねぇ、あんた、落ち着いた?」

膝から投げられた言葉に反応しようと、僕は目を開けて視線を落とした。すると、ぴとっと柔らかな何かが頬に触れた。焦点を手前に移すと、それはフォクシーの小さなあんよだということが分かった。

流石の僕もこれには慣れてきた。さっきまでこのあんよで僕の耳たぶをパンチしてたんだ。この感覚は別段新鮮でも無くなっていた。

そのとき、僕は油断していたようだった。

見てしまった。薄く澄んだ黄緑色の瞳が、僕を心配そうに伺っているのを。まるでそれは太陽の光でエメラルド色に輝く水草と、それを揺蕩わせている清水の水面のようだった。その大きな瞳に映っている僕の像は、不安げに揺れている。

「やっぱりどこか悪い?」

「い、いや。俺の方は全然大丈夫。

それよりもフォクシーは?怪我とかない?」

「私はモーマンタイよ。飛ばされた時はちょっとくらついたけど、もうだいぶ経ったしね」

フォクシーの視線が不意に落とされた。その先は、僕の手のひらだった。空気に晒されて暖かさを欠いた手のひらを名残惜しそうに見つめている。

そして、刹那の後、フォクシーはひょいと膝から飛び降りて、屋台の爺さんの方に歩いていった。そして爺さんの腰を鼻で小突いた。フォクシーの存在に気が付いた爺さんは、小さく驚きを混ぜた了解の言葉を言って、僕の方に振り向いた。

「だいぶ顔色もよくなったみたいだな」

「えぇ、その、おかげさまで」

「俺はなにも感謝されることなんざなにもしてねぇよ。お礼はそこのお嬢ちゃんに言ってやりな。心配そうにしてたんだからよ」

「あぁ、えっと、ありがとう…」

「どういたしまして」

得意げに口吻を上げたフォクシーに、にやけ顔を張り付けた爺さんの板挟みだ。ここは素直にするしかあるまい。

酷く疲れてしまった。足は鉛のように地面に沈み、筋肉の弛緩した腕はぼろ人形のようだった。そんな折に小さな違和感を覚えた。喉が渇いていない。あれだけ全力疾走し、尚且つ緊張の最中に居たはずなのにも関わらず、いやに何も感じない。そう言えば、この世界に来てからどれほど経ったのかは分からないが、今まで何かを口にした記憶はない。それなのに喉はおろか腹も空いていない。

これまでにも何度か、この場所が自分の知っている世界とは異なる場所なのだ、という認識はあった。しかし、生理的な欲求の乖離はあまりに僕に深く印象づけた。ここが理から外れた果ての世界なのだと。

僕は腿をさすりながら立ち上がった。そして簡易椅子を片手で持って爺さんの近くに歩み寄った。

これまでのやり取りで爺さんが受け答えを出来ることはよく分かった。なら、この祭りが一体なんなのか、ということも話してくれるだろう。

簡易椅子を下ろし、そこに座ろうとした。すると、椅子の足に地面からでた石が噛んでいたようで、四つ足がぐらついた。なんとか居住まいを正し、爺さんの背中に向いた。すると、フォクシーも僕の膝の上に飛び乗ってきた。

その行動に、爺さんは戸惑ったような表情を浮かべた。

「どうしたどうした。そんな改まって、まだ休んどき」

「いや、ちょっとそうもいかないんです」

「…。最初に言ってた例の子の事かい?」

「そう、ですね。間接的にですけど、その通りです」

「ふぅ、分かったよ。店を続けながらでいいなら、何でも訊いてくれや」


小さな子どもたちがきゃっきゃっと笑い声をあげながら、金魚の入ったプールを囲んでいる。誰が一番多く取るだとか、一番大きい奴はどれだとか、取り留めのない競争をしている。僕はその光景をぼうっと視界に映しながら、意識は爺さんの背中に向けていた。

「この祭りって、どんな祭りなんですか?」

「祭り?これまた変なことを訊くね?それが居なくなった子と関係が?」

「分かりません、でも、だからこそ知りたいんです」

爺さんは半身で僕の方を一瞥し、不思議そうな顔を浮かべた。

「まぁ、訊かれたからにゃ答えるが。

これは、豊穣の祭りだよ。金狐祭と呼ばれちょる。干ばつとか、飢饉だとか、まぁそういう天災を鎮めるための祭りだな。しかしまぁ、今はこうして毎年楽しく催してるが、昔はそうもいかなかったらしい。何があったのかはよくわからんがな。

豊穣の神さんなら、ほれ、狐が相場だろ。ここもその狐を祀っておるんだ。豊穣を司る狐様だな」

狐様。この世界で何度も見た狐。狐地蔵に、白狐の面を被った人影、そして、今僕の膝の上に座っているフォクシー。こうも狐が付きまとってくると、偶然とは思いにくい。

「昔はそうもいかなかったって、どういう意味です?」

爺さんの話の中で含みのあった部分に、一抹の不安と好奇心を覚え訊いてみた。すると、爺さんは胸の前で腕を組み、思案するように小さく唸り始めた。

「そうだなぁ、俺もよく分からんのだが、昔、俺のばっちゃんがよく言ってたんだ。金狐祭の時にゃ、一人で迂闊に外に出るな。外には〝饐えた(すえた)稲穂〟がいる、ってな。小さいときはそれはもう怖かったもんよ。いつもニコニコしてたばっちゃんが恐ろしく見えてな。理由は分からないが、その恐ろしさで逆に寝れなかったもんよ。

話がズレたな。まぁ、俺が生まれるよりも前に何があったかは分からないが、それが良くない事だった、ってことはなんとなく分かったんだ。ばっちゃんもそれ以上なにも言わなかったし、言おうともしなかった」

そして爺さんは口を真一文字に結んだ。

饐えた稲穂、すえた、いなほ…。この言葉がどうにも頭の中で引っかかる。まるで釣り針のように曲がった針が水流に晒されて錐揉みしているかのようだ。脳の至る所に引っかかって神経を刺激している。

僕は思わずこめかみに指を添えた。そして視線を下にずらす。すると、膝の上に乗っているフォクシーの姿が見えた。しかし、様子がおかしい。フォクシーの目は大きく見開かれており、瞳孔が異様に細くなっている。その視線は虚空を向いている。

「おい、フォクシー。どうした?」

その問いかけに反応をする。しかし、その動きはあまりに生き物らしくなく、まるでブリキ人形のようだった。首が軋むように動き、僕の方を向く。

「コ…、ごめん。なんでもない。全然大丈夫だから」

大丈夫そうには、見えない。

「もしかして、何か分かったり―」

「何も分からないから!だから、何も訊かないで、お願い」

その鬼気迫る様子は、やはり大丈夫には見えない。訊かないで、という言葉には冷たい刺が生えていた。迂闊に触れればその刺は僕に刺さり、フォクシーは刺の断面から血を流すことだろう。

「分かった。何も訊かない…。そもそもそういう約束だしな」

フォクシーは特に反応をしなかった。ただ、いつの間にか視線を前に戻し、瞳を不安げに揺らしながら虚空を見つめていた。

「君たち、ほんとに大丈夫かい?一度家に帰った方がいいんじゃないかい?」

心配そうに投げられた言葉は、爺さんの口からだった。しかし、僕たちには帰る場所はない。少なくともこの夢の成れの果てには。

「いや、あの子を見つけるまでは、帰れないんです…。」

「そうかい、まぁ、訳は訊かんよ。訊くのは兄ちゃんの方だもんな。ほら、何か他にあるかい?」

気前のいい爺さんに胸中感謝をしながら、他に何か訊かなければならないことを思いだす。

そういえば、広場には神輿が置いてあった。それも白狐の人影の中でも埋もれて見えなくならないほどに大きな神輿が。一見、人一人が入ったとしてもお釣りがくるほどに大きい神輿だったように見えた。もしかして…。

「あの、さっき言われたとおりに広場に行ったんですけど、そこに立派な神輿が置かれてたんです。あの神輿の中に何があるのか、分かったりします?」

「神輿、か。流石に神輿の中までは分からんなぁ。ただ、普通に考えると金狐神社の神さんが入ってるんじゃねぇのか?本人じゃないにしても、依り代みたいなやつが、とか。断言はできねぇけどな」

「なるほど…」

自分でもまさかとは思う。あの中に金木犀が入っているとは考えられない。でも、感じた。あの神輿がこの祭りの中で、とりわけ異様な雰囲気を醸し出していた。それなら一度神輿の元に行かなければならないだろう。

目的地は見えた。だが、そうなるとやはり、大きな問題が出てくる。

「最後に一つだけ、あの広場に白狐の面を付けた人が大勢居たんですけど、あれってなんの集団なんですか?」

「ん、白狐?……?はて、覚えはねぇな。白狐といえば金狐神社では神さんの遣いって意味だったと思うが、でもそんな恰好をしている奴なんて見たことねぇぞ。

兄ちゃん、そんな恰好をした奴らを見たんけ?」

感心した様子で尋ねた爺さんは、まじまじと僕らを見つめている。

「えぇ、まぁ」

「そいつはすげぇ。しかしまぁ、合点がいったわ。どおりでびっくりしてここまで走ってきたわけだ。だが、金狐神社の神さんはこの土地を守ってくれてるんだ。悪い神さんじゃねぇよ」

そう言って、爺さんは僕の肩を豪快に叩き、激励を送った。そして「俺にも縁起を分けてくれや」と冗談めいて言った。

爺さんは白狐の集団を悪い奴らじゃない、と言った。だが、それはどうだろうか。僕にはあの視線に優しさを感じなかった。ただ、僕とフォクシーを物としてしか扱っていないような、無感情があった。どれだけ優しい人でも、路傍の小石を可哀そうと思う人は居ないだろう。まさに、あの視線はそんな感じだった。

しかし、路傍の小石と決定的に異なる点があることは確かだった。それは、明確な意思を向けられたことだった。路傍といっても、恐らくそこは参道のような場所なのだろう。神聖な道に転がる小石、それは彼らの目にはどう映るのだろう。敵体感か嫌悪感か、いずれにしてもあの視線は僕を排除するかのような意思を感じてしまった。それが気のせいならいいのだけれど。

「……。分かりました。色々とありがとうございました」

「なに、いいってことよ。これでも若い子を相手をする仕事をしてんだ。裏で休ませたり、話するくらい面倒にもなりゃしないさ。

もう行くんだろ?なら早く見つけてやんな。はぐれちまった子をさ。見つけたらまたここに来て金魚すくいでもやってくれりゃそれでいいからさ」

僕が立とうとすると、フォクシーが肩に飛び乗って定位置についた。そして深々とお辞儀をする。

爺さんが、夢の中の虚像だとしても、何も残ることのない有象無象だとしても、僕の創り出したまぼろしだとしても、感謝だけは。

そして僕は天幕を出た。その先に何が居るのかは分からないけど、そこに金木犀が待っているのならば、歩みを止めることはできない。

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