第三章 その3

僕はオブラートに包んで言ったぞ。これでも相当配慮して言ったっていうのに。

「…。なんでもありません」

「よろしい。じゃ、いきましょ」

一瞬、首筋に冷たい波が押し寄せたが、等間隔に揺れる暖かな尻尾の感触が僕の背中を押してくれていた。


そこは静謐な空気が影に潜み、おおらかな雰囲気が辺りを包んでいた。甚平を着た小さな子どもが自分の頭よりも大きい綿あめに必死に噛り付いている。時折隙間から覗かせる表情は集中しながらも晴れ晴れとしている。相変わらず祭囃子は単調に響いていた。そういえば、この囃子は一体どこから鳴っているのだろう。

「ここまで戻ってきたはいいけど…、どうするの?」

フォクシーは僕の肩の上に乗りながら、耳たぶをぺちぺちと叩いてくる。どうやら柔らかい感覚が癖になっているようで、祭囃子のテンポに合わせてねこパンチならぬきつねパンチを繰り出している。

「どうしようか。何をするかとか、全然決めてないんだけど…」

半ば見切り発車でここまで戻ってきたからか、僕の言葉は中途半端な場所で途切れた。すると、遊びに夢中になっていたフォクシーが息巻くようにして言った。

「ならあれよ。こういう時は聞き込みに限るわね!」

「はぁ?聞き込みって、ここの人たちに?」

「そりゃそうでしょ。他に誰がいるっての?」

「いやだってさ、さっき金木犀を探し回ってたときだって、周りの人は僕に目もくれなかったよ?相当大声で叫んでたはずだったけど」

「ん?つまり、話かけても無駄っていうこと?…でもさ、それってあんたは話しかけてないんでしょ?」

……。そう言えば、話しかけていないはずだ。あの時は、いくら祭りが賑やかでもここまで血相変えて叫んでいた奴を無視することなんて出来ないだろう、と考えていた。だからこそ、僕に全くの無関心を貫いていた周りの人々に線引きをしていた。彼らはまぼろしでそこには存在しない、と。

とは言いつつも、やはり聞き込みなんて出来るとは思えない。どうにもここは浮世離れている。文字通りに。

「なぁ、やっぱり無理なんじゃ―」

「ねぇねぇ、おじさん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」

僕の拒絶の言葉に被せるようにしてフォクシーの声が届いた。その声は少し遠巻きに聞こえた。慌てて周囲を見回すと、フォクシーは手前側にあった金魚すくいの初老の店主に話しかけていた。

僕はフォクシーの名前を呼ぼうとして息を短く吸い込んだ。すると。

「なんだい、お嬢ちゃん」

好々爺を地で行くような優し気な声が聞こえてきた。その声の主は、恐らく金魚すくいの店主だ。

僕は目を疑った。何しろ色々とありえないと思っていた事がいっぺんに起こっていたからだ。当然この世界の人々が反応を示したことも驚きだ。会話が成立する以前に言葉を交わせるとも思っていなかった。それに…、フォクシーはきつねだぞ。きつねが、話してるんだぞ!それを、「お嬢ちゃん」で済ませる時点で異常極まりない。どれだけ肝が据わってる爺さんなのか、それとも老眼か。いや、どちらにしても狂気じみている。

「あのね、女の子を探してるの。はぐれちゃったみたいでね。髪はちょっと短めで、黄色い花のヘアピンをつけてるの。服は薄緑色のワンピースで、明るめな雰囲気の子、おじさん知らない?」

身振り手振りを交えつつ金木犀の特徴を説明していく。時折爺さんからは「うーん」という唸り声が漏れていた。そして腕を組んで深く考え込んでいるようだ。その仕草は、まさしく人間だ。

「ごめんねぇ、お嬢ちゃん。おじさんは見てないかな。少なくともここには来てないねぇ」

「そぅ、わかったわ。ありがとうね!お爺さん!」

残念そうな表情をした二人だったが、すぐに顔色を明るくし、にこやかに手を振り始めた。手を振るたびに足元に広がっているビニールプールの水面が不規則に揺れる。

「そうだ、金魚すくいやってくかい?祭りと言えばこれでしょ」

そして店主の爺さんは口を大きく開けながら愉快そうに笑いはじめた。

「ごめんなさい、お金がないの。やりたいのはやまやまなんだけど…」

ここからフォクシーの残念そうな横顔が見える。テントの上部からは値段表らしき段ボール板が垂れていた。一回300円か。

「僕が払うよ」

僕は声をかけながら歩いていた。

こんなことをしている時間があるのかという自問自答がなかったとは言わない。だが、あの横顔が、寂しそうな表情がどうにも心を締め付ける気がした。すると、いつの間にか口をついて出ていた。

「おっ、兄ちゃん。お嬢ちゃんの連れかい?」

「まぁ、そんなところです」

にやにやとした爺さんの表情がなんともこそばゆい。いや、相手はきつねとまぼろしだぞ。気をしっかり持て、自分。

手の中に何か固いものが滑り込んできた。それをよく見てみると、簡素な造りのすくいだった。安っぽい色で着色されたプラスチックの縁取りと、内側の柔らかい紙でできたものだ。僕は数回手の中ですくいを弄んだあと、プールの前に座り込んだ。

「意気込みのほどは?」

「やったことないんでわかんないですね」

「おっと初見さんかい。じゃあヒントをあげよう。何事も思い切りが重要だよ」

何気なく店主の爺さんのほうに視線を移すと、僕を見てウインクしている。なにかすごく嫌なものを見たような気がして、僕はすぐに目を逸らした。

そして紙が湿り気を帯び始めた。


「まいど!」

景気の良い声が背中から響いている。フォクシーは僕の肩に乗って後ろを振り返っている。どうやら手を振っているようだ。尻尾の毛は柔らかく空気を含み、左右に揺らされている。僕は片手に水袋を下げ、そこに入っている数匹の変哲のない金魚を一瞥した。

僕は、ここまで来て何をしているんだ。もっと焦るべきだろう。金木犀が消えたと分かった時のように。しかし、どこか満ち足りた感覚も存在しており、それが心に均衡を生んでいた。

「いやぁ、大漁だね!初めてって言ってた割に案外取れたじゃない。体が覚えてたのかもね」

体が、覚えていた。まぁ、そうなのかもしれない。記憶が無くても、体の経験がどこかで生きていたのかもしれない。

「まったく、どうなることかと思ったよ。もうこんなのは無しだぞ」

「えぇ?けちんぼ」

「言ってろ」

なんだろう。こう軽口を言っているのは楽しい。そう、あまりに楽しいのだ。全く、当初の目的を忘れてしまいそうになるほどに。

「いいじゃん、いいじゃん。ちゃんと情報は手に入れたよ」

「まぁ、それはそうだけど…」

僕が金魚すくいをした後、水袋の準備をしてくれていた店主の爺さんが、「祭りの中心はここじゃねぇ。店を右に曲がった道に沿って歩いていくと広場がある。そこで狐神輿とやぐらがあってだな、みんなそこで踊ってるから。探してる子がいるんならそこかもな」と教えてくれた。だからまぁ、全くの無駄という訳ではなかった。本音を言えば、別に店主の爺さんの助言がなくても無駄とは思わなかっただろう。僕の肩の上で鼻歌を歌っている様子だけで、まぁ、悪い気はしない。

「広場ってこっちでいいんだよな」

「右に曲がって、真っすぐでしょ?合ってると思うけど…」

参道の屋台の数は少なくなってきた。しかし、それと同時に人の数は増えていく。その人込みは僕らが向かう方に流れている。あとは多分、その流れに身を任せればいいはずだった。だが、一瞬脳裏に金木犀の顔が浮かんだ。少し道草は喰い過ぎたかもしれない。少しくらい急がなきゃ、あの金木犀だって拗ねてしまうだろう。

僕は人込みを掻き分けるようにして進み始めた。ぶつかる肩に「ごめんなさい」と残し、僕は先に進んだ。たまに「ちょっと」や「おい」と不満の声が耳に届いた。少し罪悪感は覚えた。この人たちも話せるのか、と呆けた感想を抱きつつ、申し訳程度の謝罪の句を言っていく。

人の波を掻き分け、そうしてなんとか奥に進んでいく。自分でもちゃんと前に行けてるかどうかわからない。足踏みをしているような感覚に襲われながら、それでも人影を後ろに残していく。

すると、急に視界が晴れた。そしてそのまま僕は前に大きくつんのめった。寸でのところで手を前に出し、地面に顔をぶつけないようにする。僕に大事はなかった。水袋も無事らしい。しかし、僕の肩に乗っていたフォクシーは勢いを殺し切れなかったようで、僕の肩から空中を飛んでいき、そのまま地面をころころと転がっていった。そして何かにぶつかって止まった。当のフォクシーは目を回しながら頭を揺らしている。

人込みから出ただけでこうもつんのめるものかと不思議に思った僕は、元来た方向に視線を上げた。すると。

「えっ、なんで…?」

そこには群衆はなかった。視界には誰も居ない。あるのは、踏み固められた土と、くたっとしたオオバコの芽。人の姿はまったく見えなかった。まるで、最初からそこには誰も居なかったかのように。

少しの間唖然としていると、前から小さな呻き声が聞こえ始めた。

「うぅ、いったぁ…」

前を向き直すと、フォクシーが左前足を地面に突きながら、もう片足で頭を押さえていた。

しかし、僕の視線はすぐにフォクシーから離れた。そしてもっと上、フォクシーがぶつかったものに対して向けられた。

フォクシーがぶつかったのは、人だった。美しい浴衣を着た、人影だった。足袋を履き、ゆったりとした浴衣の裾を覗かせていた。多分、盆踊りのようなものをしていたのだろう。やぐらの前に居るのだからそうに違いない。そして、そのまま視線を上に。

「……!」

その白い肌はまるでせともののように血の気がなく、所々に真っ赤な模様が入っている。その顔は面長であり、数本の長い毛にキツイ印象の吊り上がった目尻が張り付いていた。そして、頭上に伸びた二本の耳。それは狐の顔だった。それも本物の白狐と見紛うほどに精巧に出来た狐の面だった。

その白狐の面が僕の方を向いている。気が付くと、同じような白狐の面をした人影がやぐらを中心として円を描くようにして立っている。彼らも目の前の人影と同様に一様にして僕を見ている。

僕は白狐の磁器のような顔から目が離せなかった。多分、恐怖していた。自分でもよく分からないが、それは頭が混乱していて思考が十分に回っていなかったのだろう。

面に空いた二つの穴の奥、そこには黄緑色の瞳があった。しかし、その瞳は人間のそれとはかけ離れていた。獣のように、縦に細い瞳孔。それが糸のような細さから、一瞬にして満月のような丸に変わった。その瞬間、悟った。

逃げなければ。

僕はまだ状況が理解しきっていないフォクシーの首根っこを掴み、両腕に抱き寄せた。もう水袋なんてどうでもよく、人影に投げつけるようにして捨てた。そして脱兎のごとく駆けだした。狐を前にして脱兎の如くなんて縁起が悪そうだが、戦うすべのない僕にはその表現が適切に違いなかった。振り向く際、白狐の影の合間に、金色に装飾された神輿のようなものが見えた。その眩しさは、僕が振り返る視線に金色の残像を残していった。

後方からざわめきが聞こえる。自分の心音と吐息の重なりによって、ほとんど何を言っているのかは分からない。それでも、微かに「御神体…」や「代替わり」という言葉が継ぎ接ぎに聞こえた。後ろで白狐たちが何かを言い合っている。

追ってくる気配はなかった。だからと言って、止まる道理はない。僕はフォクシーを抱えながら、誰もいない参道を引き返していった。

走って左右に揺れる視界の中、前方に見慣れた屋台が見えた。あぁ、金魚すくいの店だ。ここからではテントの中の様子までは見えない。しかし、さっきまで参道に大勢いたはずの人影も見えない。それならば、多分屋台の中にも居ないのだろうか。

それでも必死に足を動かし、金魚すくいの店の外郭に沿った道を曲がる。そして店の前に躍り出ようとした。

その時。

「あれ?お嬢ちゃんとその連れの兄ちゃんじゃないか。どしたんだい?そんな慌てて」

白い帳の奥から顔を覗かせたのは、あの好々爺じみた店主だった。

僕は呆気に取られていると、後ろから誰かが僕の肩に触れた。ギョッとして後ろを振り向くと、浴衣と甚平を着たカップルらしき人影が僕の肩に当たっただけのようだった。そう、カップルが、いた。それだけではない。

気がつくと、そこは変哲のない祭りの一角だった。大勢の客が屋台を物色しながら、楽しそうに歩いている。何かのヒーローの仮面を頭に付けた子どもが人影の間を器用に縫って走っている。

ついさっき角を曲がるまで人っ子一人いなかったはずなのに、今では喧騒が祭りの雰囲気を支配していた。

「兄ちゃん、顔色が悪いぜ。人酔いでもしちまったか?」

もう一度振り返ると、爺さんが屋台から体を乗り出して心配そうに声を投げていた。

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