第三章 その2

「金木犀は、どこ?」

僕とフォクシーは同時にそう呟き、ぐるりと囲むようにして並んでいる露店の影に視線を移した。


祭りの中は、映像作品の中のようだった。僕はその中を歩き回ることができるが、しかし、誰にも干渉できる様子はなかった。華やかな浴衣を着た群集は僕を置いていき歩き出す。まるで、僕が居ない者のようにして。

「どう?そっちに居た?」

「いや、居ない…。ったく、金木犀のやつ、どこ行ったんだよ!」

つい口をついて悪態を吐いてしまう。焦りの色が滲む拙い気持ちが。

金木犀が視界から消えることはそう珍しくなかった。しかし、それは別に完全に消えた、という訳ではなく、周囲をぐるりと見回せばどこかに座っていたり、壁に寄っ掛かっていた。いつも、目の届く場所にいたのだ。

だが、今の状況は明らかにいつもの“消えた”とは違う。名前を呼べば反応を示す金木犀が、僕の瞳の後ろに居るはずの金木犀が、消えた。その事実は僕の視界をぐるぐると大きく揺さぶった。

ふつふつと湧き立つような焦りに、皮膚が粟立つ。その熱は背中から腕、そして指先まで伝播していき、行き場を失って澱となった。はやる気持ちを乗せながら、視界に映る顔を覗き込んでいく。しかし、それが金木犀の顔ではないことなんて明らかだった。違う、これも、こいつじゃない。そうやって、名もなき群衆を掻き分けていく。

奥に進むにつれて、人の密度は低くなっていった。参道には雑踏の影が薄くなり、祭りの囃子も遠く置き去りにされる。最後に見た出店は大きな鳥居の横に出ていたひなびたベビーカステラ店だ。境内に入ってからは宮司の姿さえも見当たらない。幽境、まさにそんな雰囲気だった。

「待って…って!」

後ろから息を切らしたようなフォクシーの声が聞こえた。首を少し動かすようにして流し見ると、そこには足取りがおぼつかなさそうに体を引きずっているフォクシーがいた。肩が激しく上下運動していて、瞳には水面が浮かんでいた。

僕ははたと足を止めた。その痛々しい姿は、僕の後ろ髪を引いたのだ。立ち止まってみると気が付いた。足が鉛のように重い。肺が空鳴りのような音を立てている。

「やっと…、止まってくれたぁ」

フォクシーは心底安心したような声色で呟いた。そして乾いた石畳に小さな尻をちょこんと置いた。心なしか足はいつもよりも開いており、口吻からは薄桃色の舌がちろちろと露わになっている。薄く色づいた鼻は濡れているようで、一瞬だけ灯籠の光を反射した。

フォクシーはその後に言葉を続けなかった。尻は石畳に根を張ったように動かず、フォクシーもまたそれに体を委ねているみたいだった。毛むくじゃらの喉が一度大きく痙攣する。

不思議と焦りは感じなかった。それよりも、やってしまった、という申し訳なさが先行していた。僕は踵を返してフォクシーの元に歩み寄った。

フォクシーは何も言わない。多分、声を出そうにも喉がからからで痛むのだろう。僕の動向を気にするような視線を送りつつも、状況に身を委ねる諦めが表れていた。

僕は両手を伸ばす。それに潤んでいた双眸が音を立てるようにして細まる。弛緩していた体全体が強張るのを感じる。周囲の淡い灯籠の暖色が僕の手の表面をなぞっていく。

「えっ!」

フォクシーは驚きを隠せていない声をあげた。その素っ頓狂な声は、もうさっきまでの疲労の色は見えない。それもそのはずだ。急に体が持ち上げられるような浮遊感を感じれば、誰でも驚きの声の一つや二つ訳ないだろう。

僕は両手でフォクシーを持ち上げた。優しく、割れ物を扱うよりも丁寧に。そして薄い胸板の前で抱きかかえた。

いつの間にか見開かれた瞳が、至近距離で交わる。優しいオレンジ色の光に、緑を仄かに混ぜた黄色い瞳が潤んでいる。

そして思い出したかのように口が少しずつ開いていき、わなわなと震え出した。その小刻みな振動が僕の腕や胸板に伝わってくる。

「あっあんた。何やってんのよ!こんなの恥ずかしいから、やめてって!」

「フォクシーと僕以外誰もいないのに、そんな恥ずかしい?」

「当たり前でしょ!誰が見てるとかそんなの関係ないでしょ。わ、た、し、が恥ずかしいの!」

そう言った後、フォクシーは打って変わって口を真一文字に結んだ。口吻のせいでほっぺは無いが、多分あったとしたら膨れてるに違いない。可愛い。可愛すぎる。

「でも、歩き疲れたんだろ?」

「それは、そうだけど…。

全く、誰のせいだと思ってるよ…」

「だからこうして抱っこしてるんだよ」

そこまで言うと、腕の中で小さな唸り声を上げ始めた。糾弾しようにも、悪気も悪びれもしないからどうしようか悩んでいるのだろう。

手に当たる感触はとても心地よく、少しでもタガが外れてしまえば、指が柔肌を揉んでしまいそうになる。そうなったら一貫の終わりだろう。自制だ。

すると、観念したようなため息が聞こえた。気のせいか、そのため息は腕の中で弾んでいる。

「わかった、わかったから。でもこの姿勢は、ちょっと、っていうかだいぶムリ」

そう言った後、フォクシーは腕の中で回転するように体勢を整えたかと思うと、僕の右肩に足を伸ばした。そのまま軽快なジャンプをして、肩の上にちょこんと乗った。頬を優しい毛並みが撫でる。どうにもくすぐったい。

「ここなら、まぁ、居てやらなくもないわ」

そして、ベランダに干されている布団のように肩上で四肢を投げ出しながらくつろぎ始めた。

「ここなら目線も高くて周りも見やすいでしょ?」

耳元で語られた理由は、あまりにも見え透いていた。でも、嬉しいならそれはそれで良いに違いない。

僕はそっと意識を肩から離し、神社の境内に向けた。今まで金木犀が居なかったのなら、考えられるのはあそこだけだ。夢の中で僕があの子に何かを言った、あの場所。

歩き出すと、肩でフォクシーの体がバランスを取るようにして不安定に揺れた。しかし、それも数歩だけであり、すぐに居住まいを正したようだ。


かさっ

草の擦れる音を聞いて心臓が大きく音を上げる。ふと足元を見ると、石畳の端の方は落ち葉が堆積しており柔らかな絨毯を作っていた。幾重にも重なった層が灰色の石畳を隠している。どうやら、僕はその落ち葉を踏んだようで、足元にはくたっとした萌葱色の葉が潰れていた。

もうひとけはない。祭りの囃子も耳を澄ましても聞こえるかどうか。鈴虫の軽やかな調と鳥の合いの手だけが耳に届く。人が居ないにも関わらず、神社の本殿に続く道だけがずっと続いている。まるで人に取り残されたように。そんな闇に溶け込むような参道を僕とフォクシーは歩いていた。

「算段はあるの?」

「ん?算段って、なんの」

「金木犀を見つける算段よ」

「…。あるには、ある。けど見通しは立ってないんだよな」

見通し、それは僕の見てきた夢だ。あの子と共に巡った祭り、そして人気のない本殿での告白。ここがあの夢の中なのだとしたら、あの子と同じ見た目をしている金木犀がいる可能性も高いだろう。まずこれは前提としてここが夢の中の世界と関係がなきゃ成立しないが、あの祭りの風景や感覚、あれは間違いなく夢と同じだ。

「まずは、本殿に行かなきゃならないんだけど…」

「本殿、ね」

僕たちは遠い目で参道の先を見つめる。もうどれくらい歩いただろうか。左右には森、灰色の石畳と等間隔に並んだ燈篭、薄く色付いている落ち葉。それが永遠に続いている。そんな光景の中を歩いていると、どうにも感覚が狂ってしまう。歩いていた時間がまるごとすっぽりと抜け落ちてしまうような満たされない感覚。もう何時間も歩いている錯覚を受ける。

ふと金木犀と乗った電車のトンネルを思い出す。あのときも同じような感覚を感じたっけな。とりとめのない思考が、僕の集中力を欠いていることを表している。

「成れの果て、かもね。これ」

耳元で金木犀が囁いた。まるで、怖い話を恐る恐る伝えるような声色で。

「流石にこんな歩いていて終わりに着かないのはおかしいよね。あんたの夢の中ではどうかは知らないけど、状況が状況だし、成れの果てによってこんな現象が起こっているって考えても不思議はない、っていうか妥当よね」

「成れの果てって怪物みたいのを想像してた…」

「そういうやつもいるわよ。小屋で私たちが襲われた時みたいな、得体の知れない何かとか、ね。でも、成れの果てって元々は神様なのよ。姿かたちがあるとは限らないわ」

「神様、ね。

あれ?でもフォクシーは前に僕の記憶の成れの果てって言ってたよね。どう考えても僕の記憶は神様じゃないと思うんだけど…」

「神様って言ったって信仰されるような大きな神様とも限らないわ。付喪神のことはもう説明したでしょ?あれは人によって意味を見出された存在なの。だから、あんたがあんたの記憶自体に意味を見出していたのなら、それは信仰足りえるのよ。多分ね」

人が意味を見出した存在。もし、僕の記憶が僕の手から零れて成れの果てになっているのだとしたら、一体どうなっているのだろうか。今すぐにでも見つけ出さなきゃと思う反面、舐めるような恐怖が頭をくすぐる。捨てたものを「やっぱりいる」、と言って拾い上げるのはどうにも後ろめたい気持ちが湧いてくる。気持ちがいい行いではない。

「あんまり気が進まなそうね」

「捨てたものをまた拾うんだ。気持ちがいいことじゃないよ」

肩口でフォクシーがため息をついた。その息には少しばかりなじるような音が乗せられていた。

「捨てたんじゃなくて落としたんじゃないの?あんた、記憶もないのに何勝手に決めつけてんのよ。落とした物は拾って当然でしょ?」

「落としたっていうのも決めつけだろ」

「決めつけるなら前向きな方が良いに決まってるでしょ。捨てたと思い込んでこんなところで二の足を踏んでいるよりも、落としたと思い込んで前向きに進んだ方が良いと思わないの?」

「うぐぅ」

人は反論できないと潰れたカエルのような声が出てしまうのか。僕は自分の漏れた声に驚きつつも、フォクシーの言葉を耳の中で吟味した。

確かに、記憶が無い僕に確かな事なんて何一つない。それなら常に前向きに考えた方が気も楽だ。それに、この奇妙な世界まで導いたのは前向きの権化のような金木犀だ。なら、前向きの効能はお墨付きだ。

「そうだな。よし、僕は記憶を落とした!だからそれを拾う!」

僕とフォクシーしかいないこの道で、自分に言い聞かせるようにして言い放った。こういうのを言霊っていうのだろうか。口に出して言ってみると本当にそんな感じがしてきた。

「くふふ、じゃあそんなお間抜けさんに付き合ってやるわよ。しょうがないったらありゃしないわね」

フォクシーは口元に小さなあんよを当てて肩で笑った。

「じゃあこれからどうするの?」

「進んでも本殿に辿りつけないんなら、一度祭りの会場に行くしかないかな。そこに何かあるかも」

「夢で見た祭り、ね。いいかも。そうしましょ」

そして僕は踵を返した。肩のフォクシーのささやかな重さによって、重心がズレそうになる。なんとか体勢が崩れるのを防いだが、僕は口をついて言った。

「あのさ、フォクシー。そろそろ自分で歩けたり、する?」

「はぁ、何?重いって言いたいわけ?レディーに向かってちょっと失礼じゃない?」

僕はオブラートに包んで言ったぞ。これでも相当配慮して言ったっていうのに。

「…。なんでもありません」

「よろしい。じゃ、いきましょ」

一瞬、首筋に冷たい波が押し寄せたが、等間隔に揺れる暖かな尻尾の感触が僕の背中を押してくれていた。

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