第三章 その1
腕の表面にチリチリとした痛みを覚える。紙で指を切るような感覚が、布地から剥き出しにあった腕に刺激する。刃物のように伸びた葉が行く先に立ち塞がるようにして生えているが、その中を突き進む僕たちには止まる気配はない。先の見えないこの状況は鬱陶しいことこの上なく、僕は面倒くさそうにため息を吐いた。
「なぁ、フォクシー。これいつまで歩くの?」
視界は丈の長い葉叢にほとんど覆われていてフォクシーの姿は見えない。その代わりに、葉を生え際から掻き分けている動きだけが見て取れる。その動きが止むそぶりはなく、声がだけが耳に届いた。
「もうちょっと、かな」
「もうちょっとって、もう結構歩いた思うんだけど」
「ほんとにあとちょっとなんだから、辛抱してよ」
まるで聞き分けのない子どもを諭すようにして言われた手前、これ以上の文句なんて言えるはずもなかった。
「さいですか。それにしてもさ、なんでこんな草むらの中を進まなきゃならないのさ」
「そりゃもちろん、成れの果てに鉢合わせしないようにするためよ。人里から離れれば離れるだけあいつらは少なくなるの」
「森の中とかの方がいっぱい居そうなもんだけど…」
「まぁ、それは分からないでもないけど。
でも、ちょっと考えてみてよ。神様は人が居なければ生きられない。信仰がなくっちゃ成れの果てになっちゃうんだもの。成れの果ては半分死んだようなものとも言ったけど、でもそれってつまり半分は生きてるとも考えられない?片割れが死んで、もう片割れが生きている。成れの果てってそんな状態なんだと思うの。だからこそ、あいつらはまだ生きかけの縁に縋って、人里周辺に出てくるんじゃないかな。少なくとも、あいつらにはそういう傾向があるの」
その声色はあまりにも涼やかだった。まるで、無理やり他人事と装って背を向けているような冷たさだった。
「それって、とっても寂しいね」
雑草の切れ目にいた金木犀が伏目がちで言った。
「そうね。寂しい、のかもね」
草の隙間から声が漏れた。
草木の影が空の闇色に溶け、輪郭が朧げになっていく。凪いだ空気がじっとりと皮膚を覆うようにして漂っており、どうにも息苦しさを感じた。気を抜いてしまえば、自分が目を開けているのか、それとも閉じているのか分からなくなってしまいそうだ。
「そろそろ、かな」
薄いフォクシーの影がそう呟くと、歩くスピードを速めたようで駆け足気味に奥に行った。僕と金木犀は少し面食らってしまったが、すぐに影を見失わないように追いかけた。ちらちらと草の合間から見える影が少しづつ遠のいていく。あと少しで影が完全に闇色に溶け込むんじゃないか、と思ったそのとき、急に視界が晴れた。
足の少し先に向いていた視線をゆっくりと上げた。そこには明らかに色の違う道が横に延びていた。土色とは違う、少し痩けたような灰色の桝目が視界の外側まで続いている。それを視線でなぞっていくと、奥には大きな建物が見えた。そのシルエットには覚えがある。鳥居だ。それも、夢の中でみたような、あの神社の。
フォクシーは灰色の石畳の上に座っていた。後ろ足を器用に使い、耳の付け根を掻いている。そのけしけしという音が間抜けにも響いていた。そして、気持ちよさそうに閉じていた目を開けて、僕を一瞥した。
「ビンゴって感じ?」
「あぁ、たぶん」
僕の言葉は少なかった。だが、だからこそ気持ちを伝えるには十分だった。
「ここが、コータローの言ってた神社、か」
物珍しそうに周囲をきょろきょろと見まわしていたかと思うと、急にこちらを振り向いた。
「ここにコータローの記憶の成れの果てがあるってことでしょ!呑気にしてないで探しに行こうよ」
その場で足踏みをしている金木犀は、まるで駄々をこねて居る子どものようだった。だけど、その目的は僕の方に向いており、わがままじゃないということは言うまでもない。
「ちょっと、静かにしなって、ね」
フォクシーはなだめるようにして言った。
「さっきも言ったけど、道外れから出たってことはあいつらが近くにいるかもしれないんだからね。
そんなにうるさくしてると寄ってきちゃうかもよぉ?」
それは、まるで悪い子は連れていかれちゃうぞ、と言わんばかりの気軽な脅しだった。だが、その冗談の裏に見え隠れする本音は異様なほどに鮮やかに見えた。
金木犀は手で口を押えて、殊更大きく首を縦に振った。心なしか肩が強張って見える。
それにフォクシーは「いい子ね」と言って微笑んだ。
金木犀は少し鼻白んだ顔をした。僕の顔は自分ではよく分からないが、多分呆気に取られているような顔だったに違いない。瞼の筋肉が痙攣して、ゆっくりと開閉する。
フォクシーは微笑みの余韻を残しながら、ゆっくりと下を向いた。とても名残惜しそうに。
「どうかしたの?」
僕は気が付くと訊いていた。
フォクシーは顔を下に向けたまま、視線だけをこちらに寄越した。
「別に。なんかおかしなことがあった?」
訊くな、ということだろう。にこやかに答えた裏に潜む冷たい何かを感じ取ってしまい、背骨近くに薄ら寒さが走った。
灰色の石畳は緩やかな傾斜に沿って伸びていた。普通に歩いているだけでは平坦な道にも見えるが、遠くに目を移すと、自分の身長よりも遥かに高い場所に鳥居がそそり立っていた。
周囲には特に目立った変化はない。燻んだ色の灯籠にはシミのような地衣類がべっとりとくっ付いている。関所のように立っている鳥居の表面は所々に漆が剥がれ落ちており、薄朱色に燻んでいる。
不思議な感覚だ。夢で見た時はああもキラキラと輝いて見えたのに、今や風景の全てに闇色の雫が落とされている。それは灯籠に光が無いからだろうか、それとも屋台が出ていないからか。
いや、違うだろう。そこにあの金糸の揺らぎが無いから、だと思う。頭の中でどうにか言葉を探そうとするが、あの時の淡く蕩けた感覚を言葉にするには難儀した。
僕は薄い瞼を閉じ、息を吸い込んだ。
目を閉じれば、そこには金木犀が居ない世界が広がっている。そして、金木犀では無い、あの子がそこに居るはずだ。
薄い闇、濃い闇、そんな境界がない黒の中、僕は確かに光を見た。小さく、それでいて強く輝く光を。僕はその光にそっと手を伸ばした。
目を開くと、そこは夢の中だった。両端に延と続いている屋台からは様々な匂いが煙を通じて香ってきている。空気中で無造作に混じったそれらは、しかし、あまりに魅力的な匂いだ。
僕の横から小さな子どもが走り去っていった。頭の横に正義の味方のお面を着けて、楽しそうにはしゃいでいる。
はたと気が付き、僕は横を向いた。これがあの夢なら、そこにはあの子が居るはずだ。
しかし、僕の視線は中空を彷徨った。そこに金糸の煌めきはない。なんの影も捉えることはなかった。そう、僕は誰とも連れ添わずに、明るいざわめきの中、独りで立ちすくんでいた。
あぁ、と声を漏らした僕は、仰々しく足元に視線を移した。膝に手を突き、空気椅子の姿勢になる。喧騒が妙に耳を打つ。さっきの子どもの楽しげな声が、僕を嘲笑ってるように感じてしまう。そんな穿った感情が肺を焦がすようにジリジリと痛めた。
どうしてあの子が居ないんだろう。
そのとき。
「なんて顔してんの?」
急に投げかけられた意味のある声に、僕は息をする事さえ忘れてしまった。
「ねぇ、聞いてる?」
僕は首をおもいっきり動かして周囲を見回す。屋台の煙がどうにも視界を塞ぎ、微睡んだ雰囲気を与えてくる。首を振って周囲を見る事で、なんとか取り巻く煙を振り払おうとする。口から漏れた冷たい吐息が温かな煙に希釈されていく。
しかし、僕に話しかけてくる人影は見えない。
「ねぇって、下」
この声と共に靴にささやかな圧が加わった。この小さな力は…。
視線を落とした先には、薄い灰色を背景に白色と黄色の毛玉があった。黄色と淡い緑を含んだクリクリとした双眸が僕を見つめている。大小の丸を二つ重ね合わせたような見た目のそれは、僕の足に半分覆い被さるようにして座っていた。そして、口吻と鼻を空に突き上げ、ふん、と小さく息を吐いた。
その影に僕の瞳は眉毛を持ち上げるようにして見開いた。あまりの驚きに口から息だけが漏れた。
「私でごめんね」
その言葉は謝罪にしてはあまりに明るく、僕を茶化していることは明らかだった。今も足元で、くふふ、と喉で笑っている。
ぐるぐると渦巻く思考の中で、なんとか単語だけをすくい取り、それに息をのせた。
「なんで、ここに…?」
「さぁ?なんでだろうね。私にも分からないわ」
そんなことを言いつつニコニコと微笑んでいる。
「きつねにでも化かされたんじゃない?」
綿毛のような尻尾がゆさゆさと揺れている。
「どの口が言ってるんだ」
「あなたってからかい甲斐があるものね。騙そうとする奴なんていっぱい居そうだわ」
全く、口が達者なきつねだ。
にしても、随分と余裕そうな態度だ。こうも急に景色が変わってしまえば、驚きの一つや二つも訳ないだろう。僕のリアクションももっともじゃないか。
いつの間にか吐く息は暖かかった。僕とフォクシーの間には柔らかい空気が馴染んでいる。
「これ、フォクシーがやったの?」
あまりに驚きの色を浮かべない様子に、僕はふいと訊いてみた。しかし、それには何でもないかのような口調で返された。
「いや、違うわよ」
喧騒は確かに響き続けているが、僕たちの間には静寂が居座っていた。間延びしたような祭りの調子が通り抜けていく。軽快な太鼓、ひょうきんな葦笛、それに柏手。気の抜けた雰囲気に僕自身も当てられてしまったようだ。
「いやに冷静に見えるんだけどさ」
その小さい頭をこてんと横に倒した。
「そりゃあね。ここでの最悪な事態って何も起こらない事でしょ?神社に来たとしても、何の成果も得られなきゃ無駄骨もいいところよ。それなら逆にこうやって不思議なことの一つや二つ起これば進展はしたって言えるでしょ?」
そして「ちがう?」と締めた。
そう言われてみればその通りと思ってしまうのが不思議だ。あまりにもすんなりと頭の中に刷り込まれていく言い訳は、しかし、よくよく考えれば的外れもいいところだと分かる。
「それと冷静でいられるのはちょっと違うだろ」
「文句の多い奴ね。前のあんたとは大違いね」
そういってふいと横を向いた。
前の僕ってなんなんだよ。違うなんて当たり前だろ。記憶が無いんじゃ、自分が自分をどう振る舞ったらいいのか分かるはずもないんだから。自分を見失って、自分自身に疑心暗鬼になっている僕に、一体どうすればいいと言うんだ。
喉が焼け付くように痛んだ。そのまま声にならないような奇声を上げたくなる衝動に駆られる。しかし、そんなことをしてしまえば言の葉に痛んだ喉を本当に痛めてしまいそうだ。奇声の代わりにため息をついた。
「分かったよ。みみっちいことを言って悪かったって。でも、あんまり記憶を失くす前と今とを比べるようなことは、その、言わないでほしい、かな」
しかし、それは独白に終わった。気が付くとフォクシーの視線が宙を舞っていた。体は僕の方を向いているのにも関わらず、その視線はあっちやこっちに横跳びしている。まるで、誰かを探しているよう…だ。
「金木犀は、どこ?」
僕とフォクシーは同時にそう呟き、ぐるりと囲むようにして並んでいる露店の影に視線を移した。
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