第三章 その5

爺さんが、夢の中の虚像だとしても、何も残ることのない有象無象だとしても、僕の創り出したまぼろしだとしても、感謝だけは。

そして僕は天幕を出た。その先に何が居るのかは分からないけど、そこに金木犀が待っているのならば、歩みを止めることはできない。


人でごった返している道をもう一度進むのは気が引けた。肺が潰れ、酸素が薄いあの感覚は、あまりに気が滅入ってしまう。だから今回は少しズルをすることに決めた。別に道の上を歩いていく必要なんてないだろう。周囲には林、その葉叢を掻き分けて行けば自ずと着くに違いない。蠢く人の頭たちを尻目に、僕とフォクシーは林の中に分け入った。

無理に低木を掻き分けると、枝がしなって肉に食い込む。刺のような枝が服に引っかかり、後ろに引き戻されるような力が加わる。参道から差ほど離れていないのにも関わらず、視界はほとんど効かない。

時折、肩口から「いてっ」とささやかな抵抗の声が上がる。これでも鋭利な枝がフォクシーに当たらないように配慮しているのだが、あまり効力はないみたいだ。その小さい体で必死に肩にしがみ付いているのが感覚で分かる。大変なのは分かる。でももっと静かにしてほしいものだ。

「おい、ちょっと静かにしてくれ」

なるべく声帯を震わせずに言った。

「分かってるって。でも、痛いんだもん。全く―いてっ」

その小さいあんよに枝がしなる。その場合僕の頬にも枝が当たっているのだが、痛みを比べるのは不毛だろう。痛いものは痛いのだ。

「多分あと少しだから、我慢してくれ」

「わかってるって、もぅ」

目の前は暗い森が広がっている。それを見ていると、このままで本当に着くのか少し不安になってくる。方向は間違っていないはず。でも、ここは僕の知る世界とは大きく異なった世界だ。なら、そんな不変の常識も通じないかもしれない。

「待って」

フォクシーが短く吠えた。声のトーンを落としてほしかったが、その声色はなんとも切羽詰まった感じがした。だから僕もその場で動きを止めた。

「どうした?」

僕の質問にフォクシーは「静かに」と短く答えた。

フォクシーの折れ耳がひくひくと小刻みに動いている。闇夜に浮かぶはずの双眸は閉じられ、静寂を読み取るのに必死なようだった。

心臓の鳴りがうるさい。心臓から運ばれた血液が脳で脈打っているのが分かる。心拍のたびに反動で頭が動いてしましそうだ。

「何か、くる」

フォクシーはゆっくりと、それでいて引きつったような声を上げた。そして尻尾で僕の背中を叩きながら、「走って!早く!」と叫んだ。

そのとき。


べちょ。


泥を踏むような音が聞こえた。場所は分からない。前から聞こえるような気がするし、後ろからな気もする。位置は定かではないが、確かに僕ら以外の何かがいた。

驚いていると、辺りに刺激臭が立ち込め始めた。酸っぱい。まるで何かが腐ったかのような、腐臭のような臭いが漂っている。

そして僕は思い出した。饐えた稲穂。金狐祭に出ると言われた何か。この臭いと饐えたという言葉を結びつけるのはそう難しくない。

多分、僕の後ろに饐えた稲穂がいる。

「何やってんの!早く!」

意識を切り裂くようにしてフォクシーの悲痛な叫びが耳についた。そして同時に耳たぶに鋭い痛みが走った。フォクシーが噛んだのだ。その痛みはあまりに強く、血が滲んでいるに違いない。でも、だからこそ意識が明瞭になっていく。

次の瞬間、僕は走り出した。枝に体当たりするようにして。もうフォクシーを配慮することを考える暇はなかった。ただ、早く逃げなくては、それしかなかった。

フォクシーも肩に伏せるようにして身を縮め、体全体でしがみついている。

べちゃ、びちゃ。べちゃ、びちゃ。

べちゃ、びちゃ。べちゃ、びちゃ。

僕たちが逃げだしたのに反応するようにして、後ろに潜む何かも駆けだした。粘性の何かが木々の幹に当たっているのだろうか、その不協音が聞こえるたびに、饐えた臭いがより濃密になっていく。

胃液が上がる。気持ちが悪い。それでも今は吐いている時間はない。止まればすぐに追いつかれる。手を前にして枝をかき分けていく。

木の根が足に引っかかり、前につんのめりそうになる。それでもなんとか踏ん張って足を前に動かしていく。

肩口から声が聞こえる。

「いや、来ないで。いや、いや」

短く暖かな吐息が服に染みる。

その時、その声とは別に音が聞こえてきた。なぜかその音は雑音に遮られることなく、僕の耳に届いてきた。

「か〜ごめ、かごめ」

「か〜ごのな〜かの、と〜りぃは」

「い〜つい〜つ、で〜やぁる」

単調な調べが耳にこびりつく。寂しげで執念の籠った調べが、僕の背中を後ろに引くようだった。

足に力を込めた。土を蹴り飛ばすようにして体を前に押し出す。このままでは、その何かに絡め取られてしまいそうだから。

髪が肌に張り付く。束になった髪が瞼の上を覆い、思わず目を閉じてしまう。どうせ効かない視界だ。目を閉じたって変わらない、と内心言いきかせるが、視界が効かない分不快感が前に出てくる。

恐怖に希釈された思考は闇の中で思い出した。そういえば、夢の中でもこんなことがあった、と。鬱蒼とした森の中、僕とあの子は何かから逃げていた。木の根やうろに足を取られながら、木々を掻き分けてわき目も触れず走っていた。しかし、急に手の温もりが消え、そして…。

僕は走りながら大きく身震いをした。もし、あの時と同じことが起こっているのなら、同じ状況をなぞっているのなら…。いや、この世界にはあの子は居なかった。なら、なぞるようなことはないだろう。でも、でも。

そんな結論の見えない考えが浮かんでは消えていく。多分、この恐ろしい状況から逃げたかったのだ。体も、思考も。

永遠に続くと思われた苦痛の時間は、唐突に終わりを迎えた。それは状況が良くなるというわけではなく、その逆。生死を分かつ選択が立ち塞がった。

「もぅ…だ、」

言いきれなかった言の葉が肩から後ろの闇にふわりと落ちた。その瞬間、肩から重さが消え、暖かも霧散した。

反射的に振り返る。ずっと闇色の中を走っていたからか、ずいぶんと目が慣れていた。揺れる視界の中、数歩後ろの地面に蠢く毛玉がいた。それは体で息をしており、もう体力がないことは明らかだった。

腐臭が強くなる。まるで生きている者全てに憎悪を抱いているように、香り高い腐臭が辺りを包む。死の香りが飽和している。

べちゃ、べちょ。

べちゃ、べちょり。

闇に潜む何かも動きを止めた。まるで、追い込んだ獲物を品定めしているようだ。

闇の中で、一際暗い闇が蠢いた。そして何かがフォクシーの元に近づいていく。どろどろとした液体が動いた跡を濡らすのが分かる。

足が竦んだように動かない。フォクシーに触れようとする黒い触手を視界に映す度に、心臓を直接舐められるような怖気が走る。今すぐにでも逃げ出したい。無理だ。怖い。怖い。怖い。こわい。

ぴくり、フォクシーの小さなあんよが動いた。前に投げ出されたあんよが少しだけ動いて、僕の方に伸ばされる。言葉はない。ただ、その小さな動きだけで、フォクシーがどうして欲しいのかが分かった。もう、何度も経験したことなのだから。そして、あの忌々しい夢の中で、僕はもう二度と手を放さないと誓ったはずだ。

一歩、地面を蹴って、体を乗り出した。視界にはフォクシーしか見えない。フォクシーを掬い上げるようにして、いや、救い上げるようにして、僕は両手を前に晒した。膝に鈍い衝撃が走る。だが、そんなことを構っている余裕はない。フォクシーの体の下に滑り込ませるようにして手を入れる。そして体全体で勢いを殺した。

確かに、腕の中に温もりを感じる。暖かい。これが、僕の手放した温もりだったのか。緊張で引き伸ばされた感覚の中、僕は場違いにも感慨深く感じた。思考はそんな呆けたことを考えながら、体だけは今しなければならないことを確実にこなしていく。

フォクシーを抱えたことを確認するや否や僕は再度地面を強く蹴り上げた。今度は闇の何かから遠ざかる方向に。足首がいやな音を上げる。多分、関節が潰れる音だ。それでも不思議と痛みは感じない。

崩れた体勢は一瞬のうちに戻され、僕はもう一度走り出した。後ろからは変わらずあの調べが響いている。その声色には悔しさは滲んでいない。そんな人間味めいた感情はなかった。ただ、得体の知れない執念だけが森を支配していた。

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