第三章 その6
崩れた体勢は一瞬のうちに戻され、僕はもう一度走り出した。後ろからは変わらずあの調べが響いている。その声色には悔しさは滲んでいない。そんな人間味めいた感情はなかった。ただ、得体の知れない執念だけが森を支配していた。
だいぶ走ったはずだ。もう足の感覚はない。動いている足は惰性と気力で動いているに過ぎず、気を抜いたら一瞬で感覚の糸が切れそうだった。
いつの間にか調べは聞こえなくなっていた。でも、足を止めることは出来ない。こんな森の中で倒れてしまったら、もう逃げられないだろう。
……。
森間から光が漏れている。橙色の暖かな光が、森の闇に差し込んでいる。そういえば、どこからともなく単調な祭囃子も聞こえる。
僕の足は一瞬減速した。足を上げることもままならず、摺り足のように地面を削る。そして腕の中にいるフォクシーを一瞥した。気を失っているのか、ぐったりしている。しかし、確かに心臓は動いていた。
僕はそのまま体を引きずりながら、光の中に身を委ねた。
乾いてひび割れた地面が力ない足を滑らせる。やぐらや提灯の灯りによって明るい茶色に照らされた土の上で体を引きずるようにして歩く。周囲に人の気配はない。ただ、腕にフォクシーを抱いた僕だけが広場の中をとぼとぼと歩いていた。
目指す先は、黄金色の神輿。
あと少し、あと少しだ。
もう目と鼻の先だっていうのに、その間が一向に縮まる気配がない。明るすぎてちらつく風景はほとんど動かない。何気なく足を見ると、それは完全に弛緩しており、ほとんど前に歩けないでいた。
口の中に粘っこい唾液が溜まる。それはあまりに不快だったが、もう吐き出す余力も残っていなかった。もし吐き出そうとすれば、呼吸が乱れて喉が詰まるかもしれない。
誰もいない広場を横切っていく。
酸素が足りないからか思考が霞む。もう、何も考えられない。それでも、胸の温かさと、眩い光だけを寄る辺として体を動かす。
あと、少しなんだ…。
そのとき、視界の端に白い何かが横切った。最初は霞の揺らぎか何かだと思った。しかし、その何かは次第に数を増やし、神輿に光の前に立ちふさがった。白い狐の面。それが僕たちのことを囲んで見ていた。
頬にざらついた感覚を覚えた。やすりで削られているような痛みが頬を覆い、僕は瞼に力を入れた。しかし、その感覚もすぐに消え、僕は薄く目を開けた。
そこはさっきの広場だった。それに目の前に神輿がある。さっきよりも近い距離だ。恐らく、僕は誰かに地面に引きずられたのだろう。気がつくと、埃っぽい地面に体を突っ伏している。
視界に映っているのは神輿だけではない。あの白狐の人影もあった。白狐の人影は神輿に備え付けられている観音開きの扉に至る道を開け、左右に整列している。その光景は、あまりに神々しかった。
僕は呆気に取られていた。口をあんぐりと開け、地面に突っ伏しながら低頭していた。
黄金色と白銀色の光の中、一瞬だけ見慣れたシルエットを見た気がした。白狐の人影に抱えられている丸っこい影。その影は大事そうに抱きかかえられながら、神輿に続く道に連れられている。
あぁ、あのままじゃ、フォクシーが連れていかれる。
僕がそう思ったときには既に体が動いていた。トビムシのように宙に跳んだ僕は、その勢いを殺すことなく白狐の影に体当たりした。そして僕は叫んだ。
「フォクシーを抱っこしていいのはお前じゃねぇ!」
よろけた白狐の影からフォクシーを取り上げるのは簡単だった。片手で首根っこを持ちながらもう片手を下で支える。すると、あの感覚が戻ってくる。暖かく、柔らかい。ふわふわだ。
フォクシーを抱っこしていいのは僕だけだ。誰でもない、この暖かさを守るのは僕だけだ。
そしてフォクシーを抱きかかえて白狐の人影を押しのけた。よろめく影は道外れで大きく尻もちをついた。周囲に並んでいる白狐の人影はあまりに突飛な展開についてきていないようで、驚いたような体勢で体を硬直させていた。
今の僕はそんな奴らに構っている暇はない。熱を感じそうなほどの眩しい光の中、僕は神輿の真ん前に辿りついた。そしてフォクシーを片手で抱きかかえ、観音開きの扉を順に開け放った。
……。そこに入っていたものは意外な物だった。それは、金糸の装丁が美しい浴衣だった。稲穂を見立てた金糸が今にも風で揺らめきそうだ。風が吹き、稲のさざめきが聞こえてくるようだった。
僕はそっと手を伸ばした。そしてその浴衣に触れた。夢のあの子が着ていた浴衣に、触れた。
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「コウちゃん。ねぇってば。聞いてんの?」
「えっ?あぁ、わりぃ。ぼっとしてたわ」
「もぅ、しっかりしなよね。横にこんな美少女が居るってのに、エスコートの一つもしないなんて極刑よ!断罪あるのみ」
「マジわるかったって。その浴衣似合ってるなっておもって」
「えっ?あ、ありがと。これって実は私のじゃないんだけどね。でも、ほんとにうれしっ」
「ほ、ほら!何か買ってやるからさ。そう言えばお前、あれ好きだったろ。金魚すくい。あれとってやるよ」
「金魚すくいかぁ。好きっちゃ好きだけど、あれってすぐ死んじゃうからなぁ。ちょっとブルーかも」
「じゃあ行ってから決めるか」
「なぁ、そのチョコバナナ一口くれよ」
「はぁ?これ私が買ったやつなんだけど。なんでコウちゃんに分けなきゃならないのよ」
「ケチだな」
「ふぅん、そんなこと言っちゃうんだぁ。まぁ、いいや。お優しい私はコウちゃんにこれをあげよう」
「ってこれ、チョコバナナのチョコの欠片じゃん!これじゃチョコバナナじゃなくてチョコじゃん!」
「じゃんじゃんうるさいなぁ。そんなんだとモテないよぉ?」
「うっさい、言ってろ」
「ねぇ、こんな所に来てどうすんの?
もしかして、この超絶美少女の可愛さに当てられて告白するとか?」
「……」
「えっ…?ほん、と?」
「……」
「ちょっと、なんとか言いなさいよ。言ってて恥ずかしいじゃない…」
「……。ずっと、お前が好きだった。もう自分の気持ちに整理がつきそうになくって、だから、その、付き合ってください」
「~~!」
べちゃ、べちょ
べちゃ、べちょ
「あと少しだから、もっと早く!」
「ちょっと、もう、ムリ…」
「あぁ、もう!手を貸せ!」
「なんなのあれ…!あんなの聞いてない!」
「そんなの知るかよ!もっと早く!」
べちゃ、べちょ
「コウちゃん……。助け―」
べぢゃり
そして僕は走り去った。
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