第三章 その7
「ねぇ、コータロー。起きてって」
その声に僕の体は反射的に起き上がった。頭に霞が掛かっているようで思考が鈍い。しかし、耳に届くその声とコータロー呼び、そしてその姿だけは明瞭に僕に届いていた。
そこには金木犀が居た。金木犀は上半身だけ起き上がった僕のことを驚いたような表情で見つめている。そして。
「よかったぁ、やっと起きてくれたぁ」
と、間延びした言葉を言った。
「金木犀…。お前、どこに…、どこに居たんだよ!探したんだぞ!」
あまりの剣幕に驚いた金木犀は、目をぱちくりと瞬かせた後に、にへらと笑った。
「ごめんね、コータロー。私も自分でよく分からないんだ。気が付いたら、コータローの前に立ってって、それまでの事は何も憶えてないんだよ」
そう言って金木犀は後頭部を小さく掻いた。
金木犀が見つかった。本当に、本当に良かった。
……、そういえば。
「フォクシーは?」
「ここよ」
僕の脇の下辺りから声が聞こえた。そちらを向くと、フォクシーが丸くなりながら大きな欠伸をしていた。そして眠そうに目をしょぼしょぼとさせていた。
「無事だったのか…」
「まぁ、無事ではあるけど、ある意味無事じゃないかも」
そしてあからさまに僕から目線を逸らした。あまりに露骨な視線移動に、僕は違和感を覚えた。
「どうかしたの?」
僕は顔を傾けてフォクシーの顔を覗いた。すると、その表情はなんとも恥ずかしそうな顔をしていた。
「あんないちゃいちゃした光景を見せつけられて恥ずかしくない奴なんていないでしょ!共感性羞恥ってやつよ…」
「フォクシーも、あれ見たの?」
「まぁね、見ちゃった。あんなの不可抗力よ!私悪くないからね!」
腕の下で毛を逆立てながらきゃんきゃんと喚いている。フォクシー本人からすると鬼気迫った感じなのかもしれないが、傍から見るとぬいぐるみがぴょんぴょん跳ねているようにしか見えない。やっぱり、可愛い。
僕は立ち上がって大きく伸びをした。そして改めて周囲を見回す。ここは…。
「あの広場か…」
やぐらや神輿、そして白狐の人影があったあの広場だ。しかし、既にここには活気がなく、祭囃子や提灯の痕跡も見えない。寂しいうす暗闇しかない。
僕は神輿の中であの子の着ていた金糸の浴衣に触れた。そして、見た。恐らく、僕の完全な記憶の断片を。まだ、記憶の全てを補完するには遠く及ばない量だけど、それでも幾度となく見てきた悪夢の分は取り戻せたような気がする。
そうであれば、すぐにでも行かなければならない場所がある。
「ちょっと確認しなきゃならないことがあるから、もう行こう」
僕は金木犀とフォクシーに目を配りながら言った。金木犀は何のことだか分からないような表情をしている。それは当然だろう。今から行こうとしているのは神社の本殿の方なのだから。あの時その場に居なかった金木犀が知らないのも当然だ。
しかし、フォクシーの反応は意外だった。フォクシーは何やら深く思案したような顔色で闇色の地面を見つめていた。そして一つ孤独に呟いた。
~違う~
「おい、フォクシー。聞いてる?」
「……えっ?あぁ、ごめん。本殿でしょ。行きましょ」
そして僕の肩によじ登ってくる。それを見ていた金木犀は「えぇ!いいなぁ、いいなぁ。いつそんな仲良しになったのさぁ!」と不平を漏らしていた。
薄暗い参道の静けさは、夢の世界との乖離がひどくて妙に胸がざわざわする。無造作に塗りたくったような薄い闇が辺り一面を覆っており、閉塞感を感じる。
そんな中を必死に足を動かして先に進もうとするが、前に進んでも先には進めなかった。さっきと同じだ。僕たちは参道のその先、本殿に向かっても決してそこに辿り着くことはなかった。
遠くで影に見える社殿。それがまるで僕たちを山頂から覗いている大きな怪物の頭のように見える。僕たちはそうやって監視されているみたいだ。
風はない。虫の聲も聞こえない。祭囃子も鳥の合いの手も、そこにはない。堆積した葉っぱを踏む音だけが参道に響く。
近づいているようには見えない。だけど、足を止めようとは思わなかった。実は少しずつ進んでいて、このまま行けば着くのかもしれない。前に進んでいるのだから最終的には着くに決まっている。自分にそう言い聞かせていた。
願望だ。もちろん、これは全て希望的観測の元にへばり付いている願望でしかない。本当ならこの参道にいるとされている成れの果てをどうにかしなければならない。しかし、夢の世界であれだけ大立ち回りをしたんだ。そのどれかがトリガーだったとしてもおかしくはないだろう、そう考えていた。
ふいに金木犀が口を開いた。
「ねぇ、コータロー」
僕の方は向いていない。視線は斜め下に落とされており、腕は後ろ手で組まれている。そして、もじもじと不安げに指を弄んでいた。
「私がいない間にさ、夢の世界でさ、見たん…、だよね。コータローの記憶。それでさ、何か思い出せたりしたのかなって…、思ったり、思わなかったり」
ちらりと視線が寄越される。そして僕の視線と交わった。
「断片的だけど、うっすらと思い出したかな…。本当にうっすらで、全然ピントがあってない感じなんだけど。
金木犀にそっくりなあの子と僕は凄く親しかったみたいだった。あれは、そう、家が近所だったんだ。それでずっと昔から腐れ縁で、どんな時も一緒だったかな。僕はあの子がずっと好きだったんだ。でも、一緒にバカやってるのが楽しくって、ずっと言い出せずにいたんだ。でも、何かで心変わりをして…、そして…」
そのとき、頭に亀裂が走るような痛みが走った。頭の頂点からこめかみを通り越して、脊髄まで走った痛みの流れは僕の思考を完全にせき止めた。心なしか暖かな液体が頭皮を伝っている感覚も覚えた。ほんとうに頭がぱっくりと割れてしまったかのような感覚だった。
僕はその場でうずくまった。痛みは次第に広がっていき、今は眼窩の奥が焼け付くように痛い。視界が赤く染まり、視界の端からは血管のような紐が無数に見える。
僕の異常な現象に、金木犀とフォクシーは狼狽した。横で必死に声をかけてくれているようだが、僕の意識は頭部を掻きむしる手と目を覆い隠している腕とで精いっぱいだった。
目から止めどなく涙が溢れてくる。生暖かい。頬を伝って零れていく涙は僕の鼻や口に無造作に垂れていく。しょっぱさは感じない。まるでただの水のようだった。
その次は耳鳴り。頬骨の軋み、そして喉の痛み。止めどない痛みが僕の思考を上塗りしていく。痛みに慣れそうと感じた瞬間に、何者かの意思によって痛みが更新されていくみたいだった。まったく終わりが見えない。
痛みに意識が遠のく。でも、状況が分からない分からない中で気を失うことだけは避けたかった。僕が気を失っても、僕を運べる人はいない。金木犀もフォクシーも、それには力不足だ。
僕は何とかして震える足に力を入れた。しかし、バランスを取れずに大きくのけ反る。なんとか道沿いに建てられていた燈篭に寄りかかり、体勢を立て直す。
横で声が聞こえる。だが、頭が言葉を結ばない。耳鳴りと雑音が渦巻く世界の中、僕は一歩足を踏み出した。
そして、地面が崩れるような感覚を覚え、視界に闇色の帳が落ちた。
もう、何も感じない。
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