第四章 その1

第四章

虫の聲が聞こえるのは日本人特有の能力らしい。聲が言語化されるとかなんとからしいが、まぁ、詳しい理屈は分からない。

そこではひぐらしが鳴いていた。まるで肌の表面を滑るように心地よく乾いた聲が、カーテンをゆらゆらと揺らしている。

カーテンに映る人影、窓枠に腰を下ろす少女の姿。それがはためくたびに不安げに揺らめき動いている。

影の少女は片手に長方形の何か、もう片手に細い棒を持っている。そしてひぐらしの奏でる曲に合わせるように、細い棒で長方形の何かを叩いている。

とんとんとん

煙っぽい臭いがする。これは、チョークの臭いだろうか。どこか甘いような、それでいて胸がざわつくような奇妙な情動を誘う臭い。僕はこの臭いがあまり好きではなかった。

影の少女が振り向いた。その途端、カーテンが一際大きくはためいた。そして、影の少女の姿が露わになる。

それはあの子だった。何度も夢に見てきたあの子。金糸があしらわれた美しい浴衣を着ていたあの子。そして金木犀と瓜二つのあの子。

しかし、窓のさっしに腰かけている君は浴衣を着てはいなかった。その代わりにどこか見たことのあるような、そんなありふれたセーラー服姿だった。

君は僕のことを一瞥したかと思うと、一瞬だけ目を丸くさせた。そして、手に持った竹定規でさっしの開いた空間を小さく叩き、手をこまねいた。


気が付くと、僕は君の隣に腰かけていた。

夕暮れというにはまだ早い、ありふれた放課後の風景が広がっている。眼下にはピロティとロータリーが広がっており、多くの生徒が行き来している。しかし、その誰もが身支度をして帰っているという風ではなかった。

色とりどりの看板、ポップな印象を受けるフォントで書かれた文字、色紙で作られた満開の花。多くの生徒がそんなものを和気あいあいとこしらえている。

当の僕たちも同じ学校の学徒のはずなのに、どうしてかその輪の中に入っていない。二人で空き教室に残って黒板消しをのんびりと叩いている。

僕はちらりと君の顔を見た。君は眼下の風景をぼぅっと眺めていた。まるで自分には関係のない存在を暇だから見ている、という感じに。

僕は何かを言った。

「~~~」

……。しかし、やはり何も聞こえない。いつもの夢と同じ、僕と君の声だけが聞こえない。

だけど、何となく何を言ったのかは分かるような気がした。多分こうだ。「準備に参加しないの?」だろう。

その質問に、君は肩を竦めるだけで返事をした。

その拍子に、黒板消しが君の手のひらから零れ落ちた。それはそのまま窓の外に消え、そして刹那の後、乾いた音が聞こえてきた。

僕と君は目を見開いて窓に体を乗り出した。人があんなにも多くいた場所に物を落としてしまったのだ。驚きもするし、内心結構ぞっともした。もし誰かに当たっていたとしたら、それが黒板消しであろうとも結構痛いはずだ。

しかし、それは杞憂だった。ピロティ入り口には誰も居なかった。コンクリートでできた床には、ぽつんと黒板消しが取り残されている。よく見るとピロティは荷物置きのようになっていて、逆に人が居なかったらしい。不幸中の幸いだ。

僕と君は恐る恐るといったふうに目を合わせた。そして互いが何かを確認しあうかのように口から息を漏らすと、愉快そうに笑い始めた。

声は依然として聞こえない。だが、下げられた目尻に上がった口角、そして空になった手で横隔膜辺りを抑えている仕草。聞こえなくても聴こえる。


ひとしきり笑った後、僕は教室の黒板横の入り口から中に入ってくる一つの人影を見た。とっさに振り向くと、そこには神事の装束に身を包んだ老婆が立っていた。あぁいうのを巫女服と呼ぶのだろうか。赤い袴は履いていないが、真っ白な装束はいかにも清廉そうだ。腰は曲がっており、全体的に小さい。しかし、目は獰猛な獣のように吊り上がっており、老練な印象を与えてくる。

学校の教室の一角に神事の装束に身を包んだ老婆。なんとも奇妙な光景だった。その老婆は何も言わない。ただ、そこに物言わず立っている。

すると、君もそれに気が付いたようだった。そして軽快に窓のさっしから飛び降りて、老婆の方に走り寄っていった。

老婆は顔色一つ変えない。そして一度だけ口を動かした。。

君は時間を置かずして老婆の元に辿りついた。そして短く何かを耳元で話した後、僕に向かって手を振った。多分、これは別れの挨拶だ。

僕は手を伸ばした。待って、と。しかし、行動に言葉がのらない。歯痒い。

そんなことをしていると、君は踵を返して教室を後にしようとした。扉をくぐる背。そして角に吸い込まれていく肩。

老婆はまだそこに立っていた。そして、僕の方を見ている。じっと、太い釘を入念に刺すように。

僕にはこの老婆がひどく嫌な存在に感じた。感じの悪い、という意味の嫌ではなく、もっと根源的な嫌悪感。それが僕の皮膚を貫通して骨に穿ってくるようだった。

あのまま君を連れていかれてはいけない。だが、どうすればいい?今から走れば間に合うかもしれない。でも、これは夢なんだ。一度、過去僕が体験したことの夢なんだ。なら、僕の体がこうも動かないのなら、多分僕は動かなかったのだろう。

嫌悪感が僕を取り巻く。この老婆の存在なんて可愛く思えるほど大きな嫌悪感が僕の内面から亀裂に沿って溢れ出す。この時も僕は罪を重ねたのかもしれない。

老婆が振り返った。そして僕に背中を向けて歩き出した。君の背中を追うようにして。

そのとき、老婆の腰に巻かれていた簡素な帯紐に括られていた何かが揺れた。僕の目線は、刹那そこに落とされた。

それは狐の尻尾のようだった。立派な黄金色に先端が未使用の筆のような白色。それが力なくぶらりと揺れていた。


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