第四章 その2
僕は瞼を動かした。ゆっくりと、一つ一つの動作を噛みしめるようにして。瞼は開いた。しかし、視界はうっすらと暗いままだ。瞼の影と視界の景の境界が分からない。だが、だからこそここが成れ果ての世界なのだという実感が湧く。
朧げな視界のせいか、思考も全く定まらない。夢見心地というのか、ふわふわとした浮遊感が体に覆いかぶさっている。
すると、声が聞こえたような気がした。耳を澄ましてみる。
……。やはり。聞こえる。この声は金木犀とフォクシーの声だ。二人は僕の背中側に居るようで、どのように会話しているのかは分からない。
僕は半ば反射的に体を起こそうとした。しかし、同時に強く魔が差した。二人は何を話しているのだろう。盗み聞きすれば分かるのではないか。そんな考えが囁くように頭に響いた。
もし僕が起き上がってしまえば、二人は確実に話を止めてしまうだろう。これはチャンスだ。フォクシーは僕の時に二人きりで話すことを強要してきた。僕の役が金木犀に変わったとき、フォクシーは一体何を訊くのだろうか。そんな好奇心を殺しきれるはずもなかった。自分の置かれている状況は完全に好奇心によって殺された。
僕はそっと耳をそばだてた。
「じゃあ人間だったときの記憶は完全にないってことね」
「まぁ、そうなっちゃうね。
ごめんね、何にも役に立てそうになくって」
「別に、はなからあんたの記憶をあてになんてしてないわ。期待していることといえば…、そうね、もっと別の事よ」
「べつ?」
「そぅ、別よ。大丈夫。そんなに身構えなくっても大丈夫よ。取って食ったりなんてしないわ。
ねぇ、金木犀。あんた、なんで夢の世界にあいつと一緒に来なかったの?」
「えっ?来なかったっていうか、来れなかったっていうか。そもそも二人がそんな世界に行ってること自体全然知らなかったもん。来る来ないとかそんな次元の話じゃないよ。その間の記憶だって全然ないし」
「……。そぅ、そうよね。ごめんなさい」
「ほんとに謝ってる?素っ気なさ過ぎだよ、フォクシーちゃん」
「ごめんって。今のは何ていうか、形式的な質問よ。ジャブみたいなもんね。本題はここから。
私とあいつが夢の世界に行っていた間、ここではどれくらいの時間が経ったかは分からない。ここは明るさも変わらないし、そもそも時間の概念があるかさえも分からないけど、少なくとも一分二分の出来事じゃないはずよ」
「どうしてそう思うの?」
どうしてと訊く金木犀に、フォクシーは首を少し間を置いた。
「だって、私とあいつが夢の世界に入ったのは参道前でしょ?で、目が覚めたのは広場のど真ん中。瞬間移動でもしない限りおかしいでしょ」
「そっか。もしかしたらほんとに瞬間移動でもしたんじゃないの?」
金木犀の軽口に、フォクシーは一つのため息で返した。
それでね、金木犀に訊きたいのは、こう。あんたは私たちが夢の世界に行っている間、あんた自身はなにをしてたと思う?」
「私が、なにをしてたか?」
「そぅ、あんたがなにしてたか。私とあいつは夢の世界で同じ時間を過ごしていた。互いが互いを認識しあってる。夢の世界で何があったかも分かり合っている。
けど、あんたは別。他人もあんた自身も自分が何をどうしていたのか分からない。何も分からないの。夢の世界にも来ないで、あんたは成れ果ての世界に居た。なら、あんたの体はこの世界で何をしてたと思う?」
「意味が、分からないよ…。私悪いことなんてしてない。嘘もついてない。なのにどうしてそんな意地悪なこと…!」
金木犀は語調を荒らげ、責めるように言葉を放った。それにフォクシーは若干の焦りを覚えたようだ。
「ちょっと落ち着いてって。ごめん、語弊があったかも。別にあんた自身が悪いことを企んでるとは思わないわ。なんていうか、元のあんたと違って、馬鹿天然みたいなあんたにそんな器用な事出来なさそうだもの。
私が訊きたかったのは……、こう、かな。
あんたが気を失っている間に、あんたの体はどうなっていたのかしら、ってこと」
「私が気を失っている間…」
「そぅ、気を失ってる間の事だから確かなことは言えないのは重々承知してるわ。だから勘とか推測でもいいの。あんたの体は一体何をしてたと思う?」
「……。気を失ってたんだから、私も倒れてた、とか?」
「そうね、私もその線が一番濃厚だと思う。でも、それ以外だとしたら?」
「それ以外……。
そもそもこの世界にも居なかった、とか?ほら、私ってコータローの瞳の裏に居るらしいじゃん。まぁ、これはコータロー曰くだけど。だから、コータローの意識がなければ私も存在出来なかった、とか」
「なるほどね、それはありえそう」
「あぁ…。でもやっぱり無しかも。コータローが寝てる時って私動けるんだよね。寝顔をじっと見たり、座ってぼぅっとしたり、点いたままのテレビを見たり、そんなことできたから、可能性はちょっと低いかも」
金木犀は小さく息を吐いた。
「忘れないで欲しいけど、あれはあいつの記憶の成れの果てが原因だったわけだから、睡眠とは違うのよ」
「分かってるけど、でも、ねぇ…」
「まぁ、いいわ。こうして訊いてる理由も本人の主観を聞きたかったからだし」
「あと、もう一つあるんだけど……。これはちょっと…、どうだろう」
「言ってみて、言うだけタダよ」
「なんかけち臭いね、そのセリフ。
えっと、二人が私を探せなかっただけで、私も夢の世界にいた、とか?」
「金木犀が…、いた?あそこに?」
「だって、私だけ行けないなんておかしいでしょ?仲間外れは酷いもん。でも、誰も私の行動が追えなかったのなら、もしかしたら私が夢の世界に居たってことも否定しきれないでしょ?この考えの方が私は好き」
「うん…。盲点だったかも。結構探した結果見つからなかったから、あんたが夢の世界にいたって可能性を完全に排除しちゃってたかも。でも、居たのならどこに?」
「そんなの分かんないよ」
「覚えてないのよね…。そうね。ありがとう。聞きたいことはこれで終わり」
その後、フォクシーは口数こそ少なかったが、訊かれたら返す程度には会話をしていた。一度だけ金木犀が「私のこと嫌ってると思ってた」と漏らしたときだけ空気が凍り付いたような気がしたが、フォクシーは「警戒を保留にしただけよ。完全には解いていないけど、まぁ、無害そうだし。今はまだいいかなって」と答えた。
僕は頃合いを見計らって起き上がった。わざとらしくないように小さく呻き声をあげながら、関節を一つ一つ伸ばすようにして広げていく。そしてもっともなことを呟く。
「あれ…。ここは」
「あっ!コータロー!やっと起きたんだ」
「まったく、起きなきゃ置いてどこかに行こうと思ってたわ」
そして、二つの影が安堵の籠った笑みを浮かべながらこちらに近づいてきた。金木犀の髪がふわりと舞って、軌跡がきらりと光った。そこに実在していないのに、どこからか甘い香りが漂ってくるような気がする。
「なんで僕は倒れてたんだ…?」
この言い方は少しわざとらしかったか、と思い、生唾を飲み込む。しかし、それはただの杞憂だった。二人は全く疑う素振りがない。その様子を見ていると、少しだけ、ほんの少しだけ罪悪感を覚えてしまう。
「コータロー、急に頭を押さえだしたんだよ。今は…、大丈夫そうだけど。あの時は凄かったんだから。目は血走ってたし、唸り声をあげてたし。まるで獣みたいだったんだよ」
獣みたい。その様子をどれだけ頭の中で再現しようにも、現実味を帯びることはなかった。どこかフィクションめいた人狼の姿が思い浮かんでは、それを塗りつぶしていく。
あの時の僕は自分でも何が何だか分からなかった。記憶の奥底を探るようにして潜ると、急に頭の中が焼き切れるような痛みが走った。赫色の電熱線で記憶の領域を焼き切られていくようなおぞましい感覚。
ようやく思い出せた幼馴染の存在。ずっと謎だったあの浴衣の子。それに像が結びそうになったのに、それを良しとはされなかった。記憶の道を寸断されてしまったように、それ以上のことは思い出せない。
「夢に出てきたあの子のことがなんとなく分かったんだ。でも、無理して思い出そうとすると、急に痛くなって…」
あのときの痛みを思い出してしまい、僕は咄嗟に手で目を覆った。あまりにも常軌を逸した痛みだったからか、体が拒絶反応を起こしている。思い出す、という行為でさえ二の足を踏んでしまう。
「それって、あれ?脳の過負荷ってやつ?」
フォクシーが前足を自分の頭の横に持っていき、くるくると軌道を描いた。
「多分そうだけど、そうじゃないっていうか…」
「成れの果てが絡んでいるんだもの。そりゃ何かスピリチュアルなサムシングがあるんだろうけどね」
フォクシーは茶化したようにそう言った。僕は目を覆った指の隙間からフォクシーのことを覗いた。フォクシーは僕を見ている。口元は微笑んでいるが、その奥にこちらを伺っているような控えめな感情が見えた。心配しているのかもしれない。僕が気落ちしないようにフォクシーも気を使っているのかも。
僕は手をそのままに空を仰いだ。隙間から見える景色は相変わらずだ。うす暗闇。黒い霧が薄くのびているようだ。僕はそんな霧が肺に入ることさえ厭わずに、ゆっくりと、大きく息を吸った。肺が膨張し、肩が大きく揺れる。そして一気に吐き出した。生暖かい息はそのまま大気の中に希釈されていった。
「もう、大丈夫。今は痛くも痒くもないし、思い出そうとしなければ大丈夫な気がする。
心配かけて、ごめん」
溜めて吐き出された言葉は、とても熱っぽかった。その熱量が、どれほど感情を表せているのかは分からない。でも、その言葉はうす暗闇の中で確かにそこにあった。
「夢の子のこと、思い出せたんだよね」
金木犀は恐る恐る訊いた。これまでも話の中で何度かそのことに触れてきたが、今一度、きちんと聴きたいのだろう。これが本来の旅の目的の一つだったのだから。
「あぁ、一部分だけだけど、思い出してきた。あの祭り、金狐祭でのあの子との出来事。それだけは完全に思い出した、はず」
言葉締めはなんとも自信無さげに言ってしまった。でも、これが今の僕の性分であって、そのことはここにいる皆なら分かってくれるはず。そう信じたい。
瞬間、僕は光を見た。まるで、それは黒色の雲間から差し込んでくる光のような、鬱蒼と茂る草叢の中に咲く一輪の花のような光を。
金木犀は首を少しだけ横に倒し、薄い首筋を見せている。目尻には小さな水たまりが優しく光っていて、今にも零れ落ちそうだ。その水面は金木犀の感情によって細かに揺れている。祈るかのようにして胸前で編まれていた指を一本ずつ解き、厳かめいて腕を広げた。そして一言。
「やったね!」
そして、僕の視界は黄色い花でいっぱいになった。甘く香り高い芳香が鼻を衝く。むせ返るようなその金木犀の匂いに、僕は驚きの声を漏らした。いや、本当にそのことに対しての驚きだったのだろうか。匂い、錯覚とは違う香り高い芳香もさることながら、嗅覚以外にも驚くべきことがあった。
僕の肩に、薄い胸板に、腕にかかるささやかな重さ。普通なら小さすぎて誰しもが反応に困るようなささやかな力。それが僕の体にのしかかってきた。丁度、金木犀が僕の体に抱き着いているかのように。
「やった!やっぱり来た甲斐があったね!」
金木犀はまだ気が付いていない。誰にも触れることの出来ない金木犀が、僕の体に触れていることに。力は微量で、人間に触れられているというよりかは、体全体を浮き輪のような空気圧で押されている感じに近いが。しかし、確かに僕の体は金木犀に触れていた。
「ちょ、金木犀!からだ、からだ!」
「もぅ、体がどーした、の…」
金木犀は体を少し弛緩させた後、軽く自分の体に視線を落とした。僕と金木犀の間には拳一個分くらいの隙間が空き、それと同時に細やかな圧も消えてしまった。しかし、互いの体には温かさという名残が残っていた。
金木犀の語彙力は完全に消滅した。「あっ」とか「えっ」とか、そんな母音だけで構成された音を口から漏らしながら、僕の体をぺたぺたと触っている。僕が「どこ触ってるんだよ!」と文句を言ってもお構いなしだ。
「私、触れるよ!コータローに触れる!」
その場で跳びはねる金木犀の言葉もまた弾んでいた。
「どうして急に…?」
フォクシーが心底不思議そうにして首を傾げた。考えられることは、一つしかない。
「僕の記憶が戻って、それが金木犀に影響を与えたのかも」
「ほんと不思議ね。金木犀って」
僕はそれに何も答えなかった。
記憶を探す旅。夢に区切りをつける旅。自分の罪に向き合う旅。全てが自分本位で、理由も前向きとは言えなかったけど、それでも、思いがけない結果に僕は満足していた。記憶が戻ることよりも深く、僕は満ち足りていた。
「これからどうしよっか」
触る、という行為にひとしきり満足した金木犀は好奇心の行き場を探すようにして辺りに視線を彷徨わせた。
思いがけずに参道で長居をしてしまった。もっと早くにここを去って、小屋に戻るでも良かったはずだった。しかし、この参道も別段居心地が悪い感じでもない。移動する手間もあるのなら、参道横の石垣に座っていてもいい気がした。
「もぅあんたの祭りの夢はあれで終わったのよね」
「あぁ、多分あれで終わりなはず。祭りの夢は…」
「ん?なんか嫌に変な言い回しね」
「さっき気絶したときにさ、別の夢を見たんだよ。浴衣のあの子と学校に二人きりでいる夢を。雰囲気的にあれは祭りの夢と同じだったと思う」
「学校…。そぅ、学校、ね…」
フォクシーの視線が虚ろを含んだ。僕の目にはその視線がとても自然で、同時に奇妙なように映った。
「フォクシー、お前って…」
僕の言葉はそこまで言って路頭に迷った。それに続ける言葉が見当たらなかったからだ。口をついて出た何かは、自分でも存在が掴めない。ただ、今のフォクシーの虚ろが、とても自然で綺麗に見えた。
そういえば、夢ではしゃいでいたフォクシーは今目の前にいるフォクシーと随分印象が違うような気がする。軽口だったり、感情的だったり、なんというかハツラツとしていた気がした。どうしてなのかは分からない。ただ、冷静でいようとしているフォクシーよりも、ああやって楽しげでいたり、哀し気でいるフォクシーの方が、なんというか、フォクシーらしい気がした。
「私って、なによ」
ふいと横を向くと、不満げなフォクシーの鼻先が見えた。「なによ!言ってみなさいよ!」と言いながら前足でぐりぐりと脇腹を押してきている。そのこそばゆさに小さく笑ってしまった。
「ごめんって。自分でも何を言うのか分かんなくなっちゃった」
「そこ!二人でいちゃいちゃすんな!私も混ぜてよ!」
「あんたが来たら誰が収拾すんのよ。もぅ、話を戻すわよ」
そして、フォクシーは小さく咳をした。
「学校の夢っていうの、もっと詳しく教えてくれる?何か分かることがあるかもしれないわ」
僕は夢の事細かを丁寧に話した。過ぎ行く夏の空気に木魂する蝉しぐれ。色鮮やかな看板に活気づいた校舎。そして、それを俯瞰する僕とあの子。
爽やかすぎて喉元を過ぎたかも忘れてしまうようなあの感覚。その後味に感じた言いも言われぬえぐ味。
その全てを伝えきれたかは分からない。二人とも僕が話している間一切口を開かずに聞いていたから。それでも、僕は精いっぱいを尽くした。夢の中に意識を潜行させ、その工程をなぞっていった。
「学校なら結構簡単に絞れそうね。このあたりの学校っていうと一か所しかないもの」
真剣そのものな面持ちのフォクシーは結論を出したかのようにすっぱりと言いきった。
「学校もこの世界にあるの?」
僕は純粋な疑問を問うた。この世界が成れ果ての世界であるなら、きっとこの世界に存在しているもの全てが成れの果てなのではないか。しかし、夢の中の学校はあまりにも活気があり、ここ一年やそこらで人々から淘汰されるような雰囲気は感じられなかった。それなのに、フォクシーはまるでこの世界にその学校が存在しているかのように言い切った。この神社も然り、やはり釈然としない。
「そんなのあるに決まってるでしょ?
……あぁ、もしかして不思議なのね。どうしてこの世界に現実とおんなじ建物があるのかって。前にもあんたに説明したでしょ。記憶よ、記憶。誰かが記憶や思い出を消せば、ひり出されたゴミみたいにこの世界に堆積していく。
学校なんてみんな覚えているようで、実はそんなに覚えてないものなのよ。どこに自分のクラスがあったのか、出席番号が何番だったとか、担任は誰だったとか、ほんとに取るに足らない記憶なんて誰も覚えちゃいないのよ。だから、この世界には学校が存在している。もちろん、あんたの学校の記憶がここにあるんだとしたら、あんたの記憶の成れの果てを元にした学校があるはずだしね」
みんなが捨てた思い出、記憶。僕がそう小さく呟くと、喉がひんやりと冷たく感じた。
僕は記憶が無い。憶えておくべき記憶を〝取り落とした〟という体で追憶を探している。でも、多分、みんなが捨てた思い出は、彼らが捨てたくて捨てたものではないのかもしれない。そう漠然と考えてしまった。なんとなく忘れてしまった思い出。忙しい日常でどこかに落としてしまった思い出。あるときふと思い出すと、無性に懐かしさと温かさを感じる思い出。タンスの裏に落としてしまった物のように、無くなったことさえも忘れ、ある日突然目の前に出てきては懐かしさを与えてくる存在。そんな思い出が学校の思い出なのではないか。
そう考えると、フォクシーの言っていた「ひり出されたゴミ」という言葉はフォクシーの主観にとても依存している言葉のように思えた。ゴミ、ではない。その思い出は宝物に違いない。少しだけ記憶を取り戻した僕は、そんな熱い何かを胸の奥に感じた。
しかし、僕はその感情を言葉にすることはなかった。フォクシーが思い出に特別な感情を抱いているのなら、それは確かにフォクシーだけのものだからだ。他の誰しもが否定することのできない、心の中に息づいている正確な感情。僕はそれに触れないことを選んだ。
しかし、金木犀はそうもいかなかったらしい。
「フォクシーちゃんって、コータローの昔を知ってるんだよね。ならさ、フォクシーちゃんの記憶の成れの果てもあるんじゃないの?」
その言葉に、僕は息を呑むことが出来なかった。間髪入れずに、フォクシーが言い放ったからだ。誰の介在の余地なく、誰にも踏み込まれたくないかのように。
「ない!私のものは全部私が持ってるの。だから、私の成れの果てなんてない」
目は苦し気だ。そして、それは何度も目にした色だった。フォクシーのその憂いを含む色は、果たして前からあったものなのか。僕を知ると言うその時のフォクシーは…。
「ご、ごめんね。訊かれたくないって言ってたもんね」
そう言う金木犀に、フォクシーは取り付く島もない。憎たらしいという感情を虚空に向けている。その視線の先に金木犀や僕はいない。
僕たちは帰路についた。とは言っても、目指したのは狐地蔵のある小屋だ。
流石に疲れてしまった。夢の世界での奮闘の痕跡は、流石は夢と言うだけはあって綺麗さっぱりと無くなっていた。ねん挫した足首や擦りむいた脛や首筋、そして耳たぶの噛み跡も。
しかし、だからといって全く疲労がないわけではない。精神的な疲れは誰しもが感じていた。僕は夢の出来事と記憶が一部戻ったことへの高ぶり。フォクシーも夢での出来事に加え、癇癪を起したことも大きいかもしれない。そして金木犀。体の像が戻ってとても嬉しかったのか、今では疲れて目を瞑っている。寝ているわけではないそうだ。ただ、感情の反動が来ているだけなのだろう。
薄暗い部屋の中、端のほうで体育座りをしながら目を閉じている金木犀は、どこか最初の姿を思い出させた。虚ろな視線を漂わせ、無言で何かを伝えようとしていたように見えたあの金木犀。金木犀はいつか「別になにも恨めしいことなんてない。幽霊じゃあるまいし」と言っていた。だけど、やっぱり今でもあの時の虚ろな視線には恨めしさというか、口惜しさがじっとりと含まれていたように感じた。気のせい、ならいいのだけど。
あぐらをかいた腿にささやかな重みが加わった。目を開けなくってもそれがなんなのかは分かる。だけど、僕は半目だけ開けて視界を作った。
やはり、その重さはフォクシーのそれだった。
「あんたも疲れたでしょ?私ももうくたくたよ。だからちょっとでも休んでよね。もし寒いのならさ、私を膝の上でもなんでも乗っけてくれたって構わないから、ね」
瞼が重たい。視界がぼやけ、うっすらとした視界が一色に塗りたくられていく。無意識に口が動いた。しかし、それが何を言っていたのか自分でも聞こえなかった。でも、多分こう言ったはずだ。
「ありがとう」
壁が小さな軋みをあげた。
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