第四章 その3
「ひもじいよ」
これは壁と言えるのだろうか。あまりにも簡素な造りの板が立てかけられているこれは、隙間風さえも防ぐことはできないだろう。
「おっかぁ、ねぇ、おっかぁ」
これは床と言えるのだろうか。土を踏み固めただけの地面は、人間が造る床とは全くの別物だろう。しかし、彼らがそれを床と言えば床なのだ。彼らにとってそれが床とは何かなんて些末な事なのだから。
泥色のぼろきれを身にまとった少女は、やつれた表情の女性の肩を揺さぶっている。その女性の反応は、しかしあまりにそっけなく虚ろな様子だった。
冷たい釜戸には釜すら収まっていない。夕餉の時間にも関わらず、そこには水蒸気すら上がっていない。ただ、小屋が纏う冷気だけがぽっかりと空いていた穴を行きかっている。
少女はふらついた足取りで小屋を出た。
夕日を背景にした山々は、まるででいだらぼっちのようだった。ふと、少女は思う。もしあのでいだらぼっちが私を踏みつけて殺してくれたら、私は楽になれるのかな、と。
少女には歩く気力は既になく、その場に力なくへたり込んだ。そして乾いた視線を地面に落とした。前を向いていたら、そのまま前に進んでしまいそうだったから。苦痛から解放されて、後戻りできないその先に行ってしまいそうにから。
やがて、村には真っ暗な帳が落ちた。優しく包み込む宵闇にそっと身を委ねようとした。
すると、舟を漕ぎだした少女の視界の中に小さな提灯の灯りが見えた気がした。禿げた段々畑を縫うように通されたつづら道、そこに薄明かりが浮かんでいた。
しかし、少女はそれを幻だと思う。油なんて高級な物を使える人なんてこの村にはいやしないからだ。だが、その灯りは時間が経つほどに大きく、近くなっていった。
そして、最後には灯りは二人の人影を映し出した。一人は少女の父親の姿。彼が提灯を提げていたのだ。獣油の臭いが鼻孔にべったりとくっつく。少女は目を丸くした。そしてこう思う。油なんてなんの腹の足しにもなりはしないのに、と。
父の後ろには誰かが立っていた。父は私が地面に座り込んでいるのを一瞥すると、一歩横に身を引いた。そして灯りの元にしんがりの姿が晒された。
それは一人の巫女だった。晴れやかな赤色は使われず、真夏の太陽のような白色で身を包んだ老練そうな巫女。それが少女のことを射抜き見ていた。
父が少女に手招きをした。それに少女は遅々として立ち上がり、吸い込まれるようにして歩き出した。大人は怖い。空腹と同じくらい。
そして、父は言った。少女の方は見ずに、巫女だけを視界に映して。
「これで祭りが開けそうですか?」
白色の巫女は首を縦に振った。それに父は少しだけ表情を緩めた。少女は父の安心したような表情を初めて見た。しかし、少女はそれにほっとしなかった。ただ、恐怖した。何か良くないことが起ころうとしているかのような、そんな漠然とした恐怖があった。
少女は恐る恐る白色の巫女の方に向いた。すると、目が合ってしまった。びくりと大きく痙攣する少女の体。それに白色の巫女が言葉を投げる。
「嬢ちゃん。何が欲しい?」
「ご飯」
少女は考える余地を必要としなかった。ただ、その単語だけが頭の中をぐるぐると渦巻いていたから。少女はただ生きたかった。他に不自由があったって構わない。ただ、ご飯を食べて、生きたかった。
すると、白色の巫女は踵を返した。そして背中で少女に言った。
「ついてきな」
少女は見えない糸で引かれていった。宵闇の中、父の持っていた提灯はいつの間にか少女の手の中にあった。まるでその提灯は父からの餞別のようだった。だが、それも些末な事だった。少女は金色の灯りを携えて、温かなおかずの数々を思い浮かべてはそれを頬張っていった。
後ろから父の声が聞こえたような気がした。しかし、少女には朧げで聞こえなかった。その言葉が「立派な稲穂におなり」と言っていたことに少女も、父本人も気が付かない。
すすり泣く声だけが、その言葉を上塗りしていったから。
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