第四章 その4
まただ。また、奇妙な夢を見た。僕の夢ではない、別の誰かの夢。そこに僕は居なくて、ただその状況を俯瞰して見ている。しかし、俯瞰して見ているはずなのに、とても痛い。寂しく、無性に腹が空き、光に目が痛み、そしてやっぱりさみしい。
とても古い時代のように見えた。それもここ数十年という年月では語れないような悠久の古典をそこに感じた。
森の奥に生き埋めにされた誰か。前に見た夢と関係があるのだろうか。今見た夢を必死に思い出そうとしてみるが、強烈に印象付けられた空腹の感覚が脳をかき乱す。空腹の名残が腹の底に溜まっている。
「あ、起きたのね」
腿の上で居住まいを直したフォクシーが、下から僕の顔を覗き見た。そのとき、心地の良い煌びやかな虹彩がちらりと光った。まるで張り巡らされた森の天蓋の隙間を縫うように、経糸の光の筋が煌々と射しているようだった。その光はあまりに刺激が強くて、寝起きの気付けには十分すぎるほどだった。
「なんかさっきよりも顔色悪くない?もしかして、またなんか夢でも見たの?」
フォクシーは首を少しだけ横に傾け、僕の目の奥を見ようと顔を覗きこませた。
僕はその視線に心臓が一度どきりと痙攣した。だけど、視線は逸らせなかった。
「なんかあったら話してね。前に言ったでしょ。私だけは絶対にあんたの味方だから。だから…、ね?」
時折見せるこの優しすぎる態度は、僕に妙にこそばゆい感覚を植え付ける。僕はフォクシーのことをフォクシーとでしか知らない。でも、当然ながらフォクシーの中には僕の知らない僕とフォクシーが存在している。その今は決して埋まることのない隙間を、フォクシーは超えようとしてくる。それがなんともこそばゆい。
「あぁ。罪なんてない、だろ?分かってるよ。ちゃんと分かってるから」
重たい頭を壁から離し、手を添えながら軽く左右に振ってみせた。頭がもとの位置に戻ってくるたびに、頭が冷たさを取り戻していく。そして最後に鼻で大きく息を出した。
視線を部屋の角に移す。さっき金木犀が沈黙していた場所だ。すると、相変わらず金木犀はそこに沈黙していた。目は閉じ、いつもはやかましい程に閉じない口をつむんでいる。
そして、僕は名前を呼んだ。
「金木犀、起きろって」
すると、いつの間にかその目は開け放たれており、きょろっと視線がこちらに向いた。そして歯を見せずに口元を上げて優しく微笑んだ。
「おはよ、コータロー」
「前にも自分の記憶とは別の夢を見てたらしいよね。あの、かごめかごめが聞こえたっていうあれ」
冷たい囲炉裏を囲んでいる僕たちは、薄暗い中で視線と言葉を交わしていた。その内容は僕の記憶だ。僕の夢なのに、僕の夢ではない、奇妙な記憶。それについて話をつける必要があった。
「そう、なんだよ。記憶がないから僕がそこに行ったことがあるかどうかは分からないけど、でも確実にあれは現代の出来事じゃないと思う。
あんな森の中のあばら家とも言えないような小屋で生活してるなんて今では考えらえないし、釜戸とかぼろ切れみたいな着物とか、獣油の提灯なんてまるで時代劇のセットだよ。ただ、ハリボテな感じは全然しなかったんだけどね」
金木犀はそわそわと視線を動かし、心配そうにこちらを見ている。
「その夢に、誰か他の人は居たの?前は生き埋めにされてる人がいたっていってたよね」
「あぁ、今回は前の夢よりもすごく明確だった。
確か、お腹を空かせた女の子の元に白い装束の婆さんがやってきたんだ。そして、女の子の願いを訊いて、連れて行った…」
そこまで言ったところで、僕の頭の中に靄が掛かった。なにか重要なことを見逃している、そんな感じがした。なんだろう。一体何がそんなに気になるんだ。女の子に、老婆。いや、ただの老婆じゃない。白い服を着た巫女のような老婆だ。
「あっ。そうか」
そのつぶやきと同時に、頭の中の見通しがたった。深い靄が晴れて、彼岸にある何かの姿が完全に晒された。そのものの全貌を知るにはまだ距離が遠いけど、でも、一つ謎が解けたことは確かだった。
「この夢、僕が見た学校の夢と似てない?あの子が白色の巫女に連れていかれたことと、女の子が白い装束の老婆に連れていかれたこと。これ、絶対何かあるよ」
それに金木犀が口を開いた。
「それって、二つの夢が繋がってるってこと?」
「そう。そう仮定するとさ、学校の夢は声が聞こえなかったんだけどさ、今見た夢と比較すれば分かることがあるんじゃないかって。そう思うんだ」
僕は温かな鼻息を立てながら、そう捲し立てた。それに金木犀とフォクシーは思案しているようにして顔を下に傾けた。そして少しして、フォクシーが「うん」と頷いた。
「可能性は高いと思うわ。同じような服を着た人物が出てきたんだもの。無関係って考える方が無理があるわよね
じゃあ、さっき見た夢で何か覚えてることはある?」
僕は思考を記憶の底に潜行させた。空腹、宵闇、寂しさ。その感覚を全てふるいにかけて必要な情報だけを抽出していく。必要なのは父親の発言、婆さんの質問。心象ではない、完全な情報だ。
「確か、女の子の父親は婆さんに、祭りは開けそうか、って訊いてたような。それに婆さんは頷いてた」
「「祭り?」」
二人の素っ頓狂な声が重なった。それに二人は互いに刹那の間目を合わせ、そして僕に視線を戻した。
「祭りで関係のありそうなのって…、金狐祭のこと?」
フォクシーは視線を僕の左上に移し、思い出すようにしてゆっくりと言った。
「金狐祭ってなぁに?」
そうか。金木犀は夢の世界で一緒に行動していなかったから知らないんだ。
「金狐祭って僕の見てた夢の祭りの事だよ。フォクシーと一緒に祭りのことを調べてた時に教えてもらったんだ、夢の中に居た人に」
その説明に、金木犀は「へぇ~」と間の抜けた感心の音を漏らした。
「でもさ、あんたのその情報だとさ、祭りが金狐祭だって断言はできないわよね」
「そうだね。それだけ、ならね」
「ん?なにかまだあるの?」
「夢の最後に、女の子の父親が呟いてたんだ。立派な稲穂におなり、って」
そう言った瞬間、フォクシーの体が数度大きく痙攣した。そして恐る恐る口を開いて、冷たい息を吐いた。
「本当に、立派な稲穂におなり、って言ってたの?」
その声もまた震えていた。
「あぁ、確かにそう言ってた。
それでさ、その立派な稲穂って金狐祭に出てくるって噂の怪物、饐えた稲穂に字面が似てない?まるで反対言葉っていうか。ほら、立派な稲穂に饐えた稲穂ってね」
僕が言い終わってもフォクシーは黙ったままだ。それを見かねた金木犀は、フォクシーの代わりに言葉を紡いだ。
「その、饐えた稲穂?が金狐祭に出てくるし、立派な稲穂と関係がありそうだから夢の中で言っていた祭りが金狐祭だってこと?」
「あぁ、そう、だね…
なぁ、フォクシー。本当に大丈夫か?」
僕がそう訊くと、フォクシーはなんでもないように小さく口を開き、呟いた。
「立派な稲穂に饐えた稲穂があるってことは、それって…、立派な稲穂の成れの果てが饐えた稲穂ってことじゃないの?」
立派だったものが、腐り落ちてしまう。黄金色の稲穂だったものが、腐臭の伴うどろどろとした何かに成れ果ててしまう。フォクシーはそう言っている。
そのとき、フォクシーはちらりと金木犀の方を向いた。本当に一瞬。僕はフォクシーの対面に座ってたからなんとなく気が付いたけど、金木犀はその視線に気が付いてはいないだろう。その、金木犀とフォクシーが出会った最初に湛えていた敵愾心の瞳に。
学校に向かう道中、フォクシーが奇妙なことを言った。
「どうして成れの果てが近づいて来ないのかしら」
僕たちは今舗装された道路を歩いている。周囲には点々と民家が立ち並んでおり、寂れてはいるがここは普通の住宅地と言えるだろう。フォクシー曰く、こんな人里では人間との縁に頼って出没する成れの果てが大勢存在しているらしい。半分死に、半分生きている彼らは、人に見出された存在意義の残骸を寄る辺として、こんな場所に出てくるという。
しかし、僕はまだ成れの果てというものをきちんと目にしたことがない。片鱗は何度か感じたことはある。しかし、こうして住宅地を歩いているが、それでも遭遇はおろか姿かたちさえも見たことがない。全く、存在自体が疑わしくなってくるくらいだ。
フォクシーは生け垣や電柱の影に注意を払っている。だが、闇に泥んでいる影は動く気配はない。見られている気もしない。ただ、なにも感じない。
「いつもはいるんでしょ?」
金木犀は首を小さく傾けながら、僕の肩に乗っているフォクシーに顔を寄せた。その拍子に茶色がかった髪が小さく揺れて、黄色い花の髪留めが咲いた。
「そりゃもう、うじゃうじゃいるわ。だけど、今は全然…。一体どうなってるのかしら」
フォクシーも一緒になって首を傾げている。
「いないことは喜ぶべき、なのかな?」
僕は顎に手を添えながら呟いた。
成れの果てが居なければそれだけ安全に動けるだろう。だからこそ、今は安全だ。しかし、どうしてそうなっているのか、ということが分かっていないと後々良くないことが起こるかもしれない。
前を歩きながらそう思案していると、フォクシーが口を開いた。
「そこを右に曲がって。その突き当りが学校よ。
……。考えることは重要だけどさ、もう目的地に着くからね。気合い入れなさいよ」
尻尾が背中を小さく揺する。
顔を上げると、前に伸びていた歩道の白線が右に折れ曲がっている。白線の真上を歩いていた僕は、足首を軸にして勢いよく体をひねった。生け垣の角が視野の端に移っていく度に視界が広がっていく。手前側の電柱に避難所の看板が立てかけてある。学校の名前は見えない。名前にノイズが覆いかぶさるようにして視界が効かなくなっていた。しかし、ここから避難所である学校までの距離の標識は見えた。〈右折100m〉らしい。
「あれ、かな」
金木犀は鼻で道路の延長線上を指した。僕もそれに目を移した。
灰色とは言えない。釉薬を付けずに焼かれたせともののような泥色の建物が反り立っている。背の低い正門とその奥の校舎の放つ圧力は奇妙な対比を生み出していた。超えることがさも簡単そうな門。そしてその奥に土地全体を包み込むようにして横に広がり立っている校舎。その姿は返しの付いている罠のようでもあり、大口を開けている巨人のようでもあった。入ったら出られない、そんな感覚が眼球を通して脳に突き刺さってくる。
学校っていうのは、とても奇妙な場所だと思う。人によっては一日の半分かそれ以上の時間を過ごす。それも一年を通して。朝の6時に部活を始め、勉学に励み、そしてまた部活をする。そんなに多くの時間を過ごしているはずなのに、そこは自分だけの空間とは決して言えない。そこに常に誰かがおり、否応にも誰かと時間を共有していく。
僕は記憶を失っている。でも、僕にも過去はあったはずだ。失って、そして取り戻しつつある過去。
僕にもそこに学校の思い出があったはずだ。ずっとずっと時間を共有してきたはずの誰かの存在が。
人が恐怖するのはその先に未知のものが存在していると思うからだ。なら、僕はこの不気味な学校が怖いとは思わない。その先に空腹と宵闇、そして哀愁に似た感覚がそこにあったとしても、それは僕がタンスの裏に落としてしまった楽しみなのだから。
僕は錆びついた門に手を掛けた。門は下部に滑車が付いており、それが左右に展開される仕組みだった。しかし、いざ門を横にスライドさせようと力を加えても全く動く気配はない。金属特有のいやに耳につく噪音が駆動部分から聞こえる。
飛び越えようと門の骨組みの上に乗せた手に力を入れた。すると、ざらっという感覚が手のひらを覆った。その不快感に思わず顔をしかめ、手を裏返してみる。すると、薄暗い視界の中に、僕の手のひらが浮かび上がった。随分と赤黒く見える。ぷんと臭う鉄の香り。手のひらは異様なほどに冷たく感じた。
胃酸が上ってくる感じがした。自分の頭の中で「これはただの錆だ」と言いきかせる。しかし、手のひらの感覚や視界の色合い、そして臭い立つ饐えたそれは、まさに時間が経って粘性を帯びた血のようだった。
その気持ち悪さに思わず顔をしかめ、両手ですり合わせて箔を落とそうとした。その拍子に気色の悪い饐えた錆の臭いがより強くなる。まるで、鼻の奥まで錆がこびり付いているようだ。
肩口に乗っているフォクシーも鼻を抑えて鼻をすすっている。そして小さく一度咳をした。
「錆の臭いって嫌いなのよね。なんていうか、死臭みたいな臭いっていうのかな」
「死臭…」
「錆びついた物って自分の力だけではどうにもならないでしょ?潤滑油とか磨くとか、そういうのがないと元の輝きを取り戻せないじゃない。ただ、自分が朽ちるのを待つだけ、そんなときに臭ってくる錆の臭いって、ねぇ……」
こすり合わせたおかげで手のひらの錆はだいぶ下に落ちた。地面にはまだら模様に錆の箔が落ちているのが見える。
それを横から見ていた金木犀は、僕の腕と地面に落ちた錆の箔を交互に視線を送りながら口を開いた。
「錆がついた手で傷とか触っちゃいけないって前にテレビで言ってたよ。はしょうふー、になるんだっけ?だからあんまり腕とか触っちゃいけないって」
破傷風。聞いたことがある。どんな病気なのかは全然知らないけど、それでも毎年何人も死んでることは知っている。
僕の腕には前に神社に行ったときに葉叢の葉っぱで傷ついた跡が何か所かある。何かに意識を集中させると全然気にならないが、ちょっとでも意識が散漫になるとむず痒さが襲い掛かってくる。僕はそれを時折無意識に掻いていた。
死臭が運んでくる死。無意識の自殺。
そう考えると、手のひらの錆の残滓が残す冷たさが意味を帯びてきた。とても、気味が悪い。
門を飛び越えるのは諦めた。もう門には触れたくなかったし、錆を落とすのは不快で面倒だったからだ。
周囲を見てみると、門の左横に人が出入りするための側門が付いていた。見たところ蝶番は錆びついているように見えるが、門の取っ手は薄い青色のペンキで覆われており、手が汚れる心配はなさそうだ。
僕は取っ手に手を掛けて、ゆっくりと門を引いてみた。すると、きぃと噪音を上げながらゆっくりと動き出した。
そして僕たちは境界を跨いだ。
数台の車を停められるロータリーは、しかし、もぬけの殻だった。広々として荒涼としている。長方形に縁どられた白線は所々がはげ落ちていて、底抜けのバケツのようになっていた。端に陣取っている生け垣はいつ剪定されたのだろうか。その輪郭はおぼろげで毛羽立っている。
「なんか、雰囲気あるね…」
金木犀は体を縮こませながら僕に体を寄せてきた。
肩が、ぶつかる。僕はそれに思わず強く意識してしまう。虚像が実像を結んだことは、それ以上に大きな意味を僕に与えていた。金木犀のことをどう扱うか、ということは常々考えさせられてきた。そう、考えてきたのだ。考えなくちゃ、金木犀が金木犀であるということを忘れそうになっていたから。でも、今こうして触れ合う感覚は人間のそれを無意識に彷彿とさせる。
だから、僕は反射的に身を引いてしまった。
もたれかかる姿勢だった金木犀は、力の行き場を失って重心がブレた。少し横につんのめった金木犀は、僕のことをちらりと一瞥した。その表情はどんな感情を映しているのか分からない。多分、金木犀も分かっていない。ただ、理解が追い付いていないだけなのかもしれないが。
「あっ、ごめん」
最初に口を開いたのは僕だった。そして、僕はつんのめった金木犀の両肩を掴み、体勢がそれ以上崩れるのを防いだ。
一瞬、金木犀の顔に釈然としない表情が浮かんだ。しかし、その表情は一瞬で沈んでいった。そして、その代わりに笑顔が咲いた。
「コータローも分かってきたね。私が欲しかったもの」
そう言って金木犀はそっと右肩に添えられた手に自分の手を添えた。そしてにへらと笑って、「ありがと」と言った。
金木犀は小さく足音を鳴らしながらロータリーを通り抜けていった。僕がその後姿を目で追いかけていると、肩に乗っているフォクシーがため息をついた。
「こうやって見てるとさ、女心って難しいもんね」
「なんだそれ」
「いやさ、私も色々と覚えがあるからこそ分かるんだけどね。ほんと難儀な癖だと思うし、周りも難儀しちゃうよなってね」
一体何を言ってるんだ、こいつ。金木犀が僕を好きだ、という話だろうか。そんなことなんとなく分かってる。
でも、流石にそんなことはこっぱずかしくって言えない。
「あんた本当に分かってるの?多分好きとか嫌いとかそんな薄っぺらいことしか思ってないんでしょ?
……。図星ね。分かってなくてもあんたは悪くないわ。誰も悪くないの。こういうのは。だからあんまり深刻に考えないでね」
そして、金木犀は尻尾で背中をとんとんと叩いた。
なにを言っているのかさっぱり分からない。それはただ理解が追い付いていないだけなのだろうか。金木犀は満足げだった。僕が無意識のうち取った行動が金木犀を満足させたなら、僕はそれを徹底しなければならないだろう。理解が行動に追いついていくことを信じて。
「ほら、金木犀が向こうに行っちゃうわよ」
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