第四章 その5
そこはやはり夢で見た場所によく似ていた。色鮮やかな看板や活気のある生徒はいない。ピロティにも学生の荷物はなかった。だが、それ以外の、一般的な設備の配置はほとんど一緒のように見える。ただ、学校の夢も一度しか見ていないからか自信はそれほどない。
僕たちはピロティを通り抜けて昇降口まで向かった。埃っぽく、むせるような臭いが充満している。無数に穿たれている下駄箱の穴は真っ暗で、中になにかが潜んでいても不思議ではない。しかし、この穴のどこかに僕の思い出も埃をかぶっているのかもしれない、そう思うと少しだけ恐怖も和らぐ。
昇降口を通り抜け、階段に足をかける。まだ、なにも思い出す気配はない。僕の記憶が成れの果てになっているのなら、こうも簡単に思い出すわけがない。しかし、学校という思い出深いはずの場所にいると、少しだけ期待してしまう自分がいる。ふと自分の肩に目を移すと、フォクシーが目を瞑りながらゆっくりと呼吸をしているのが見えた。その姿に、僕は声をかけなかった。
「二人ともなにしてんのぉ!はやくはやくぅ!」
金木犀が階段の踊り場で手を振っている。さっきはあんなに雰囲気があるとかどうのとかびくついていたはずなのに、どうして今はこんなにも楽しそうなんだ。
そして、僕は階段をのぼる。
その教室は一見すると他の教室と大差はないように思えた。廊下に掲げられているプレートは白紙になっており、それが何年何組の教室なのかは分からない。本当に不思議なくらい何の変哲のない教室。しかし、僕の足は無意識にその教室に向かっていた。そして、扉の前に立ち止まった。
扉は少しだけ開いていた。でも、その隙間からでは中の様子は見えない。僕は少し気を揉んでいた。もしこの教室に入ってしまえば、また夢の世界に入ってしまうかもしれない。そうすれば、夢を取り戻す一歩を踏み出せるが、同時に危ないことが起こるかもしれない。僕だけでなく、フォクシーや金木犀にも。
そうやってもたついていると、横に立っていた金木犀がじれったそうにして唸り始めた。
「ねぇ!入んないの?
…なら私が一番乗りで入っちゃお」
僕は言葉にならない制止の声を上げた。しかし、目の前の扉を開くのに時間はそうかからない。扉の窪みに指を滑り込ませた金木犀は勢いよく開けた。そして、「たのもー!」という声を元気よくあげながら教室の中に一歩入っていった。
そして、消えた。
「えっ…」
間の抜けた声が廊下に響いた。
目の前で、金木犀が消えた。まるでそこにいなかったように。もしかしたら僕の後ろの方にいて、「ドッキリ大成功!」と言いながらネタ晴らしをしてくるかもしれないと思い、振り返る。しかし、当然そんなことはない。金木犀は教室の扉を開けて、そして消えたのだ。
「あいつ、どこに行っちゃったの!」
フォクシーも焦ったようにして僕の肩を叩いている。でも、そんなこと知ったこっちゃない。僕が知りたいくらいだ。
僕は教室の様子を伺おうとした。そして、廊下から教室内を覗くようにして見た。しかし、やはりどこにも金木犀の姿は見えない。机や椅子が無造作に置かれている教室は、物が置いてある割には見通しが効く。細身の机と椅子では隠れるのにも限度があるだろう。
僕は廊下の壁に身を隠すようにしてくっ付き、その場にしゃがんだ。そして周囲を伺いながらフォクシーに問うた。
「これってもしかしなくても成れの果ての仕業?」
その質問にフォクシーは切羽詰まった風に答えた。
「多分、ね。詳しくは分からないけど、その可能性が高いわ」
僕の吐く息が熱い。こめかみからしっとりとした汗が垂れてくる。でも、僕はその汗を拭わなかった。それよりも、考えなくてはならなかったからだ。
「僕が夢で見た教室はここで合ってたはずなんだ。下から見たときの教室の位置は把握したし、なんとなく感覚がここがその教室だって言ってた」
「あんたは合ってるわ。ここはあんたの言う教室で間違ない」
フォクシーはそう言い切った。
僕は考える。どうして金木犀は消えたんだ。可能性として考えられるのは…、成れの果てによって神隠しにあった、とか。他にはあの教室がどこか別の場所に繋がっている、とか…。
そのとき、僕は思い出した。神社で夢の世界に入った時も、夢が始まった場所と同じ地点に辿りついたんだった。それなら、この教室に入れば夢の世界に行けるかもしれない。それなら金木犀もそこに居るに違いない。
「もしあの教室が夢の世界の扉で、金木犀が先にその中に入ったとしたら…。どう?」
「そういえば、あの教室から夢が始まったのよね。それなら筋は通ってそうね」
フォクシーは思案に耽っている。こうしている間にも金木犀は一人でいるに違いない。僕は歯がゆさを感じながらも、それを奥歯で噛み締めた。酸っぱい味がする。
そのとき、どこかで物音が聞こえた。何か湿っぽいものを引きずっているような、そんな不快な音が。僕はフォクシーの名前を小さく呼んだ。フォクシーは最初、自分の名前が呼ばれた意味が分かってなさそうだったが、段々とその表情を強張らせていった。
そして一言。
「あいつがくる!」
あいつがなにを指すかなんてことは訊かなくても分かる。あいつだ。饐えた稲穂。夢の世界で遭遇したあいつが、ここにもいるのだ。
足が強張って動かない。何が来るのかが予想できても、あいつがどんな見た目でどのように来るのかが全く分からない。そして、分からないものは怖い。一度逃げきれても、やはり怖いものは怖い。
その音は僕たちが上ってきた階段から聞こえてきていた、重い何かを引きずっている音が階段を響かせる。階段の角にどろどろの何かが引っかかり、そこに堆積していくのが想像できる。削ぎ落ちた腐臭が僕たちの通った道に充満していく。
そして、階段の角から何かが出てきた。角からぬっと姿を現したそれは、真っ黒な腐肉だった。べちゃべちゃに腐り落ちた腐肉は、全体を真っ黒な胞子に覆われている。その体は狐が元になっているのかもしれない。しかし、その片鱗は前方に付いている獣の顔の骨格に合わせて張り付いている腐肉と、骨の見えている四つ足にしかない。剥き出しになった犬歯は歯茎が黒ずみ、先端からは黒とも茶色とも言えない液体が滴り落ちている。そして、何よりもおぞましいのはその背中だ。背中は大きく隆起している。肥大化した背中は、まるで膨大な量のガスが溜まっているように膨れ上がり、所々で変な音を上げている。そしてその背中からは無数の人の手のようなものが伸びており、各々が独立して蠢いている。なにもない空中の、そのなにかを取ろうとしているようにして。
「か〜ごめ、かごめ
か〜ごのな〜かの、と〜りぃは
い〜つい〜つ、で〜やぁる」
抑揚のないわらべ歌が呟かれている。
不思議と腐臭は感じなかった。恐怖のあまりに息が止まっていたのかもしれない。それとも嗅覚に意識を割けなかったのかも。僕は確かに恐怖していた。しかし、僕は決して恐怖の奴隷ではなかった。。
饐えた稲穂の全体像が分かった。僕は不思議なくらいあいつを冷静に分析していた。片や恐怖に慄きながらも、それが全く何も分からない存在ではないと自分に印象づけるために。
その時には自分の足に力が入っていることに気が付いた。そして、饐えた稲穂から目を逸らさずに、フォクシーに言った。
「夢の世界に入ろう。もう後には引けない」
肩の震えが止まった。そして刹那の後に肩口の服がきつく掴まれた。
僕は壁から体を離し、一歩大きく跳躍した。その距離は2メートルくらいしかない。狭い廊下を横断し、そして、口を開いた教室の入り口に体を委ねた。
後ろからはわらべ歌が聞こえる。その声色は視界が飛ぶその時まで、最後まで死にきっていた。
プロメテウスと金木犀 仁寿 @nekomata2
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