第一章 その6

「ねぇ。どうして、戻ってきちゃったの?」


えっ。僕は声を漏らした。間の抜けた、小さな声を。

それでも、きつねの詰問は止まらない。

「どうしてそんなに平気に戻ってきちゃったの?これじゃあ意味ないじゃん!あんなことがあったっていうのに、どうして…」

きつねのなぜ、どうして、は止まる気配がない。感情の爆発がきつねの口を動かしていた。

そんなきつねの吐露に僕は思考が鈍り、たった一つの単純な質問しかできなくなっていた。

「お前は一体、誰なんだ」

僕のその一言に、きつねが押し黙ってしまう。そして、まるで信じられないものを見ているかのような視線で、僕を射抜き見た。

「もしかして、私を憶えてない、の?」

その言葉を言った瞬間、先ほどまでの強い視線は霧散してしまい、芯として残ったのは物悲しい視線だけだった。その抜け殻のような視線は、僕を見ているというよりも遥か後方の彼方を俯瞰しているかのようだった。

「ごめん。何も憶えていないんだ。記憶が全然なくって、自分の過去も何も…」

反応はない。ただ愕然としているきつねが屹立している。

「僕たちは前にここで何が起こっていたのか、あと金木犀が何者なのかについて答えを探しに来たんだ。だから、本当に何も憶えていない。

その、君のことも」

そのとき。

ふふっ。

小さな乾いた笑い声が聞こえてきた。その笑い声は次第にため息へと変わっていき、きつねの肩が小さく沈んだ。

「そっか。憶えてないんだ…。でも、その方が気が楽かも、ね。あんなのは憶えておかなくて正解だと思うしね」

「あんなの?」

「そう、あんなの」

「あんなのって…、どんなの?」

「言う訳無いでしょ。まったくもぅ」

そしてきつねは再度笑い出した。しかし、今回の笑い声はまるでラムネの中のビー玉のような軽快な笑いだった。そして、目尻に浮かんだ雫を前足で器用に拭った。

「私は何も言わないわ。でも、どうせ収穫なしで帰らないんでしょ?こんなところにも来ちゃったしね」

「金木犀と約束したからね」

「ふーん、そう。あれと約束、ね」

「あれって言うなよ。金木犀だ」

「ならあんたも私を君呼ばわりするのやめてよ」

「じゃあなんて呼ぶんだよ」

「……。フォクシー、昔一度だけそう呼ばれた」

きつねだからフォクシーか。これまた安直だな。

そう思いつつ、僕が金木犀の方に歩み寄ろうと踵を返した瞬間、フォクシーが背中で小さく呟いた。

「金木犀には注意して」

えっ、と思い、振り返ると、そこにはなんでもない様子で足の毛づくろいをしているフォクシーの姿があった。

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