第一章 その5

〈かたっ〉

和やかになった空気に亀裂を入れるように、土間の方から音が聞こえた。

驚いた僕と金木犀は大きく一度痙攣して、示し合わせたように同時に土間へ目を向けた。

〈かたかたかた〉

戸口が小刻みに震えている。しかし、小刻みと言っても、風で揺れている時のような細かな振動というよりも、誰かが扉を断続的に押しているような振動だった。

そしてゆっくりと戸が開き始めた。

隙間から涼しい風が吹き込んでくる。そして、その風と共に薄黄色と白色の何かが一つ、中に滑り入ってきた。

それは。

「きつね…?」

それはとても小さなきつねだった。漢字で狐と書くよりも、ひらがなで〝きつね〟と言った方がしっくりくるような、そんなちんまりとしたきつねが入ってきた。

小さく、そして丸い。その丸さは普通だとピンと立っているはずの耳が左右に折れて流れているからだろう。脚は白くてふわふわで、体の所々が黄色のぶち模様が付いている。

そんなきつねが喉を「きゅう」と鳴らした。

怯えているのか、僕が立ち上がって玄関に向かおうとすると、きつねは後ろに小さく飛び退いた。

きつねは僕のことを見ている。そして視線が合い、ふいと下に逸らされた。

「野生の生き物って視線が合うと威嚇されてると思うみたいだよ」

金木犀が僕の耳元で小さく呟いた。一体どこで仕入れた情報なんだか。

そのきつねの目線は、僕の直線上から離されて耳元で囁いている金木犀の方に向いていた。相変わらず怯えたふうな挙動をしながら、土間の端で縮こまっている。

ん?何か、物凄い違和感を覚える。これまで僕の常識だったことが揺らいでいるかのような、そんな噛み合わない感じが。

僕は金木犀の顔と、きつねの顔を交互に見る。

金木犀は特に変りなさそうだ。今も僕にまじまじと見られて照れ笑いをしながら視線を逸らしている。偶にちらちらと目が合うのも変わらずだ。

では、きつねはどうだろう。見た目はこぢんまりしているきつねだが、この変わったきつねによって何か重要なことが変わりつつあるような気がする。

一から考えてみよう。このきつねは何に怯えている?人間に対して怯えているという線は…。その可能性は高いが、却下だろう。

第一、人間に怯えているならば、こんな家屋内に入ってくるようなことはないだろう。僕は話すどころか咳き込んでもいた。そんな音を出しているのだから、折れ耳だとしても気が付かずに中に入ってくるということは考えられない。

もしかしてこのきつねはここに棲んでいたのだろうか。棲んでいなくとも、ここがとても大事な場所で人間に荒らされるのがどうにも許せなかった、とか。

それでもおかしい、と思う。こいつには敵意が見えなかった。僕なんかに相手の敵意が分かるのか、という話は置いておいて。威嚇すらせずに怯えているのはあまりにおかしい。

考えても整理がつかない。一体こいつは何に怯えて、僕は何に違和感を覚えているのだろうか。

今もきつねは僕と金木犀を交互に見ながらびくびくしている。

……。あっ。

「お前、もしかして金木犀が見えてるのか?」

きつねが短く「うぅ」と鳴いて体を痙攣させた。まるで、図星を突かれた人間のような仕草だ。

「えっ?この子、私のこと見えてるの?」

悲鳴にも近いような驚きの声を上げた金木犀は、床でびくついているきつねをまじまじと見つめ始めた。対してきつねは視線を合わせたくないのか、先ほどとは打って変わって金木犀のことを見ようとしない。それどころか目が左右に泳いでいた。

「こりゃ黒だね、コータロー」

したり顔で金木犀が言い放つ。こりゃ黒に違いない。

「右に同じく」

このきつねが金木犀のことを見えているのは間違いなさそうだ。だが、それは一つの事実が明らかになったと同時に、新たな謎が幾つも追加されたことに他ならない。

金木犀は僕の幻覚じゃなかった。見え始めた当初こそ幻覚の一種だと言いきかせていたが、最近では金木犀が立派な一人の人間のように思えていた。つい先ほどなんてそれが確固たるものへと変わったところだ。

だが、主観というのは存外脆いものであり、自分以外の第三者から反応を得ない限りは感情を表にし辛い。その第三者がきつねなのはちょっとどうかとも思うが、そんなことがほとんどどうでもよくなるほどに、金木犀がそこに居る証左がなんとも嬉しかった。

だが、これで金木犀の正体がなおさらよく分からなくなってきた。金木犀が僕の幻覚なら、一種の諦めというか、割り切りというか、そんな吹っ切れ方が出来るというもんだ。しかし、そうもいかない。嬉しさに混ざってほろ苦い困惑が刺激してくる。

それに、こんな気味の悪い空間に居るこのきつねは一体何なのだろう。野生っぽくないというか、どこか人間らしさまで感じられる。おまけに金木犀のことも見えるときた。警戒するべきなのだろうが、しかし、愛らしすぎる見た目のせいで調子が狂う。

むぅ…。ふわふわの毛玉の塊がぷるぷると震えている。深い茶色の瞳が潤んで見える。

くぅ…。そういえば小さい生き物には低い目線で接した方が良いという話を聞いたことがある。なら、僕も床に擦りつくくらい低頭して接すれば心赦してくれるのではないか。

「なにやってんの、コータロー…」

後ろから何やら冷たい声が聞こえてくる。察してくれよ、金木犀。これは情報収集の第一歩なんだよ。きつねの謎を解くために、まずは心を通わせるところからさ。決して触ってみたいからこんなみっともない格好をしているわけではない。そうに決まってる。

すると、さっきまで土間の端で恐怖に打ち震えていたきつねが、いつの間にか鳴りをひそめていた。

その代わりに、焦点の外側でゆっくりと動いているように見える。

僕は驚くでもなく、反射的に顔を上げた。

そこには、白くてふわふわなあんよがあった。ささやかな爪にピンクと黒のぶち肉球さえも見えてしまっている。

そして。

ぴとっ。

僕の鼻にきつねの小さなあんよが触れた。恐る恐るという感じでもなく、特にこれといって特別なこともなく、僕の鼻に触れてきた。

そして触れたあんよで鼻先までを撫でるようにして器用に動かしていき、先端までいくと跳ねるようにして離した。

僕は呆気にとられすぎて何も反応が出来なかった。可愛いの暴力が僕の鼻の触覚と心に襲い掛かり、感覚が成す術もなく鎮圧されていく。それほどまでに暴力的な可愛さだった。

きつねは鼻に触れていたあんよを顔前に持っていき、まじまじと見つめている。そのあんよの先は少し光って見えた。

そして、きつねは笑った。くすり、といった風に。

きつねは僕の鼻にかいていた汗が付着したあんよを、目を細めつつ見つめていた。きつねは釣り目というイメージがあったが、その細まった目尻は優しく下げられていた。

そんな光景を呆けながら見ていると、横から金木犀の不平不満が漏れてきた。

「いいなぁいいなぁ。私も触れてみたいよ」

視界の端で文句を垂れ流している。そして触れることの出来ない金木犀は、せめて動きだけでもと思ったのか、撫でる仕草を取ろうとしたらしい。そのまま手はきつねの背中の方へと伸ばされた。

しかし、優しそうな目をしていたきつねは、一変して目の色を変えて金木犀から距離を取ろうとした。

尻尾の毛は手入れのされていない絵筆のようにけば立った。前足は低く屈ませ、尻は後ろ足に支えられて上に反り返っている。そして、唸り声をあげるようにして犬歯の隙間から息を漏らし始めた。だが、漏れ出たのは息だけではなかった。

「来ないで!」

しゃべった!このきつねが?

僕や金木犀の居る位置よりも遥かに低い場所で発せられたその声は、間違いなく威嚇の最中のきつねからもたらされたものだった。それは、きつねが金木犀に向けて放った拒絶の言葉に他ならない。

言葉を放たれた金木犀は、驚きのあまり固まっていて身動きを取れないでいた。だから、手を引っ込めるでもなく、そのまま伸ばすでもない、中途半端な姿勢で手で空を切っていた。

それをきつねがどう判断したかは分からない。だが、「来ないで」と相手に言って、その相手が同じ距離を保っていては警戒を続けるのも無理はない。

だが、今のきつねの警戒は最初に僕たちを見たときの警戒とは全く異なった態度をぶつけてきていることは確かだった。最初こそ僕たち二人に怯えているようだったが、今では二人にではなく、金木犀ただ一人にだけ敵意をぶつけてきている。

「私に、触らないで…!」

きつねはもう一度金木犀に吠えた。その時になって金木犀は自分が決定的に嫌われてしまっていることに気が付いて、伸ばした手を腰の裏に引っ込めた。そして、控えめに狼狽しだした。

「あっ、その、ごめんなさい。その、傷つけようとかじゃなくって、コータローみたいに触ってみたくって…」

言い訳の言葉は段々と震え声になっていった。口元は小さく痙攣しだし、強張っている。そして目尻には涙が浮かんでいた。

その姿に居た堪れなくなった僕は、きつねに向かって言った。

「こいつも悪気があってやったわけじゃないんだよ。それにそもそも悪い奴なんかじゃない。だから、そう警戒しなくても…ね」

僕はなだめるように言った。相手はきつねだが、猛獣じゃない。言葉が話せるのならどぅどぅなんてしなくてもいいし、無理やり首に輪っかを填める必要もないわけだ。暴力反対。

すると、きつねはしぶしぶといったふうに体の緊張を足先まで解き、毛の一本一本まで鎮まった。だが、攻撃的な視線は変わらず続いており、睨まれている金木犀はきつねに視線を合わせられずにいる。

これではさっきと真逆じゃないか。

僕はきつねに「少しまってて」と言い残し、金木犀を小屋の奥の方に寄らせた。

まったく、楽しい夢を見させる、と言ったはずなのに、どうしてこんなことになる。全くとんだ災難だ。

「なぁ、金木犀。その、なんだ。あんま気落ちすんなよ。きつねに触れなかったのも嫌われたのもショックだろうけどさ、でもだからってこれから全てが灰色ってわけじゃないだろ?

今は目的だけ果たそう。なっ?あのきつね喋れるみたいだしさ、何か知ってるかも」

僕の言葉に金木犀は鼻をすすりながら、小さく相槌を打っている。両手の付け根で涙を拭っているからか、表情は伺えない。でも、たぶん金木犀には似合わない表情なのだろう。なら、見てやらないことがなによりだ。


「なぁ、さっきは悪かったよ。そりゃ急に触られそうになったらビックリするよな」

僕は足元に縮まっている毛玉に言った。毛玉から覗かせた顔は、なんともバツの悪そうな表情を浮かべていた。

「私も、ちょっと強く言いすぎちゃったかも…。あれに、ごめんって伝えてもらえる?」

あれ…。このきつねは金木犀をあれと呼んだ。まるで物のように。

「……分かった、伝えとくよ。

それでなんだけどさ、ちょっと聞きたいことが…」

「待って。私から質問させてくれる?」

僕の言葉に被せるようにして、きつねが言葉を挟んできた。

今はきつねの信頼を得ないと始まらない。ここは受けるしかないだろう。

僕は大きく首肯し、身を屈めた。

すぐに質問が来るのかと思ったが、言葉を選んでいるように視点が足下を向いている。そして小さく息を吐いて、意を決したようにして問いかけてきた。

「質問は二つ。一つ目は〝あれ〟はなに?」

そう言って、僕の後ろで背中を向けるようにして座り込んでいる金木犀を鼻で指した。

「あれって…。あいつは金木犀だよ。僕の瞳の後ろに住んでる女の子、かな。

悪いけど、正体は分からない。でも悪いやつじゃない。それだけは確かだよ」

きつねは厳しい表情を崩さない。それはまるで僕の言葉の一つ一つの裏側までを吟味しているようだった。

「分からないってことだけが分かったわ。

じゃあ二つ目、こっちが本題よ」

そしてきつねは怒気を込めるようにして、いや、悔しさを込めるようにして言った。

「ねぇ。どうして、戻ってきちゃったの?」


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