第一章 その4
僕は思いの外疲れていたようで、座り込んだ瞬間に強い睡魔に襲われた。思考に靄がかかり、意識が遠く引き伸ばされていく。
そして、僕は意識を贖罪の夢に手放した。
ちりん
星の見えない夜、その鬱蒼とした森の中に鈴の音が響いていた。小さく、今にも消え入りそうな鈴の音がどこからともなく響いていたのだ。しかし、その音は完全には消えることなく、残滓が森の至る所に確かに根付いていた。
森の奥、そこには数人が手を広げてもなお、お釣りがくるほどに開けた空間があった。切り株は引き抜かれ、草花の痕跡も消え失せていたそんな園の中央、その地面と空虚の境には一本の竹筒が伸びていた。ほんの手の小指くらいだろうか、その竹筒は忍びの水遁のように大気に入り口を晒している。しかし、そこは当然水ではなく、呼吸口の反対側は固く敷き詰められた土壌に覆われている。
ちりん
その呼吸口を通じて鈴の調べが響いてきた。小さな筒を通して、その奥に存在を主張している鈴。その悲しく、空しい残滓が誰に伝えるでもなくその存在を主張しようとしている。私はまだ生きていると、そして生きていてごめんなさい、と。
するとどうだろう。鈴の残滓に乗って小さなわらべ歌が聞こえてきた。そのわらべ歌は鈴の残滓と遜色のない程消え入りそうな声で、しかし、確かな念が籠っていたように思えた。
「か~ごめ、かごめ。か~ごのな~かの、と~りぃは、い~つい~つ、で~やぁる。よあけのばんに、つ~るか~め、す~べぇた」
誰しもが聞いたことのあるこのわらべ歌を、声の主は竹筒の奥、地面深くから歌っている。手に持った鈴を鳴らしながら。
誰もその声の主の様子など知れない。暗く、じめじめとした土の中に作られたその小さな空間に胡坐を掻き、片手に鈴、もう片手に死を携えている少女の様子など知る由もない。これから安寧を享受する生者たちが、そんなこと知る由もないのだ。
ちりん
鈴の鳴る感覚が遠くなってきた。そしてその残滓も空気に触れれば消えてなくなるのではないか、というくらいに弱まっている。もう、終わりは近い。
竹筒から童歌の最後の調子が聞こえてきた。
「うしろのしょうめん……、なんで、あたしなの……?」
続けて嗚咽。嗚咽、嗚咽、嗚咽。乱れた鈴の音。そして嗚咽。
咽び泣く声は鬱蒼とした森に響いていた。その音の一つ一つが全て呪いのように、恨み言を並べながら。
還著於本人なんて言葉があるが、今の彼女には関係のないことだろう。声の主が誰を呪おうとも、その咎が自分に還ってくるなんてありはしないのだから。そして、呪いが還ってこようとも、全くの問題がないのだから。即身仏になるであろうその主が呪物に変わろうとも、死にゆく少女には全く関係がないのだから。
声の主は呪う。自分を捧げた生者を。
そしてやはり呪う。これから果てる自分自身を。
誰も私を。
「うっ…!」
僕は無性に息苦しさを感じて目を覚ました。まるで深い深い地の底に埋められて、ジワジワと体と思考の両方が死にゆくような、どうしようもない束縛感を感じた。
上半身を起こしながら、胸を掻きむしるようにして爪を食い込ませた。とても、酷い夢だった。
「また、私の夢?」
僕は顔を上げた。そこには悲しそうな金木犀の姿があった。目を細めて冷たい囲炉裏を眺めている。しかし、口元はどこか優し気であり、その乖離がどうにも悲しく映ってしまった。
僕はまだ息が整っておらず、否定の言葉を話そうとして肺の中の空気を出し切ってしまった。そして小さくむせ返ってしまう。
「大丈夫?いっつも朝にやってるみたいに水でも飲めば?
……ねぇ、私の夢ってさ、そんなに酷いもんなの?」
僕の空鳴りは収まりそうにない。そんな僕の姿を見て、金木犀は小さな苦笑いを見せた。
「私ね、夢見ないんだ。眠りもしないし、出来ないの。だからさ、夢見れないんだ。
でもさ、コータローがいっつも辛そうだから。夢を見た後に私のことを辛そうに見るから。なんとなく夢が怖くなってるの。コータローから聞いた話も、とっても怖かったし。
ねぇ、コータロー。私に夢を見せてよ。眠るときに見る夢は見れないけど。私はコータローに名前を付けられて、考えることができるようになったの。だからさ、私に楽しい夢を見せてよ。おねがい」
幾らか喉の疼きも収まり、僕は金木犀のことを反芻し始めた。少し前に、金木犀は僕のことをパパだといった。そのときは、またふざけたことを言ってる、と思ってしまったのだが、それは恥ずかしさの裏返しだったのかもしれない。
僕は意図せず金木犀を造ってしまった。胡乱げな鋳型の中に金木犀という人格を陶冶してしまった。そんな金木犀に、僕は何をしてやれているだろうか。
ただ僕は金木犀のことを贖罪の対象とだけ捉え、金木犀という個人を蔑ろにしているのではないか。駅前で金木犀を恐怖したときも、金木犀が何も企んでいないということは理解していた。でも、やはり僕はあのときも金木犀をただの対象としてしか見ていなかった。贖罪の対象、恐怖の対象、そして腹いせの対象。
それでも金木犀は僕に優しい気持ちを投げかけてくれている。だいじょうぶ、へーき、他にも言葉はあっただろう。
僕は金木犀に名前をあげた。意図せずに。
金木犀は僕に優しさをくれる。彼女自身が考えて。
では、僕は僕の意思で金木犀に何をあげられるだろう。
「金木犀、まだ旅は始まったばっかりだけどさ、これが終わったら何がしたい?」
「えっ…。そう、だね。まずね、いろんな所に行ってみたいなぁ!都会の可愛いお店、とか。あとは海とかも見てみたいかも!
他にはね、触れて、みたいかも。誰かと触れて、あったかいを感じてみたい、かな。誰かさんを心配して、背中をとんとんしてみたり、一緒に横を歩いて…、その、手とか」
次第に小さくなっていった声は、語調を強めた「とにかく!」にかき消された。
「とにかく!これが私の夢、なのかも…。
夢って、こんなに体がウズウズするものなんだねっ!」
金木犀はその場に立ち上がり、右手を天井に掲げて胸を張った。
「なぁ、その夢、僕が叶えさせるよ。僕が、金木犀に本当の夢をあげるよ」
金木犀はイヒヒという明るい笑いを見せた。
「当然じゃない!私に、いろんな〝夢〟見せてよね。約束だよ」
そして金木犀は暖かい微笑みを浮かべた。
〈かたっ〉
和やかになった空気に亀裂を入れるように、土間の方から音が聞こえた。
驚いた僕と金木犀は大きく一度痙攣して、示し合わせたように同時に土間へ目を向けた。
〈かたかたかた〉
戸口が小刻みに震えている。しかし、小刻みと言っても、風で揺れている時のような細かな振動というよりも、誰かが扉を断続的に押しているような振動だった。
そしてゆっくりと戸が開き始めた。
隙間から涼しい風が吹き込んでくる。そして、その風と共に薄黄色と白色の何かが一つ、中に滑り入ってきた。
それは。
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