第一章 その3
土を踏み固められて作られた小径は薄暗さの中で獣道のような雰囲気を漂わせていた。ただ、獣道そのもの、という訳ではなく、得体の知れない何かが闊歩している道という意味合いが強かった。黒で塗り固められた小径は僕たちの足を絡めとらんばかりに揺れ動いているようにも見える。
僕の前を歩いている金木犀は、さっきから何も語ってこない。手を腰の後ろに回し、歩調に合わせてリズムを取っている。一見なんていうこともない仕草のように見えるが、先ほどのやり取りがあったせいか、それがまるで話しかけないでほしいと無言で語っているように感じる。
そのとき、僕たちの跫音とは違う何かの音が聞こえてきた。草の合間を縫って進んでいる小動物の摩擦音のような音が、近くの茂みの中から聞こえてきたのだ。だが、周囲には僕の膝の丈ほどの草が茂っており、詳しい場所までははっきりしない。
普通ならただの風か、野生の小動物の仕業だと決めつけるだろう。だが、今は得体の知れない夕闇の中を歩いており、その奥にそれは恐ろしい何かが居るかもしれない。そんな状況だと嫌な想像の一つや二つもしてしまう。
金木犀もはたと止まった。そして周囲をきょろきょろと見まわしたかと思うと、僕の方に身を寄せてきた。僕の顔は見てくれない。だが、しっかりと意識は僕の方を向いており、金木犀もまた恐怖していることが分かった。
「なんか、いやな感じがする。見られてる、っていうか、観察されてるみたいな…」
僕も似たような感覚を覚えた。ただ見られているという風ではなく、ずっと観察されているような、そんな感じだ。だけど、不思議と嫌な感じまではしなかった。なんていうか、僕たちに害を与えようとして観察しているというよりも、向こう側も怯えながらこちらの動向を伺っているような奇妙な均衡を感じた。だが、それは僕の所感であり、実際にそうであると断言はできない。用心するに越したことはないはずだ。
「先を急ごう。どこか休める場所があるといいんだけど…」
金木犀は僕の言葉に少し反応し、チラリとこちらを見やった。しかし、目があった瞬間にその視線を下に逸らしてしまった。以前も似たような仕草を見たことがあったような気がする。だが、その下げられた目尻はどこか寂しげだった。
かさっ。一際大きな摩擦音が聞こえた。まるで僕たちの様子に目敏く反応したかのように何某の小動物がどこかでたじろいだ。
早くここから離れた方がよさそうだ。
道沿いに歩いていると、奥に小さな光のようなものが見えた。周囲が真っ暗闇なら光の存在もいくらか強調されるのだろうが、なまじ薄暗くも薄明るくもある視界がトンネルを出てから続いているために淡い光は見辛いのだ。だから光がついている、というよりも色が少し違う、といった具合だった。
僕たちは決して走らずに、一歩一歩の足の踏み場を確かめるようにして光に歩み寄った。そして、そこにあったのは。
「お地蔵さん?」
僕の疑問を代弁するかのようにして金木犀が呟いた。そこには木でできたミニチュアの小屋が建っており、その中に小さな蝋燭と石像が嵌るようにして立っていた。しかし、そのお地蔵さんの姿かたちは僕たちが知っているような人間のそれではなく、異形の石像だった。
それは狐の形をしていた。笠を被り、つぼみのような装飾を両端に施された法器を左手に、小さな鈴のようなものを右手に携えた狐のお地蔵さんだった。元々狐と言えば釣り目なイメージがあったが、狐地蔵も目を伏せているからか釣り目な印象が強い。
狐と言えばお稲荷様、正一位を思い浮かべるが、この狐地蔵には赤色の鳥居も正一位の幟も立っていない。ならば恐らくお稲荷様の類とはまた違うのだろう。土着の何かか、産土の類かもしれない。
「お狐様には作物が豊かに育ちますように、って願いが込められてるらしいね」
金木犀が徐に口を開いた。
「豊穣?の神様、なんだってね。でもどうして狐って豊穣の神様なんだろうね」
「案外黄金色でふわふわの尻尾が稲穂みたいに見えるからじゃないの?」
「なにそれ、安直すぎない?
でも、なんだかそれいいね。可愛い」
狐地蔵を通じて僕は金木犀と会話をすることができた。会話をするまでは息の詰まるような時間が続いていたが、いざ話してしまえばどうということはなかった。拍子抜けしてしまうほどに。でも、だからって付け上がるようなことはしない。金木犀の優しさに甘んじてはいけない。
それに、この狐地蔵。本当に豊穣の神様というだけの存在なのだろうか。お稲荷様ならいざ知らず、お地蔵さまとくればその意味も少し変わってこよう。お地蔵さまには供養の意味合いが強いと聞いたことがある。亡くなった誰かを供養するために建てられるものがお地蔵さまだ。ならば、この狐地蔵は一体何を供養するために建てられているのだろう。
僕は金木犀を置いていき、独り思考の沼に嵌っていた。金木犀も特に言葉を続けるでもなく、狐地蔵に手を合わせている。思考に一段落ついた僕も金木犀に倣って目を瞑り手を合わせてみる。自分の手のひらの温もりがそれぞれに伝わっていく。じんわりと伝わった温もりは手のひらを行きかっていた。
数秒が経ち、僕はゆっくりと目を開いた。まだ金木犀は手を合わせている。信心深いのか、はたまたお地蔵様の意味を知っているのか、どちらにしても清い心がそうさせているのだろう。
僕はその場で辺りを見渡してみた。すると、狐地蔵の奥、数メートル先に小屋があることに気が付いた。見た目は狐地蔵の小屋をそのまま大きくしたような造りであるが、戸口もしっかりしており、吹き曝しという訳でもなかった。
「金木犀」
「ん?なぁに」
間延びした返事が返ってくる。
「前に小屋があるの見えるか?あそこに入れそうなら一回休憩しよう。色々と疲れたし」
金木犀は目を開き、件の小屋を狐地蔵の小屋越しに覗き見た。そして小さく頷いた。
「そう、だね。私もちょっと疲れちゃったかも。ここならお狐様が守ってくれるかもしれないし、安心かもね」
そして金木犀は小屋に跳び寄っていった。
軋む戸の先には、予想外に片付かれていた空間が広がっていた。中央に囲炉裏が鎮座しており、それを取り囲むようにして簡素な敷物が敷いてあった。壁には古めかしい道具の数々が掛かっているが、一体どのような用途で使われる物なのか分からない。
簡素であり、同時に歴史を感じる造りをしているが、特別汚いという印象は受けなかった。埃っぽい感じもせず、普段から誰かがここを綺麗にしているかのような雰囲気だった。
僕は「お邪魔します」と呟きながら敷居を跨いだ。木が囲炉裏の煙によって燻された渋い香りが体を包んでくる。囲炉裏は冷たく、誰かが最近使った痕跡はない。
金木犀は土間から小屋の中を見回している。そして小屋の上部に視線を止めると、感嘆の声を漏らした。
僕もそれに続けて見上げた。すると、そこには吹き抜けの構造が広がっていた。外から見た限りは、普通の一軒家よりも小さいくらいだったはずだが、天井裏まで吹き抜けになっており、天井裏も一階からの視界が利く造りになっていた。
よく見れば、端に展開していない梯子のような物が見える。あれで上へと上がれるのかもしれない。
「ねぇ、コータロー。これ、なんだろ?」
声のする方を向くと、そこには何かを指差している金木犀がいた。
金木犀が指している物は、ハムスターの回転車のような見た目をした、木製の古びた品だった。
僕はそれに見覚えがあった。あれは、確か蚕の糸巻き機だったはずだ。今よりもずっと昔に、養蚕業で絹糸を巻き取るために用いていた道具。少し前に何となく見ていたドキュメンタリーで紹介されていた物にとても似ている。
ならば、ここは養蚕施設か何かなのかもしれない。だった、という表現の方が適切かもしれないが。
今は蚕が桑の葉を喰む音も、糸を繰る音も聞こえない。まるで、何十年、何百年も時が遡り、そして寂しい時に釘付けされてしまったようだった。
僕は考えるのをやめた。一息つこうと思ったというのに、小屋に入ってからも色々と考えすぎたかもしれない。
中は安全そうだし、少し休むにはちょうどいいだろう。
僕はリュックを床と壁の際に置き、囲炉裏の前に座り込んだ。金木犀は僕の対面側にちょこんと体育座りした。
小屋の中はとても静かだった。僕の息遣いしか聞こえず、金木犀もだんまりを決め込んでいる。ここで気の利いたことの一つや二つ言えれば良いのだが、生憎僕は弁の立つ方じゃない。
僕は思いの外疲れていたようで、座り込んだ瞬間に強い睡魔に襲われた。思考に靄がかかり、意識が遠く引き伸ばされていく。
そして、僕は意識を贖罪の夢に手放した。
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