第一章 その2
外はどうしてか夕暮れになっていた。赤色に真っ黒なインクを数滴溶かしたようなくすんだ夕焼け。太陽は既に見えないが、同時に月も見えない。山々が陽の影になり、巨大で真っ黒な怪物のような見た目になっている。夕暮れに怪物の闊歩する村、そんな光景が広がっていた。
「な、なにこれ!もう夕方?えっでもそんなわけないよねだってさっきまで全然明るかったよ流石にそんな長い時間走ってなかったよね」
息継ぎもせずに言った金木犀はぜぃぜぃと肩で息をしている。僕は思わず萎びたつり革につかまり、両側の車窓を交互に見比べた。しかし、やはりというべきか、どちらの車窓にもくすんだ夕暮れだけが広がっていた。
視界が霞んだようにしてあまり利かない。薄い皮膜のようなものが目を覆っているかのように輪郭が像を結ばない。そんな中でも僕の瞳にいる金木犀だけが幽玄の人魂のように視界の中で不気味に浮かび上がっている。
思わず僕は、ぞっとしてしまった。金木犀が、やはり人間以外の何かのように感じてしまった。見て、話して、笑っている姿は人その物であるのに、その隔世の姿に恐ろしさを感じてしまった。なによりもいつもの印象との乖離がより恐怖を増長させていた。
「…ぇ、コータロー。ねぇってば!」
気が付くと、金木犀は僕の真ん前に立ち、目の前で手を振っていた。僕は反射的に生返事を返した。
「どしたの?コータロー、あんまり顔色が真っ青だったから私の方が冷静になっちゃったよ」
その目は確かに僕を心配している様子だった。
金木犀は僕に触れることはできない。それがとても煩わしいのか、金木犀は体をそわそわと小刻みに動かしている。そんな仕草にどうにも恐怖心が薄れていってしまう。
「あぁ、大丈夫、だと思う。多分」
「そぅ?なんかあったら言ってよね。私たち、運命共同体なんだからね!」
胸を張る金木犀。僕はそれに静かに微笑んだ。
頓にドアが開いた。そのときになってようやく電車が停車していることに気が付いた。
ぽっかりと開いたおかしな外界へと続くドア。そこへ空気が吸い込まれていく。まるで、外に足を踏み入れろと命令されているような錯覚を覚えてしまう。そんな意識に働きかけてくるような不吉な風が、僕と金木犀の間の空間を抜けていく。
「コータロー、行こう」
金木犀が言う。胸前で握られている手は少し震えて見えた。しかし、足は仁王像のように広げ、力強く床に足を付けていた。
「早く行かなきゃ、ドア閉まっちゃうかもだし」
そしてはにかむ。その表情はいつもの金木犀よりも強張って見えた。
電車から降りると、そこは田舎の無人駅のようだった。人一人入れる程度の広さの駅舎に半分朽ちている木製の台と階段。他には何もない。無人駅ということもあり、駅舎の中には誰も居ない。
「切符、どうするのかな…」
金木犀は僕の右ポケットの方に視線を寄越しながら、困惑した表情をしている。
そういえば、そうだ。車内にも駅舎にも人が居ないんじゃ切符はどうするのだろう。
「まぁ、駅舎の分かりやすい場所に置いておくよ。運賃は最初に払ってあるし、それで大丈夫でしょ」
僕がそう言うと、金木犀は「ふーん」と鼻で鳴いた。当然金木犀分の運賃は払っていない。他の人からすれば僕は僕一人で電車に乗っているように見える。そこで二人分の駄賃を払い、「そこに少女がいるんです!」なんて言えば狂気の沙汰だろう。狂気は自分の内に留めるだけでいい。
そして僕たちは駅舎から足を踏み出した。夕闇の影によって土がむき出しになった道が真っ黒な線となって続いていた。遠くに雑木林のような濃い黒がそそり立っているように見える。しかし、それがここからどれくらい離れているのか、それ以前にその黒が本当に雑木林なのかも分からない。ただただ異様な光景が一面に広がっていた。
「そうだ、時間」
僕はひらめき、腕時計に目線を移動させた。いつの間にか夕方になっているといっても、時間の経過だけは誤魔化せないだろう。僕はそう思い、視線を時計盤に移した。
暗くってあまりよく見えない。それでも目を細め、近づけて、ようやく針の像が結んだ。しかし、その光景はありえないものだった。
時計の針が回転していた。もちろん秒針は回っているのが当然であるし、短針も長針も長い目で見れば回っていることが分かるだろう。しかし、僕の手首に掛かっている時計は常識的な針の回転速度を遥かに凌駕して動いていた。短針の動きも目で追うのがやっとなくらいだ。
そして、少しして気が付いた。その回転は時計回りに動いていなかった。日常会話の中では稀に反時計回りとか逆時計回りという言葉が使われる。しかし、実際に時計が自然に逆行して回っているのを見たことのある人は居ないだろう。しかし、僕は見た。その時計は時を遡っていた。
僕は気味が悪くなり、時計を外して地面に落とした。かちかちと鳴っている時計は、主人の体から離れても時を遡るのを止めようとはしない。ただ、それが元から当然であるかのように、動いていた。
足場が崩れるような感覚に襲われる。薄闇の中、僕はなんとか立っていることがやっとであり、気を抜いてしまえばすぐにでも膝から崩れ落ちそうな気がした。
多分、ここはもう僕が知る世界じゃないのだろう。金木犀と同様に、胡乱な像が交錯するおかしな世界。そんな場所に紛れてしまった。
視界がぐるりと回るような気持ち悪さを覚え、僕は何かに寄りかかろうとした。そして寂れた駅前の、半分朽ちた木製の電柱に寄りかかった。体重をかけると不安を煽るような軋みが聞こえてきた。だが、僕は不安こそ覚えても、それに反応するほどの余裕はない。
金木犀が歩み寄るのが見える。だが、僕は咄嗟にこう言ってしまう。
「来るな!」
その叫びは切実だったに違いない。考えてみれば全く得体の知れない人間モドキの曖昧な指示に従った時点でもうおかしかったのだ。
僕は夢の中で人だった金木犀を殺し続け、それに自責の念を抱いていた。そしてその一連の出来事に自分なりの答えを見つけ、区切りをつけたいと思ったのだ。つまり、僕は僕の罪を清算したかった。その自責の念の矢面に立たされていたのが瞳の金木犀だった。
ただ、状況が変わった。僕は今およそ現実とは思えない場所に立っている。そしてそこに誘導したのは得体の知れない金木犀だ。疑うことをしなかった僕が、こんな場所に来て初めて金木犀を疑い始めた。
金木犀は、何を企んでいる?
僕の考えは視線から強く伝わっているようで、歩み寄ろうとした金木犀がはたと足を止めた。
僕は立っていることも辛くて、金木犀の顔まで見ることはできない。だが、金木犀は僕の目を見ているのだろう。だから足を止めた。
僕の心の中は恐怖で渦を巻いていた。ぐるぐるととぐろを巻き、迸る恐怖は思考を鈍らせる。そんな恐怖の渦の中、その中央に一瞬光を見たような気がした。これは、無邪気な金木犀の姿だ。先ほどまで幾度も見せてきていた金木犀の無邪気さが、その他一帯の邪気を払うかのように瞬いていた。
やはり思考が鈍っていたのかもしれない。僕はそっと金木犀の顔を見た。
そこには、金木犀がいた。あの夢の中で、僕が手を放したときの金木犀がいた。鬱蒼とした森の中で得体の知れない怪物の手に捕まって闇に引きずり込まれていく金木犀だった。
その顔は、恐怖に震えていた。繋がれていた手を、放された人の顔だった。目は大きく見開かれているが、瞳孔は委縮している。唇の輪郭は歪み、そして青ざめている。
僕はそんな金木犀の顔を夢で見たのだった。そして、僕はそれでも手を放した。
重ねた罪を清算しようとして、僕はまた罪を重ねようとした。いや、重ねてしまった。もう既に事後なのだろう。金木犀にあんな顔をさせてしまった時点で、僕の行動には冷酷な意味が付与されていた。
金木犀がゆっくりと手を伸ばしてきた。その先には僕がいる。僕は震えた指先を目で追うことしかできなかった。
「だいじょうぶ、だよ。えっとね。何がだいじょうぶなのか、私でも分かんないけど。きっと、へーきだよ。
コータローと、その…、私が一緒ならだいじょうぶ。だいじょうぶだから。
……。だから、そんな目で私をみないで。おねがい」
その声色は、僕の心に深く楔を打った。僕は手を放した。だが、僕と金木犀は不格好な楔を通じて、繋がったのかもしれない。
だいじょうぶだとか、へーきだとか、そんな単語は僕の心を揺さぶりはしなかった。そのありふれた言葉たちは夕闇の中に希釈されていき、僕の心を染めることはない。言葉は、ただの音だ。夢で僕の言葉が金木犀に届かなかったように、金木犀の返事がなかったように、言葉っていうのは僕に鮮烈な印象を与えることはなかった。
だが、僕の瞳の中に居る金木犀の、その小刻みな震えは僕の心を揺さぶるには十分だった。しかし、それは同時に心を揺さぶるだけにとどまったのだ。
「なんでもないよ。
その、来るな、なんて言って悪かった」
金木犀は僕の瞳の中に居るはずなのに、僕は金木犀の瞳を見ることができなかった。そんな僕を金木犀は何も言わずに見つめている。決して批判しているわけではないだろう。だが、その視線に居た堪れなくなってしまう。
「そうじゃないよ。そうじゃないんだよ」
金木犀が呟いた。
しかし、僕がその言葉に反応したときには、既に金木犀は踵を返して駅前の道を歩き始めていた。
後戻りしよう、だなんて言うことはできない。そもそも後戻りできるとも思えないのだが、それ以上に、歩み始めた金木犀からこれ以上離れることはできなかった。
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