第一章 その1
その日僕は家を後にしようとしていた。一年住んでいた家を空けるというのは思ったよりも物悲しい気持ちにさせるようだ。たった一年、されど一念にあらず。
記憶を無くしていた僕は、この家に越してきて金木犀との奇妙な生活を始めたのだった。最初のうちは金木犀という謎の存在にもやもやとしながらも眠れぬ日々を送っていたのだ。
しかし、あるとき名前をあげてから、金木犀は変わりだした。どう変わったのかは言葉で説明するよりもこちらの方が早いかもしれない。
「コータロー!早く来なって!」
玄関先で名残惜しく感じていた僕に、視界の端からひょっこりと顔を覗かせる少女の顔。それは間違いようもなく金木犀その人だった。
「なぁにノスタルジックな顔してんのよ。もう決めたことなんだから!もう、はぁやく!」
そう言って急かしてくる。少し前まではあんなに物静かだったのに、気が付いたらやかましい程に話しかけてくるようになった。もう死人に口があるかどうか、という話ではなくなった。多分口から先に生まれてきたに違いない。
「急かさないでよ、まったくさ」
「あっれぇ?そんなこと言ってもいいの?あんだけコータローは私のこと知りたがってたのにさ、そんなつっけんどんな態度ってあんまりじゃん?」
意地の悪い返答だ。全く、どうしてこんな奴になっちまったんだ。理解が全く追い付かない。
僕がむすっとしていると、金木犀は悪びれもせずに言った。
「ごめんごめんって。コータローのペースでいいって、ね!
……、これは私のことってだけじゃないもんね。コータローにも重要なことだと思うし、だからさ…」
そう、僕と金木犀はこれから旅に出る。その期間は分からない。だが、金木犀曰く長くなる、らしい。
そしてその旅の目的とは、つまり金木犀と僕の過去を知るためだ。あの神社で何が起こったのか、金木犀が一体誰なのか。それを知る旅に出るのだ。
お喋りになった金木犀は、しかし、自分のことについてはなにも喋らない。そもそも金木犀自身も自分が誰なのか分からないらしい。僕の視界の中で生まれ、そこに居たらしかった。
しかし、どうやら金木犀はなんとなく自分に所縁のある場所が分かるらしく、それを頼りにすれば最終的に何か分かるのではないか、と考えたのだ。件の墓地への案内もその結果だったらしい。
そして今に至る。
僕は歩き出した。前に金木犀の背中が見える。
金木犀に連れられて、今は田舎の電車に揺られている。何両も連なっている電車を見慣れていた僕は、この一両しかない短い車体にどこか好感を抱いていた。他に誰もおらず、こじんまりとしていて、可愛い。そして、どこか懐かしさまで覚えていた。
過去にこの電車に乗った記憶はない。しかし、記憶を失っている僕の所感なんてあてになるはずもなく、逆にこの既視感こそが金木犀の示す目的地に近づいていることを意味しているのだろう。僕はこの電車に乗ったことがある。一年以上も前に。
「ねぇねぇ、コータロー。電車ちっこいね!」
向かいの座席に座っている金木犀は、足をパタつかせながらはしゃいでいる。その様子には子どもっぽさが抜けておらず、愛嬌があった。
「この電車、前に乗ったことあったか?」
僕は金木犀にそう問うた。すると、金木犀は最初に右上に視線を動かし、横に流し、そして最後に下を向いた。うーん、という唸り声を出したかと思うと、気が付いたような顔をした。もしかして…。
「いや、分かんないに決まってるでしょ。私が生まれたのってつい最近なんだよ!そんな私が知る由もないよ。よしなしだよ」
よしなしってなんだ。全く変な所を約すな。まぁ、金木犀がこの電車を知らないのは想像に難くなかった。金木犀も生前の記憶、という表現が適切なのか分からないが、普通の人間だったときの記憶がないんだ。既視感すら抱かないのは少し残念だったが、それは仕方ないのかもしれない。
金木犀はずっとはしゃいでいる。「私が生まれたってことは、コータローが私のパパってことだよね。なにそえウケる!コータローパパ、コータローパパ!」なんておちょくってきてやがる。イヒヒという笑い声はなんとも楽しそうだ。
「んな歳じゃねぇよ!やめろって…」
夢の僕は金木犀に恋していた。今の記憶を失っている僕と夢の僕は全然違う。だが、夢で追体験をした手前、なんとも複雑な気持ちになる。好きだった人からパパなんて言われるんだぞ。悶えるだろ。
車窓には田舎の風景が広がっていた。薄っすら黄金に色付いた区画が広大に続いている。外では風が吹いているのだろう。黄金色は優しくなびいている。その黄金色の区画を分けるようにして太陽の光を反射している水路が静かに延びていた。
電車の走行音で外の音は一切聴こえないが、もしあの畦道を歩けるのならどれだけ気持ちがいいものかと夢想してしまう。数台のコンバインが水田横の主道に止まっており、運転手を待っているようだ。そうか、そろそろ収穫の時期なのかもしれない。
「お米ばっかりだね」
いつの間にか僕の横に腰を下ろしている金木犀は、僕と同じようにして外を見て言葉を漏らしていた。
夢で見たのは豊穣の祭りだった。豊穣の祭りならば、そこでは畑作か、稲作かが盛んなのだろう。あのとき金木犀が着ていた浴衣にも金糸の装丁があった。もしかしたら、あれも豊穣の祭りに関係があるのかもしれない。それならば、有名なのは稲作になるだろう。
「なぁ、金木犀さんや」
「なんですか、コータローさんや」
ノリが良すぎはしないか。
「目的地、ってのはそろそろか?」
僕がそう聞くと、金木犀は花の髪飾りの横で指をクルクルと回し、とんちを捻りだそうとしている一休さんのようなポーズを取り始めた。どこからかぽくぽくという音でもなってきそうだ。……。おっ、チーンという音が聞こえたな。
「うん!近いっぽいね。あと数分ってくらいじゃないかな」
あと数分で僕と金木犀は大きな一歩を踏み出せる。
僕は、ほぅ、と息をついた。電車に揺られていれば着くのだから楽な行程だ。先日の墓地までの紆余曲折を考えれば遥かに心穏やかだ。
金木犀は「あっ、幸せ」と呟いたかと思うと、大きく口を開けて飲み込むような仕草をしてみせた。そして、ほれ見たことか、と言わんばかりに勝ち誇ったかのような顔を送ってきた。
「残念、それはため息じゃないんだ」
「じゃあ私は何を食べたっていうの?」
さて、なんだろうか。霞かザクロか、あるいは。
「慎ましさ、じゃないか」
金木犀はぽかんとしている。口を半開きにしながら、僕の言った言葉の意味を何とか飲み込もうとしている。しかし、口が開いていては漏れ出るばかりじゃないか。
そしてようやく意味を理解したのか、頬が徐々に赤くなっていった。そして目を伏せって静かになってしまった。
これはもしかしたら、嵐の前の静けさ、というやつだろうか。流石に意地が悪すぎたかな、と反省して謝罪の言葉を考えていた時、急に金木犀が顔をあげた。僕は咄嗟に目を瞑ってしまった。そして真っ暗な視界の中、金木犀の声だけが届いてきた。
「慎ましさをくれるのはうれしいけど、コータローが節操なしになるのはいただけないな。だって私は籠の中の鳥、そしてあなたはそれを見つめるケダモノになってしまうでありんす」
目を開けると、そこには悲劇のヒロインと言わんばかりのポーズを取っている金木犀の姿があった。しかし、それも一瞬であり、その後にすぐイヒヒという小さな笑い声を漏らしていた。どうやら、金木犀の慎ましさは口から漏れ出てしまっていたらしい。そして同時に僕の節操も守られているに違いない。
「ご冗談を…」
情けなくも僕はそんな言葉でしか言い返せなかった。
これまで山あいを縫うようにして進んでいた電車は一本のトンネルに吸い込まれていった。外は暗く、時折見える薄い電灯の明かりが一瞬で過ぎ去っていく。窓を開けなくて正解だったかもしれない。トンネルの空気は体に良くないだろう。
そのトンネルは長かった。細かな時間こそ確認してはいないが、体感で言うと十分弱は走っているような気がする。体感なんてあてにはならないが、少なくとも金木犀が言った数分は過ぎていると思う。
「金木犀、さっき数分で着くって言ってたけど、あとどのくらいか分かる?」
すると、ぼぅっと真っ暗な外を眺めていた金木犀がはっとした顔をすると、途端に目を泳がせ始めた。
「んッとね…。なんかおかしぃんだよね。感覚的に言うともう着いてるっていうか、目的地の中を走っているって言うか…ね」
こちらの顔色を伺うかのように金木犀が説明していた。
もう着いている、ということはトンネルの中も目的地の場所の一部ということだろうか。町、あるいは村の範囲内にこのトンネルがあり、そこをずっと走っていると。想定できることと言えば、それくらいだ。
しかし、やはり妙だ。電車のトンネルっていうのは総じてあまり長くはない。地下鉄は地下を続いているからこそずっと暗い。一方で普通の電車は山にトンネルを開けるとして、その直径以上にトンネルを伸ばす必要がないのだ。ならば、トンネルが多いことはあっても、一つのトンネルが長いことなんてあまり想像できない。
「一体、何が何だか…」
僕がそうごちる刹那、車窓の明るさが変わった。そしてくぐもった走行音も明瞭になっていた。そう、外に出たのだ。
外はどうしてか夕暮れになっていた。赤色に真っ黒なインクを数滴溶かしたようなくすんだ夕焼け。太陽は既に見えないが、同時に月も見えない。山々が陽の影になり、巨大で真っ黒な怪物のような見た目になっている。夕暮れに怪物の闊歩する村、そんな光景が広がっていた。
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