プロメテウスと金木犀

仁寿

プロローグ

 プロローグ

 僕は、君のことを殺し続けた。何度も何度も。終いにはその像が胡乱になり、あの薄暗い森の奥に溶け込んでしまうくらい、僕は君を殺し続けた。

 伸ばしたその手を掴むことは叶わない。叶う、という言葉には語弊があるのかもしれない。僕は、君の手を掴まなかった。その森の奥、鬱蒼とした湿り気の先に居る何かに絡めとられている君を、僕は意識的に掴まなかった。

 しかし、君は僕を決して離さなかった。耳にこびり付く悲鳴に、一瞬指先に触れた温もり、そして、視界に映る君の残滓。僕は君を手放したのに、君は僕を離そうとしない。

 今も、君は視界の端にいる。常に明後日の方向を見ながら、憂鬱そうな表情をしている。電車の座席に、自動販売機の側面に、部屋のベッドの端に、君は居る。死んだはずの君が、常に僕を付きまとってくるのだ。


 最近寝つきが悪く、それでいて眠りに落ちると決まってとある夢を見る。君が僕と共に歩いている夢だ。

 君は金糸をあしらった美しい浴衣を着ている。周囲には和紙を透過して仄かに煌いている燈篭の数々。その光が歩いている君の浴衣の金糸に反射してささやかに輝いている。

 僕が隣を歩く君を一瞥すると、決まって視線が交差してしまう。そして途端に下に逸らされる。僕は君に何か言ってあげただろうか。

 道の様子は相も変わらず祭り一色であり、香ばしい音と煙が辺りに揺蕩んでいる。そんな中を僕たちは分け入っていく。はぐれないように手を繋ぎながら。

 緩い階段は神社の本殿に続いている。大体の客は祭りに重要な意味など持たない。豊穣を祈る祭りであるために、それ相応に感謝をしはするが、それ以上でも以下でもないだろう。だからこそ、本殿周辺には人出はなかった。しかし、祭りの喧噪はこんな外れでも届いてくる。そんな祭りの際だからこそ、僕は少し気が楽になる。

 僕は勇気を振り絞って何かを言った。

 「~~~」

 ……しかし、返事は帰ってこない。最も聞き逃すべきではない音は耳に入らず、祭りの調子だけは単調に響いてくる。君は、やはり黙ったままだ。

 沈黙は、沈黙のままだ。うやむやである以上、それが良い返事であるはずがない。少なくとも、僕はそう判断した。

 次の瞬間、場面は変わり、僕は森を走っていた。木の根が土を隆起させ、不規則なうねりを作っている。それに足を取られながら、僕は森の中で何かから逃げている。後ろ手で誰かの手を握っているようだが、僕は真剣に逃げていたからか誰の手を引いているのかは知れない。ただ、覚えのある温かさだった。

 だが、そんな手の主が僕の後ろでつんのめった。木の根かうろか、何に躓いたのかは分からないが、確かにその人は転び、握った手にささやかな抵抗感がもたらされた。

 僕は咄嗟に振り向く。僕はようやく振り向く。そこには……、

 僕はそのとき初めて手を離した。ずっと握りしめていた君の、誰かの手をそこでようやく離したのだった。そして終ぞ握り直すことはなかった。

 声が、聞こえた。

 「いやぁ!助け、て」

 そうして、僕は君を殺し続けたのだ。何度も何度も。手を伸ばさない、という行動がどれだけ罪深いことだったのか、今なら分かる。分かるからこそ、同時に酷くどうしようもない諦念が僕を支配する。

 君は僕に返事をくれなかった。君は僕を突き放した。だから、僕も手を離しただけなんだ。

 だから、僕が君を殺し続けるのは仕方のないことなんだ。

 繰り返される夢の中で、僕は贖罪を背負っているのだから。恐らく実際にあったであろう、この記憶の出来事を、君を忘れないために。

 君を殺し続けた。


 息が詰まる感覚で目を覚ました。まるで喉につっかえていた言の葉が叫びとなって外に漏れ出たかのように、喉に大きな閉塞感と弛緩がもたらされた。

 部屋は薄暗く、照明の表面の蛍光塗料が青緑色に淡く光っている。しかし、そんな灯りに明かりとしての機能なんてあるはずもなく、常世だった雰囲気だけをもたらすのだ。

 枕元に置いてあるコップに手を伸ばし、それに口をつける。

 味は、感じない。

 一度口を離して息を整えた。そして全てを飲み干した。

 ぼぅっと浮かんだ空のコップの影を見ながら、視界の端に居るその存在に意識を向ける。僕の部屋の隅、衣装棚と机に挟まれた人一人分ほど空いた空間に嵌るようにして座っているその存在。暗く像全体が定まらないが、そこには確かに君がいる。

 僕は徐に立ち、天井から吊るされた照明の紐を引いた。小気味いい音と共に一瞬の閃光が走る。そして、部屋全体が昼間のように明るくなった。

 部屋全体の影が、景になる。そこで僕は君がいた場所に視線を送った。

 やはりいる。

 耳が隠れる程度の長さの髪に、可愛らしい小さな黄色の花があしらわれたヘアピンをしている。なんとも快活そうな見た目ではあるが、その目は胡乱げであり、焦点が定まっている様子はない。

 この少女は、いつも僕の視界の隅に居る。そして恨めしそうに、僕に何かを訴えかけようとしてくる。いや、大体の察しはつくのだ。大方僕が君の手を放したからだろう。そして恐らく君が死んだからだ。

 でも、ごめんよ。僕は君のことを断片的にしか覚えていないんだ。それも夢で見たことしか記憶にない。君と僕がどんな関係で、君の名前が何で、あの神社で何が起こったのか。僕は何一つ覚えていないんだ。ただ、僕は君を好いていて、それが愛に変わらなかったことだけが確かだった。

 僕は君の前に座り込み、自分に日課として課している行為をする。それはつまり。

 「ねぇ、君って誰なの?僕の、なんだったの?」

 死人に口なしとはよく言ったもので、君はうんともすんとも言う気配がない。まるでそれは出来の良い人形であり、そこに動かすことができる筋肉が一つもないように動く気配がない。

 君は、何かを訴えかける素振りすら見せない。君の夢は見るが、君が夢枕に立ち、僕の首を鷲掴みにすることもない。恨み節を詠うこともない。ただ、そこにいるだけ。

 でも、別にそれだけで十分なのだろう。最近僕は上手く寝付けない。寝てしまえば君を殺すことになるから。日に日に濃くなっていく目下の隈は君の恨みの表れなのかもしれない。どうして助けてくれなかったの、と。

 ため息をつく。そして寝違えたのか痛む首に手を添えて慎重に回してみる。そんなことをしながら、僕は君の名前について考えてみる。

 夢では、僕は君のことを名前で呼ばなかった。呼んでいたのかもしれないが、音は僕の耳までは届かずに霧散していった。だから僕は君の名前を知らない。

 もう一度、僕は君をまじまじと観察する。少し短めの髪、服は薄く緑がかったワンピース。そして最も目を引くのは、髪に咲いた数輪の小さな黄色い花。小さい花なのに、それのお陰で君が無機質な人形ではない、と思わせるほどに生気を感じさせる。まるでその芳香が今にも鼻に届き、僕の記憶の奥底の何かを呼び覚ますのではないか、と感じさせた。

 決めた。

 いつまでも君、なんて名前で呼んでいてはやはり浮かばれない。だから、僕は君に名前を付けることにした。世の中の遍く全てのものには名前が付いているものだ。なら、君なんて不特定単数を指す言葉じゃなく、君個人の名前を付けなくてはあまりに可哀そうだ。

 それは傲慢だろうか。ふいとそんなことを思った。だが、死人に口なしなのだ。それは決して死者を軽んじているわけではなく、それが世の真理であるから。生者は死者の口を借りてその名を語るものだ。あの人は素晴らしい人であった、とか、昔はこんなことをしていた、とか。それが真実であるとは限らない。真実は死者本人にしか知れない事なのだから。

 だから、君の名前という真実を知らない僕は、君の名前を語ることにした。

 君の名前は。

 「金木犀」

 秋口に咲くささやかな黄色い花は、町全体を匂い立つ芳香で覆う。君のそのヘアピンもおんなじだ。ささやかな黄色い花が、君の全体の印象を固定している。だから君は金木犀、だ。

 「ねぇ、金木犀。君は一体何者なんだい?」

 返事なんてあるはずない、そう高を括っていた。僕は半ば自己満足で君に問うただけだった。だからこそ、僕はその変化に驚きを隠せなかった。

 金木犀は、徐に腕を上げた。

 そして肩の高さまで上げたかと思うと、どこか遠くを指さし始めた。


 時は夕暮れ、見晴らしのいいこの場所は茜色に染まっており、斜光が目に収縮の刺激を与えてくる。高い建物のないこの場所は二メートル程の石柱が並び立っており、その間を細い通路が伸びている。

 石柱には各々文字が書かれているようだが、それは間違いようもなく墓石であり、僕には他人様の墓をまじまじと見る趣味はない。

 金木犀はずっとどこかを指している。家を出てすぐの時は指している方向に変化はなく、漠然とした目的地しか分からなかった。しかし、目的地が近づいていくにつれて指す方向に違いが生まれてきた。それはつまり、目的地を通り過ぎてしまった、ということになるだろう。そして行ったり来たり、行き過ぎ戻り、を繰り返した挙句の果てに辿りついたのがこの墓地だ。その時には周囲の気色は夕暮れとしての佳境に差し掛かっていた。

 金木犀が、一つの墓石を指さした。

 僕はその前に立ち、ゆっくりと視線を墓石に刻まれている名前に合わせた。

 しかし、そこには何も見えなかった。視界にノイズが走るようにして刻まれた家名が見えない。霞んだ視界が中央で邪魔をしてくる。手を目頭に合わせ、指で揉んでみる。しかし、やはり全く視界のノイズは消えることはなかった。

 慌てた僕は墓石の後ろに立っている塔婆にも目を移すが、そのどれも灰色の雑色がこびり付いているようで何も分からない。その墓石の輪郭以外の何もかもが僕には見えなかったのだ。

 いつの間にか金木犀は指を指すのを止めている。しかし、その代わりに僕のことを見ていた。胡乱げな目をしながら、少し首を傾けつつ僕のことを覗き見ている。その仕草はまるで「どうしたの?」と無垢な質問を投げかけているようだった。

 僕は思わずその仕草に返事をしてしまう。

 「なんか、何も見えなくってさ。折角連れてきてくれたのに…。あはは…」

 折角金木犀がこの場所を指し示してくれたっていうのに、僕はその何一つを受け取ることができなかった。視界に映るノイズは、そんな情けなさを象徴するように思えた。自ら向き合おうともせず、案内にかまけていただけの僕に、それを知る権利は与えられなかったのかもしれない。

 僕はため息をついた。それも特別大きなため息を。金木犀以外居ない色だけが特別に鮮明なこの墓地で、僕は情けなさを心の底から吐き出した。

 たかだか名前をあげたぐらいで思い上がり、何かが変わるのかもしれないと思った自分の愚かさを呪った。実際金木犀はこれまでに見せなかった行動を取りはしたが、それが僕の変化と同期しているとは限らない。つまりは、金木犀だけが変わり、僕は取り残されている。

 僕は金木犀を手放した。でも君は僕から離れない。それどころか前を先行しだしたのかもしれない。それに情けなさを感じない人は居ないだろう。

 「気に、すんな」

 途端、誰かの声が聞こえた。若い女性の声だ。抑揚は少なく、まるで出来の良い音声ソフトのような声が、僕のすぐそばで投げかけられた。

 僕は反射的に周囲を見渡し、その声の主を探す。しかし、ここには僕と金木犀と物言わぬ墓石しかない。ともすれば、その女性の声の出所はただ一か所しかなくなる。

 「気にすんな」

 また、聞こえた。そして僕はその声がどこから出ているのか確証を得た。

 金木犀はその口を動かし、僕を見つめながらそう言っていたのだ。

 死人に口なし、というのはどうやら迷信らしい。

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